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ローマの奴隷市場
    「何も選ばない」生き方のすすめ

ローマの奴隷市場「Slave Market in Rome」 Jean-Leon Gerome

(1884年/油彩/カンバス/ジャン=レオン・ジェローム/Hermitage, St. Petersburg, Russia エルミタージュ美術館)


ローマの奴隷市場「A Roman Slave Market」 Jean-Leon Gerome

(1884年/油彩/カンバス/ジャン=レオン・ジェローム/ Walters Art Gallery, Baltimore, MD, USA )


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近衛文麿とは(1)
    「何も選ばない」生き方のすすめ

中川 八洋著 大東亜戦争のたった一つの真実『近衛文麿の戦争責任』

兄弟であった陸軍エリートと日本共産党

たとえば、二・二六事件(一九二六年)のころの陸軍の「左翼」度は、共産党の天皇制
廃止とは逆に天皇に日本型レーニンの役割を担ってもらう幻想をまだ信条としていたが、
終戦のころは日本共産党と同様に天皇廃上が主流となり、親英米の自由主義者であり反。
社会主義者であった昭和天皇を(空襲からの安全のためという嘘をもって)満洲に追放して
ソ連軍に渡すことを画策したり、実際にも八月十四日深夜から十五日未明にかけての「宮
城クーデタ」では、皇居に監禁しポツダム宣言受諾の破棄を脅迫することになっていた。
その後は、銃殺すら検討されていた。
本文においてすでに指摘したとおり、陸軍の「ソ連仲介」も、その真意はソ連軍を日本
列島に進駐させることを視野に入れて満洲・樺太から沖縄までソ連に貢ごうとしたもので
ある。上記の先帝陛下の玉音放送阻上の「宮城クーデタ」の第一目的は、米国への降伏に
よって日本が自由主義体制に逆戻りする、それを阻止してソ連軍が日本に侵攻してくるま
で継戦するのが目的であった。


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武士道精神・騎士道精神のかけらも無い・・・
    「何も選ばない」生き方のすすめ

保坂正康著 『昭和史七つの謎』

第五話 なぜ陸軍の軍人だけが、東京裁判で絞首刑になったか?

東京裁判ふたつの側面

極東国際軍事裁判(以下、東京裁判と記す)を思うとき、私はいつもあるエピソードが気
にかかってきた。昭和史に関心をもつ者としては、このエピソードこそ、「史実」と「人園
の間を縮めるのにもっともふさわしいものではないかと思ってきたのだ。

(中略)

武藤章はスガモプリズンでときおり日記をつけていたのである。
「私の気持は不思議なほど冷静だった。今すぐ刑の執行があるならば、
私は昔の人々が立派な態度を以て刑場に臨んだと云うのに決して劣らぬものであり得ると思った」
その武藤のもとに、まもなくやはり絞首刑の判決を受けた東條英機が入ってきて、「君を
巻添えにあわせて気の毒だ。まさか君を死刑にするとは思わなかった」と慰められた。すべ
ての被告に刑がいいわたされたあと、ここには土肥原賢二、板垣征四郎、木村兵太郎、松井
石根、広田弘毅、東條英機、そして武藤の七人が入っていた。隣室の控室からは、ともかく
も絞首刑を免れた被告たちの笑い声などが聞こえてくる。武藤は、この日の日記のなかに、
とくべつに感想も記述せずに、
「隣室の方から話し声がきこえる。嶋田さんの嬉しそうな高笑が耳につく」
という一節も書いている。
嶋田繁太郎は開戦時の海軍大臣であり、昭和十九年二月から七月までは軍令部総長であっ
た。太平洋戦争はもともとは海軍主導の戦争でもあり、戦争そのものはある時期までは海軍
主導で進んだことだけは疑いえない。正直に武藤の心理を代弁するならば、自分がなぜ死刑
にならなければならないのか、海軍の戦争責任が連合国から問われないのはなぜなのか、嶋
田と自分を比較してみるならば、嶋田のほうに責任が大きいのではないか、といいたいので
はないかと思う。


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木戸孝允(桂小五郎)
    「何も選ばない」生き方のすすめ

木戸孝允は写真で見るところ、神経質そうで乱暴者のように
思えない。司馬遼太郎の作品でも、悪役として登場することも
無いので、好印象でいたのだが、太平洋戦争の開戦や終戦時の
いきさつで、この人の孫の木戸幸一が重要な役割(悪い意味で)を
担っていたことを知り、調べているうちに祖父である木戸孝允の
悪い一面に出くわしてしまった。

木戸幸一については、後でまとめることにして、ここでは
木戸孝允の一般的な印象とは異なる一面をまとめてみる。

下記で引用しているように、木戸孝允は日記では会津の
惨状について客観的に述べているのだが、敗者としての
会津人からは根強い恨みを持たれていたようだ。

以下は引用です。

1868(明治元)年9月、会津若松城(※4)が落城した際には、家々が焼失し、自刃した人、子どもも老人も刃(やいば)に倒れた姿があることを木戸は聞き、「不堪哀痛之至也(あいつうのいたり たえざるなり)」と日記につづっています。
(http://kirara.pref.yamaguchi.lg.jp/mag/html/vol214/omoyama.php)


因みに、斗南とは「北斗以南皆帝州」と言う意味で、現在のむつ市に当たります。
会津23万石から斗南3万石へと、8分の1に近い大幅減封となり、しかも、この土地は火山灰地で耕作地に乏しく、実収7,000石に過ぎません。
後に陸軍大将となる柴五郎は、その回顧録に、猟師に射殺遺棄された犬の死骸を、犬の飼い主に貰って2名の藩士が談合で半分に分け、家族が飢えを凌ぐと言った話を載せています。

柴五郎はその犬肉が喉を通らなかったのですが、その五郎を見た父がこう言います。
武士は戦場で兵糧尽きれば犬猫でも食って戦うものだ。
特に今回は賊軍に敗れて辺地に来たのだ。
会津武士は国辱を濯ぐまで餓死は出来ない。
ここは戦場なのだ。かくも凄まじい生活を強いられてきた会津藩の武士達ですが、元々彼等の総数は、4,000戸、17,000名とも言われていました。
しかし、8分の1の石高、しかも実収が更にその4分の1程度ではそれだけの家臣を養えません。

当然、彼等の殆どは斗南に行く事も出来ず、失業せざるを得ませんでした。
因みに、柴五郎の回顧録には、会津に帰る者210戸、農商に帰する者500戸、江戸その他に分散する者300戸、斗南に移住する者2,800戸、そして北海道に自発的移民をする者200戸と書いています。
斗南に2,800戸の人々が行っても生活出来ません。
明治新政府の人々は、これらの会津降伏人を軍務官の管理に置いて、北海道の開拓に向けようと考え、参議の木戸孝允にその取り扱い方を命じました。

木戸は1869年2月10日、こう述べています。
会津降伏の処も、いよいよ北地の論一決仕り候。
追々軍務とも相談仕り置き候。
一万余人を彼地に相移し候と申す事、中々容易に御座無く候処、先達来会津人の面々にも話し、篤と朝廷御旨趣も申し聞かせ候処、一統意外に奮発仕りおり候様に相察、朝廷の御為粉骨尽力仕りたき存念にて、主人重罪万分の一を相償たしとの志も相見え、如何にも憐れむべきの至りにて、且つ又朝廷の於いても、今日に至り候ては、天下御一視にて、会津人と言えども至る所皇国の民につき、此上は一人も其処を得候様あそばされたきの思食は申上るまでもなこれなく…。こうして、政府は箱館府に以下の指示を下します。
今度会津降伏人蝦夷地ノ内、発作(発寒)部、石狩、小垂内(小樽)3箇所へ開拓ノ為移サレ、右取扱方ノ儀ハ軍務官ヘ仰付ラレ候条、彼ノ三カ所同官へ引渡スベキ旨御沙汰候事。

とは言え、この頃の箱館府は榎本軍に追われて本土に逃亡していた為、実施は後の事となります。
なお、当時会津降伏人には1人当たり2人扶持の手当が支給されていたので、以前の伊達陪臣よりは優遇されていたと言えます。

7月8日、軍務官は兵部省に改組され、同時に北海道の統治組織として開拓使が設置されました。
兵部省は会津降伏人始末荒目途を作り、2年に4,000名、3年に8,000名の合計12,000名を移住させ、家屋3,000戸や農具など460万円、米9万石を要求し、更に石狩や小樽内などの小部落単位では無く、伊達陪臣の様な一円支配として、田城国と言うものを設置する様要求しました。
なお、北海道が11カ国86郡に分けられたのは8月15日なので、田城国は存在していません。

ところが、田城国の一円支配要請後間もなく、兵部省は田城国の開拓使移管を申請しました。
開拓使が設置されたのだから、開拓使が蝦夷地一円支配をしなければならないという論理でしたが、維新政府の実力者であった木戸孝允が怒って兵部大輔大村益次郎に阻止運動を進め、一端開拓使に移管された石狩近辺は再び兵部省管轄に戻ります。
短期間中に朝令暮改されて、会津人からしてみたら迷惑な綱引きです。

その様な綱引きがあって、8月15日の北海道国郡区画後、石狩郡、高島郡、小樽郡の兵部省支配が決定され、9月に更に瀬棚、太櫓、山越、白糠、阿寒、足寄の6郡も兵部省管轄となりました。

10月銭函に到着した開拓使判官の島義勇は、早々に札幌本府建設に取りかかりましたが、札幌に入る沿岸地帯が総て兵部省管轄となっており、札幌経営上、不便極まりない状態になっていました。
開拓使と兵部省の間に何らかの確執があった事が伺えます。

11月、開拓使と兵部省との間に協議が持たれ、1870年1月を以て兵部省は北海道分領支配から全面的に手を引く事になりました。
従来の兵部省支配地9郡の内、瀬棚、太櫓、山越の3郡に歌棄郡を加えて、斗南藩知事松平慶三郎(容大から改名)の支配地とし、会津降伏人、つまり移住の会津旧臣を総て斗南藩に委ねる事になりました。
他の石狩、白糠、小樽、足寄、阿寒の6郡は開拓使管轄に入ります。

しかし、斗南藩知事の松平慶三郎には還された旧臣士族を開拓の方向に指導する事が出来ませんでした。
結局は開拓使が受け容れて配置する他無く、降伏人引き受けをたらい回しにしたツケが回ってくる事になったのでした。

因みに、木戸が彼等を兵部省管轄に置く事に拘った理由としては、北辺対露紛争が生じた場合は、彼等の戦闘力に期待し、援軍が到着するまで玉砕覚悟で戦ってもらえれば良いと言う捨て石的な見方を持っていたのでは無いかとも言われています。
(http://s.webry.info/sp/nemuihito.at.webry.info/201206/article_25.html)




 旧会津藩士のうち、東京に移送され謹慎となった者達は元家老・山川大蔵を中心にしてお家再興の申請を政府に対して何度も行った。その結果、1869(明治2)年9月に家名再興の許可が下り、1870(明治3)年には新たに下北半島、さらに陸奥三戸郡、二戸郡、後志の瀬棚郡、山越郡をあわせて3万石ということで斗南藩の設立が認められ、2800戸の藩士一族と藩主(藩知事)、 松平慶三郎らは下北へ移住した。だが、そこは農耕には不適な土地で、移住した藩士たちはここで辛酸をなめることになる。一方で、降伏した会津藩士の処遇についても政府内で意見がいろいろと出され、参議・木戸孝允らは会津士族たちを北海道開拓に使おうともくろんだ。そこで、当時兵部省の支配地だった札幌に移住させることにし、その準備に取り掛かった。会津士族と北海道の 関わりは、政府の思惑によるところが大きく、その点が伊達、当別と違うように僕は思う。

余市の誕生
 話はちょっと前後するが、1869(明治2)年9月に兵部省は会津士族100戸を小樽に連れてきた。これは当初、札幌を開拓させようという目論見があってのことだった。だが、札幌には開拓使が設置されている。おまけに当時、政府機関でありながら兵部省と開拓使の仲は険悪だったそうで、仕方なく兵部省は当別開拓に会津士族を投入することにした。だが、翌1870(明治3)年、 政府施策により兵部省は北海道支配から撤退。会津士族は開拓使に庇護を求めたものの、開拓史はこれを拒絶。政府からは旧主を頼れという通達が出る始末。これではまさにたらいまわしである。だが、元の会津藩である斗南藩に彼らを庇護するだけの力はない。自分達の生活すら危うい状況だったのだ。そこで新たに設置された樺太開拓使に救済を嘆願した。当時、樺太開拓使の次官は 黒田清隆で、黒田はいったん余市で待機させたのち樺太へ移住させて開拓に当たらせようと考えてこれを受諾。一同、余市で樺太へ移住する日を待つことになったのだが、1年半後には樺太開拓使自体が北海道開拓使に吸収されてしまい、この話は立ち消えになった。そこで開拓使では会津士族を余市に定住させることにし、以後開拓募移民ということで保護、指導を受けて余市の開拓にあたることになる。(http://web1.nazca.co.jp/hp/comeshining/kyodo2.html)

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| ユニフォーム姿三四郎 | 10:41 | comments (x) | trackback (x) | ユニフォーム姿三四郎の幸せ::読書 |
於万の方は実子である媛姫を毒殺してしまった
    「何も選ばない」生き方のすすめ

はなかたみ様のブログ
http://blogs.dion.ne.jp/miraiki/index.html

上記のブログは本当に素晴らしい文体・内容で
常々拝見させていただいております。

「幕末、会津藩への義理から米沢上杉家は、
佐幕派として明治新政府と戦うことになります。」

米沢上杉家は「武士の娘(杉本鉞子)」の舞台となる藩
です。会津藩は「ある明治人の記録―会津人柴五郎の遺書」
の柴五郎さんを生みました。

現在の一般人が得られる情報として、この頃の敗軍の
状況を知る手がかりは少ないのですが、上記の2冊を
読めば、敗軍の中にこそ武士道精神や潔さが色濃かった
こと・・・が理解できると思います。

米沢藩がなぜ佐幕派に拘ったのか?ずっと疑問だった
ので、上記のブログを読んで、その「みなもと」とも
言えるべきエピソードを知ることができました。
ありがとうございました。


表題に戻りますが、媛姫は長女であることから
久しぶりの親子の集まりのうれしさのあまり
嫁入り前の席順で上席に座ったのでしょうか?。
父君が見えて、現時点では妹が上席に座るべき・・・
とたしなめられて、一つ下の毒の盛られた席に
座り亡くなってしまいます。

毒を盛らせたであろう母親の於万の方はもちろん、
姉妹、側近も父君がたしなめるまでは誰もが
その席順に疑いを持たなかった。徳川幕府の
始まりの頃の出来事であり、少し粗暴な時代で
あったはず。保科正之公は少し先ゆくお殿様
だったのかも知れません。いずれにしても
嫁いだとはいえ、まだ19歳の無邪気な年頃だった
お姫様が亡くなった・・・という悲しいお話です。

媛姫様のお墓は、ひときわ大きい立派なもの
だそうで、父君の悲しみの深さがしのばれます。



・・・・・以下は引用させていただきました。

2009年10月19日
清光院さまの話
 清光院 媛姫(はるひめ)。
 米沢藩主・上杉綱勝公の正室にして、会津藩主・保科正之公の息女とされます。
 父である保科正之公は、徳川家光公の異母弟でして、媛姫は徳川家康公の曾孫にあたります。
 上杉景勝公の孫にあたる綱勝公に嫁いだのですが、19才で亡くなったとされます。
 
 これは、別の側室の生んだ摩須姫が加賀前田家に嫁してしまい、媛姫の生母であるお万の方が実の娘が加賀前田家より格下の上杉家に嫁したのを恨み、加賀前田家に嫁した姫を毒殺しようとしたそうです。
 江戸の会津藩邸で保科正之公が姫たちを集め、宴席を設けたところ、お万の方が摩須姫を毒殺しようとお膳を運ばせると、正之公が
 「上杉に嫁した姉の媛媛より前田に嫁した摩須姫は上席であるから席を移すように」と毒の入ったお膳の席に媛姫がついて食事をして絶命したといいます。
 ことの次第を驚いた正之公が調査を命じ、実行者を処罰して、お万の方を幽閉したといいます・・・・。
 亡くなった媛媛さまは、米沢に埋葬され、清光院と号を贈られています。
 米沢・上杉家に負い目を感じた保科正之公が上杉綱勝公の急死後に相続者のいない上杉家に吉良家から養子を迎えて上杉家を相続させます。
 吉良上野介さまの子である上杉綱憲公ですね。

 保科正之公の死後、保科家はお万の方の子である保科正経公が2代藩主となりますが、子がなく異母弟の正容公が3代藩主となります。
 正経公は、正容公に
 「母(お万の方)にあいさつにいっても飲食は慎まれよ。」と注意したといいます。
 のちに保科正容公に「松平姓」が贈られ、会津松平家となっています。
 悲劇の姫さまは、米沢に眠っています。

 出羽・米沢にある清光院さまの墓はこちら
//yone-rinsenji.com/uesugi.html

この記事へのコメント
大河ドラマ「天地人」では、昨日とうとう景勝公の正室・菊姫様が亡くなりましたね。

保科正之公の娘であり、の米沢藩主・上杉綱勝公の正室の媛姫様の悲劇はあまり知られていない出来事です。

しかし因果応報か、金沢・前田家に嫁いだ摩須姫様も短命で、嫁いで僅かで亡くなっています。

摩須姫様の墓は会津若松の会津松平家の奥方や御子が眠る家族墓地にあるのは確認しています。(合葬墓でした)

この媛姫様の毒殺事件で生母のお万の方が幽閉され、正之公のそばから遠ざけられたとの事でしたが、正之公の死後は、現藩主の生母と言う事もあり、わりかし自由の効く身だったみたいです。

現在都内の某寺に残るお万の方の墓は、罪人らしからね立派な墓地みたいです。


Posted by A at 2009年10月19日 22:29
 瑞光院(お万の方)さまは、実子の保科正経公が藩主となり、幽閉を解かれて、その生涯をおえます。
 摩須姫さまの死後、加賀前田家から正経公の正室がいらして、加賀前田家との縁戚関係はつづいています。
 幕末、会津藩への義理から米沢上杉家は、佐幕派として明治新政府と戦うことになります。
 会津藩の家訓の
「婦女子の言 用いるべからず」は、保科正之公がのちに藩主生母となるお万の方が会津藩政に影響をあたえないようにしたためともいわれています。
Posted by はなかたみ at 2009年10月20日 17:15

はなかたみ様のブログより
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信長による家康暗殺計画と本能寺の変
    「何も選ばない」生き方のすすめ

徳川家康が明智光秀に恩義を感じていたことは
間違いない。だとすると、どんな状況で恩義が
成立したのか?が謎となる。

家康は信長に命を狙われていることを光秀からの
情報で知ったとか、実際に暗殺の実行者を信長から
任命されていたのに、光秀が実行しなかったとか。
そういうことなら恩義を感じて、後に光秀の関係者を
優遇したとしても不思議で無い。

明智氏の子孫である明智憲三郎さんの
「本能寺の変 四二七年目の真実 」には、信長の
家康暗殺計画と、それを逆手にとった光秀による
本能寺の変の成功があった・・・と考察されている。
信憑性が高い推理だけど、いくつか引っかかる
こともある。

書籍によると細川藤孝(幽斉)が事前に裏切りを
決めていたことで、光秀は討たれてしまった。
藤孝と秀吉との連携が出来ていたようである。

ただ、明智憲三郎さんは天海の光秀説は否定して
おり、日光東照宮の桔梗紋についても、似ている
だけで別の物と断じている。天海と光秀が別人
だとしても、光秀に縁のある人物であることは
可能性が非常に高い。日光に明智平と命名したこと
などは有名な話だ。

もし、天海が明智氏にゆかりのある人物だという
前提で検証すると、家康の時代に細川家が優遇され
ていたことが引っかかる。同盟関係にあったのに
山崎の戦いに光秀軍として出陣しなくれなかった
細川家に遺恨が残っていたはずなのに、細川家を
生かしておくことに天海は我慢できたのだろうか?。
(天海が光秀の子供などで、同盟関係を知らなかった
 としても、家康は細川家の裏切りを知っている。
 細川家の裏切りで歴史が変わったから、結果
 オーライで責めない?。ちょっと釈然としない。)


こう考えて見ると、細川藤孝(幽斉)は本能寺の変
について、事前に光秀と同盟関係を結んでいる訳
では無く、なんらかの情報戦によって知っていた
程度のようにも思えてくる。いずれにしても、
あまり知られていないが、この細川幽斉というのは、
恐ろしい数々の殺人や謀略を行っている。元総理の
イメージが強かったせいで、幽斉の武者の側面を
知ると、細川家のイメージが変わってしまった。


細川藤孝(幽斉)
   │
   │
┌─┼─┐
忠興 伊也 ─────── 一色義定
    (のち吉田兼治室)


【以下は全て引用です。】

家康の堺からの脱出について

「家康の堺からの脱出について」家忠日記に次のように書いています。
(六月三日)
「京都にて信長に光秀と織田信澄が謀反し、信長が死んだとの知らせが入った」
(六月四日)
家康は堺にいたが岡崎へ帰ってきた。家康以下、伊勢を発って大浜に上陸した。町まで
出迎えに行った。穴山は切腹した。道の途中で信澄謀反は噂に過ぎないと聞いた」

こうして家忠の証言をみると、梅雪の殺害が家康の陰謀たったことは動かしがたい事実と考
えられます。家康と同行した家臣たちは口裏を合わせましたが、思わぬ所で正直者が日記に書
き残していたのでず。

勝頓滅亡後、武田家の名跡は悔雪が継ぎまましたが、梅雪の死後はどうなったのでしょうか。。
いったんは梅雪の子、勝千代が継ぎました。ところが、勝千代は五年後の天正十五年(一五八
二年)に早世し梅雪の系統は絶えてしまいます。そして、この武田家の名跡は武田信吉が継ぎま
した。武田信吉とは誰あろう、家康の五男、万千代が名を政めたものです。

秀吉の使者は、家康が謀反に加担していたというようなことには一切触れなかったととみられます。
一つは、秀吉に捕らえられた斎藤利三が謀反加担者の名前を白状しなかったからです。
利三がロを割らなかったことを知って家康は安堵したに違いありません。このときの利三への強い
恩義の念が、後年、利三の娘の福(後の春日局)を孫の家光の乳母に採用することにつながったと思われます。

秀吉は家康が上洛するタイミングを掴むために、この杉原家次を家康一行に同行させていた。
なぜ家康にわざわざ同行させていたのでしょうか。それは家康が信長に会うために上洛する日が
本能寺の変の起きる日、ということを知っていたからに他なりません。

果たせるかな杉原家次は六月二日の朝、家康の上洛を確認すると、家康一行と離れ、堺を発
って蒲中の秀吉に注進しました。一惟任退治記」には、「備中秀吉の陣には、六月三日夜半
ばかり、密に注進あり」と書かれています。注進した人物の名は書かれていいませんが、家次が
最も早く注進できた人物であることは間違いありません。

藤孝・忠興父子は本能寺で光秀の謀反が起きることを謀反加担者として知っていながら、そ
れに加担しないことを事前に決めていたということです。
すでに本能寺の変が起きる前に藤孝父子が光秀を裏切る決断をしていたのは、藤孝と秀吉と
の間に新たな同盟ができていたからです。それゆえ藤孝の知る情報が秀吉に流れたのです。


細川藤孝への破格の論功行賞

ガラシヤ夫人として有名な細川忠興の妻・玉は光秀の娘でしたが、これも丹後の味土野に隠
させられただけで許され、二年後には大坂城下の忠興の屋敷に住んでいます。他にも光秀の一
族は徹底的に探索され、見つけ出されて殺された中で異例の処置といえます。

玉は天正十五年キリスト教の洗礼な受けて、ガラシャという洗礼名を与えらられ
ました。キリスト教に帰依したのは大坂に移ってからで、夫と舅が父光秀を裏切ったことで心
に大ぎな傷な負い、キリスト教に救いを求めたのでしょう
(ここまで『本能寺の変 四二七年目の真実』からの引用)



明智光秀は、細川藤孝の娘を義定に娶わせることで和議を結んだ。その後は信長に仕え、1581年の京都御馬揃えにも出席、甲斐武田氏の討伐にも細川氏と共に従軍している。 しかし1582年の、山崎の戦いで明智光秀に味方したが、藤孝の婿であったため秀吉には当初は黙認されたものの、やがて、秀吉から義兄の忠興に、義定が謀反を企んでいることの報せが届くと、義定を疑った義父の藤孝と義兄の忠興により宮津城に招かれて殺害された。義定の殺害と同時に、城内に入っていた旗本は皆殺しにされ、城下に控えていた雑兵100人も、松井康之、米田求政率いる軍勢に討ち取られ、その勢いで弓木城も降伏させた。
http://nagoya.xn--hp-nn7dt53b.com/4.html

「幽斉、老衰に及び、余命の程も分りませぬ、婿と舅になったからには、命のある間に親子の対面を致し、この老人を喜ばせていただきたく・・・」幽斉はこういって義俊を案内した。天正10年9月8日(1582)騎士三十六人、雑兵三百余人を従えて宮津に着いた義俊は、雑兵を城外に待たせ、侍どもを広間に残して書院に通された。 まず、忠興と義俊が向かい合い、一色家の家老の日置主殿介(へきとのものすけ)の座は忠興の右側であり後の襖一重隔てて仕手(討手)の士十七人がかくれていた。他の大勢の侍は、義俊を討ち取ると同時に、弓木城に攻めかかるため、玄蕃頭興元、松井佐渡守康之、立行是政らがひきつれて普請場のかげに待機していた。忠興の太刀は、中島甚之允が持って出て脇に置いたが、柄の勝手が悪かったので、米田宗堅が肴を運ぶついでに、わざと袴のすそを触れ、押しいただく拍子に少し鞘走ったのを押し込んで、忠興の手勝手のよいように置きなおした。 いよいよ盃がでた。義俊が何気なく盃を押しいただいた瞬間、忠興は抜打ちに、義俊の肩先から脇腹にかけて切りつけ、返す刀で主殿介に向った。太刀は勢州信長作。三尺八寸余の業物であった。主殿介は驚いてにげ出そうとしたが、中路市之允に討ち取られた。気丈な一色義俊は、脇差を抜こうとしたが、そのままどっと縁側に倒れた。
http://dayzi.com/zisyo/1-tango2.htm

天海の墓は日光が有名だが、実は滋賀坂本にもある。光秀の妻や娘が死んだ坂本城があった場所だ。しかも天海の墓の側には家康の供養塔(東照大権現供養塔)まで建っている。明智一族の終焉の地に、天海の墓と家康の供養塔…実に意味深だ。
http://kajipon.sakura.ne.jp/kt/haka-topic33.html

歌仙 - 兼定作。細川忠興の佩刀。忠興がこの刀で家臣36人を斬った後、三十六歌仙にちなんで名付けた。この刀の拵(外装)は美的に優れた物で「歌仙拵」と呼ばれる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%88%80%E4%B8%80%E8%A6%A7

歌仙兼定 (かせんかねさだ) 細川忠興所用 (「一期一振吉光」さん、紹介も♪)
細川三斎(忠興)の刀。肥後八代に引退していた三斎は、当主忠利を取り巻く近臣達の輔佐ぶりが悪いとして彼らを八代城に呼び寄せ、この刀で首を刎ねたという。その数が36人だったことから三十六歌仙に因んでこう名付けられた。
http://www.geocities.co.jp/Playtown-Dice/8180/syousi.buki.html

南光坊天海説
# 日光東照宮陽明門にある随身像の袴に光秀の家紋である桔梗紋[12]がかたどられている事や、東照宮の装飾に桔梗紋の彫り細工が多数あること。
# 日光に明智平と呼ばれる区域があること。天海が「ここを明智平と名付けよう」と言うと「どうしてですか?」と問われ、「明智の名前を残すのさ」と呟いたと日光の諸寺神社に伝承がある。
# 徳川秀忠の秀と徳川家光の光は光秀、徳川家綱の綱は光秀の父の明智光綱、徳川家継の継は光秀の祖父の明智光継の名に由来してつけたのではないかという推測
# 光秀が亡くなったはずの天正10年(1582年)以後に、比叡山に光秀の名で寄進された石碑が残っていること
# 学僧であるはずの天海が着たとされる鎧が残っていること
# 光秀の家老斎藤利三の娘が徳川家光の乳母(春日局)になったこと
# 光秀の孫(娘の子)にあたる織田昌澄が大坂の役で豊臣方として参戦したものの、戦後助命されていること(天海が関わったかは不明)
# テレビ東京が特別番組で行った天海と光秀の筆跡を鑑定した結果、「極めて本人か、それに近い人物」との結果が出ている。[13]
# 「かごめかごめ」の歌詞は「光秀・天海同一人物」を示唆したもの
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%99%BA%E5%85%89%E7%A7%80


比叡山に、慶長20年2月に「願主光秀」が寄進したと刻まれた石灯籠が存在する。
光秀の位牌を祀る大阪の本徳寺に残存する光秀の肖像画には「放下般舟三昧去」
という裏書があり、そのまま読めば光秀は仏門で余生を送ったという意味である。
斎藤利三の娘である春日局は、初対面であるはずの天海に対して最上礼である
「平伏」をした上で「お久しゅうございます」と述べた。
http://070404.sblo.jp/article/16722350.html

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平民苗字必称義務令
    「何も選ばない」生き方のすすめ

明治新政府は徳川封建社会からの転換のために、
一般庶民にも苗字を付けることを許した・・・といえば
聞こえは良いが、実際には税金の徴収や徴兵のために、
国民を戸籍によって管理しようとした。

下で引用させていただいた「名字はあった」では、農民や町民など
が、もともと存在していたにもかかわらず使用を許されなかった
苗字について、これを機会に使用を許されるようになったとの
見解である。しかし、それが苗字という概念だったのか?は
少し検討の余地があるように思う。

部落民についてのYahoo知恵袋の回答もあり、興味深い。
しかし、ここれ例として出されている星野さんという姓について
調べて見たところ、女優の星野真里さんの先祖のように
非常に由緒正しい家柄も存在している。地域によって
命名の経緯は異なっていたはずであるので、非常に
難しい。部落民に限らず、どういう風に名前を付けた
のかは興味深い。

また、山の民「サンカ」の人々については、なかなか
政府の管理下に入らなかったので、最後には山狩りを
されてしまい、無理矢理、名前を付けられたそうだ。
これも、やはり徴兵が理由であり、地元の警察署の
署長などが、成績としてアピールするための犠牲と
なったようだ。


【2月13日 苗字制定記念日】
1875(明治8)年のこの日、明治政府が「平民苗字必称義務令」という太政官布告を出し、すべての国民に姓を名乗ることを義務附けた。

江戸時代、苗字を使っていたのは貴族と武士だけだったが、1870(明治3)年9月19日に出された「平民苗字許可令」により、平民も苗字を持つことが許された。しかし、当時国民は明治新政府を信用しておらず、苗字を附けたらそれだけ税金を課せられるのではないかと警戒し、なかなか苗字を名乗ろうとしなかった。そこで明治政府は、1974(明治7)年の佐賀の乱を力で鎮圧するなど強権政府であることを誇示した上で、この年苗字の義務化を断行した。


【名字はあった】
 明治3年9月19日に出された太政官布告を注意深く読んでみると、
  自今平民苗字被差許候事(これより平民、苗字差し許され候こと)
となっている。

 つまり「つけなさい」というのではなく、「使用することを許す」というのであるから、今まで使えなかった苗字を使うことが出来るということになったわけである。
(http://www.gem.hi-ho.ne.jp/sogenji/rakugaki/myouji.htm)



【被差別部落民は明治になってどうやって苗字を決めたのですか。 】
明治4年に太政官令により差別部落の人間にも苗字をあたえることになりました。それまで苗字を持つのは武士と一部の苗字帯刀を許された者に限られていましたが、百姓・商人・職人なども晴れて苗字を名乗れることになりました。庶民には苗字はなかったのかというと、そうではなく、あっても名乗れなかったのです。苗字がなかったのが差別部落の人々でこの人たちは人別帳外(戸籍がない)として年貢を納めることもなくそのかわり土地ももてない生活でした。明治4年太政官令ではこれらの制度を廃止して差別部落民にも苗字を与えようという画期的な試みがなされたのです。しかしそこに巧妙な罠が仕掛けられました。差別部落民は100年の後までも区別がつくように苗字には星・人体の名称(手・足・耳・頭・目など)東西南北・大小・動物の呼び名・松竹梅・神・仏などを使ったのです。たとえば星、星野、小松、大仏(おさらぎ)神川、見目、猪口、熊川、神尾・・・などです。これらの苗字をもつものは100%差別部落出身かというとそうではなく由緒ある家もありますから決め付けることは出来ません。しかし役所は区別できているそおです
(http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1020697460)


【1004 サンカ生活体験記 3】
 大山見という姓は、戸籍に上がっている譯ではなく、ただ、傳承相續されているも
のであるが、昭和五年の國勢調査のとき、公文書に正式に「大山見」の姓を漢字で申
告したのであった。大正九年の第一回の国勢調査の時には無申告。山を歩いていたの
で、わざと申告洩れになったが、第三回目の昭和五年には、東京の石神井にいたので、
訪ねてきた調査員にはじめて正式に申告したのだという事である。
 大山見の、コトツについての説明によると、セブリがこの天の下に出現したのは、
既に天照皇大神の御治世のとき、大山見命(おおやまみのみこと)が、穴居拂(あな
ゐばら)いの神になって、國民(くにたみ)を地上に引き出して、セブリ・タツキの
ムナハリにさせられたのがその始まりで、現今(いま)のセブリもその時のままであ
るとの事である。
 ムナハリ(棟張り)のセブリというのは、前に二本の柱を合掌に組んで地に刺し、
一本の棟木を上にのせ、その後方は岩土に刺して、その一本棟木に幕をかぶせて三角
形のニ方に張る、きわめて簡単なもので、キャンプの天幕張りなどよりも素朴である。
これを「穴居(あなゐ)脱(ぬ)けの瀬降(せぶり)」という。出雲の建築に似てい
るのは故伊藤平左衛門氏も説く。
 さて「このセブリとは、どういう意味であろうか?」となると、
初めて聞いたところでは、「眠るところ」「寝るところ」「憩うところ」「休むとこ
ろ」として、世に発表してきたのであるが、大山見の解説によって、セはセイ(勢)
いっぱいの心で、ブリは、まっすぐな状態(ありさま)で、ただただ、命を欲しがる
意味で、タツキ(生活)するところの表意であると知った。要するに、やわらぎをお
さめる所ということになり、漢字で表現すると、修理固成をする所という事になるそ
うである。
 さらに、大山見は言葉を次いで、大正三年十一月十九、二十日の両日にわたって、
日本全国のセブリの國一(クズカミ)が、相州のあるところ(厳秘というが大山石尊
のある場所)に集まったとき、セブリはヨサグリ(世探り)の事で、瀬踏みの意味も
あるということを決定したという。
 瀬踏みとは、川の瀬が浅いか深いかを足で踏み探ることであるが、世探りというこ
とになると、
(こんな土地にセブリを張っても、はたして仕事があるだろうか?)
と首をひねる事になる。そいういう意味か?と訊ねると、そこまで突き詰めた意味で
はなくて、「こうして生きているだけでも、世探りじゃないか」と言った。
 私[三角寛]は、過去三百篇の著作に、セブリに「瀬降」という漢字をあてはめて
きたが、右の説を聞いてから「降」の字は無理で、強いてあてはめるなら「瀬踏り」
かな?と考えたのもその時からであったと三角寛先生は説く。
 セブリは定居ではない。
カケ(駆け)リマス(坐す)セブリで、カケ(駆け)マ(間)で、スグイ(巣喰い)
などと彼らは言っているが、移動中に暫時住むだけのものが天幕である。
 「武蔵野にありといふなり逃水の逃げかくれても世をわたるかな」
これはサンカを詠んだものだという説に、しばらく耳を傾けた時もあったが、別に彼
らが逃げ隠ればかりしていたとは思えぬので、虹の事を逃水と言ったというけれど、
どうもそうではなく、蜃気楼みたいな意味だろう。
 また、イツキ・サンカに関しては五木寛之あたりの御先祖様にあたるのだろうが、
カケ(駆け)モリテ(漏りて)イツキのセブリにセブリて、ミアミテ(箕編みて)イ
ノチキス(生活する)
といった暮しぶりで、この中のミアミテの言葉は、海の魚を捕る者は、「ウナトリシ
テ」、川魚を捕る者は「カナトリシテ」というし、刃物研ぎする者は「ハモノスルド
ニシテ」などとうたうのである。
 これは、これからその場所に居附く事を天地に祈念するタマゴト(魂の言葉)なの
であると言っていた。
 「駆け漏りて」というのは、一種の脱落とか落伍を意味している。元来ならば風の
まにまに飄々として駆け動くセブリモノが、この駆け歩きから落伍して定住する事を
表現していいるところが面白いと三角寛先生はいう。
 彼らは、ここに居附くと心に決めると、双刃(もろば)のウメガイを抜いて、飛ぶ
虫、這う虫、物の怪(け)の禍を断つために、空を斬り払って、右の魂言を唱える。
まぁ彼らがおまじないとしているのだろうと思える。
 西暦11世紀の初めに、九州の太宰府まで青い目をした南蛮賊が来攻した。藤原道
長が剃髪した翌年の事である。すぐさま原住民の飼戸の民が集められて防人として急
遽九州へ送られた。
 当時は軍需工場がまだなく、各部落の鍛冶が総動員されて、持たさねばならぬ刀を
作らせたが、忙しくて剣のように両刃をつけていては間に合わぬせいか。また、そう
した武器を持たせて、逆に藤原氏を攻めてきては治安上から大変と用心したので、切
先三寸だけに刃をつけさせた。
 これが日本刀の始まりで、片刃で先端だけにしか刃がなく、並べて素足で踏んで歩
いても怪我をせず真剣白刃渡りもできた。恰好がつかぬから後には昇り竜や下り竜の
彫刻をつけた。
 外国で日本刀を珍しがるのは、双刃でなくて左右にも上下にも使えず剣にならず、
武器としては全然半端なので常識的には納得できず、その彫刻から美術品として扱っ
ているのである。
 唐語で片刃つまり「一」は「イ」とよぶから、我々は日本刀と呼ぶが、藤原氏は
「刀イ」と名づけ、「刀伊の乱」と日本歴史には、この際の外敵侵攻の事を、それゆ
え名づけているのである。
 ところが、サンカの持つウメガイとよぶものは、日本刀とは全く違い、双刃の鋭利
な刃物である。という事は、サンカは日本刀が生産されだした西暦1019年以前、
つまりウメガイは唐や百済の双刃の剣次時代からのものである。となると、サンカの
発生たるや、彼らの討伐時代以前からの事の裏付けとなる。
 つまり、日本刀と違い全体がハガネゆえ、これを三等分四等分して短刀にして分け
て、それぞれが携帯したものとみねば、ウメガイが鋭く両刃であった謎は解けはしな
いのである。
 三角寛先生説では前著のP38において、そうした解明はせず、短刀で一刀両断は
おかしいが、
「このウメガイは鋭利な双刃の短刀で、初めのうちはウモレ(埋もれ)ガヒ(貝)の、
原始刃物から出た名称と思っていたが、昭和十四年九月十七日、島根県神門川水源の
赤名のセブリや、昭和十七年三月十四日、島根県日野川水源の船通山のセブリで探採
したものや、その他三ヵ所から探採した資料によって、神代以前はともかく、神代以
後においては、ウメは、ミゴト(絶妙)のウマシ(美事)で、すばらしい事の表意で
あり、ガイは、カヒ(峡)で、断ち割りで、山をも断ち割るの意だという。すなわち
一刀両断の断ち斬りを表意した刃物である。つまり、これを持っているかいないかで、
それがサンカであるかないかが判別されるのであって、このウメガイは彼らサンカの
象徴である」
といったような説明を、先生はなしている。
 しかし日本全体へ鋼鉄の剣が大量に入ってきたのは、唐が滅ぼされ契丹に代わった
時である。祖国ともいうべき大唐国が天祐哀帝の代で滅んだのであるから、藤原時平
が死んでも跡目を継ぐ者がなく、今の首相にあたる「内覧」の後の関白職はずっと空
位の侭で二十年経過し、朱雀帝の代になって「後唐」と呼ばれる同光荘宗帝がまた位
についたと聞き、愁眉を開き藤原忠平が位についたものの、藤原氏を蔑み京は騒然た
る有様で、群盗が都大路を横行した。
 都では壱岐対馬から契丹軍がいつ攻め込んでくるかと、生きた心地もなかったが、
後唐ができ、よってトウで固まった御所でほっとしたのも束の間、十三年にして高祖
天福によって又も滅亡。
 日本歴史では唐を滅ぼした契丹の国名を忌み、「後晋」とよぶが、彼らは中国東北
部より日本海を渡って能島来島の水軍衆に鉄剣や食糧をわたし、坂東八ヶ国へ追われ
た原住民達が荒地を耕し、どうにか収穫できる土地になったのに眼をつけ、藤原氏が
取り上げ荘園にし、住民を追い払って土地を売って儲けようとしていたので、それへ
も契丹の武具類を運ばせた。
 いつの時代でも武器と食糧なしでは武装革命はできない。しかし出雲方面から補給
が受けられた純友は、従五位の官位を与えると都で甘言に誘われても、二度にまで及
んで京を焼き討ちにしてのけた。
 が、坂東八ヶ国の方では楯を失ってしまうと中華城の鉄楯を奪って廻ったが、それ
でも数が足りず契丹からの補給がきかず、最後は負けて東北の奥地に追われて収容。
これを俗に天刑とか天慶の乱とか、架空の存在にすぎない平将門の乱などと称してい
る。
 多武峯に蔵されていた鉄楯や鉄剣鉄矛が、郭ムソウが進駐した時に夥しく取り寄せ
てあったので、契丹から直接に援助武器の輸送が来なくなった坂東の者らは、それに
追われて逃げた。
 が、その時に、彼らは契丹から最初に渡されたハガネの剣は持って逃げた。そして、
失ってきた仲間に分けるため三等分や四等分として互いに身を守る武器とした。が、
切断して分けただけでは剣といっても鉄棒である。そこで突端を尖らせ、鋭利に双方
を磨く仕事が急務となった。
「スルド」とよぶサンカ用語でいう任務は、スルドく磨きをする彼らの業務で、大正
から昭和初期までは、ラオヤ[羅宇屋?]とよぶ煙管直しとともに、各家庭を廻って
歩き、勝手口から顔を出して、
「包丁の切れ味の落ちたのを、すぐ切れるようにします」といって廻っていた研ぎ屋
がこれで、江戸時代には「白化け」といってトケコミ、騎馬民族系の町屋の中に店を
設けて堂々と「御刀剣砥ぎ師」の看板を出していた。
 というのは、日本刀の切先三寸の付け焼刃は、すぐ欠けるから普段はそっとしてお
き、抜刀して使う段になって初めて砥ぎ師の許へ持参して、
「寝た刃を起こしてくれ」
と、砥ぎ師に切れるように磨かせたものだから相当に繁昌したのが、明治五年の抜刀
禁止令から刀砥ぎ[の需要]がなくなって、台所口から鋳かけ屋と一緒に顔を出すよ
うになったのである。
 が、問題はウメガイの呼称である。別に絶妙とか美事といった意味ではない。
彼らにとっては残された唯一の武器なのであるから、人目につかぬよう一セブリごと
に糖油で刀身をまぶして錆させぬように匿し持っていたもので、振りまわしたり切れ
味を見せはしていないから、ぜんぜん三角先生説は違うようである。
 刀の柄にはめた木の部分に焼き火箸で五ツの紋をつけていた。日本では梅鉢という
が、契丹の国章の略印なのである事を改めて判ってほしい。
 契丹から渡来してきて、唐は既に亡国ゆえと遣唐船をやめさせ、初めは蔵人頭だっ
たのが、宮中がトウ勢力一辺倒なのを行政改革しようと、左大将の藤原時平の対抗馬
に右大将にされた菅原道真だが、やはり日本の中央権力を占めている宮中のトウ勢力
によって、僅か二年で九州太宰権師として左遷されて暗殺。後に罪なくして殺された
怨霊が天界より落雷させて祟りをなすと、封じ込めの為に「天満宮」を官製でもって
北野に建立して災い除けにされた。
 新羅や高麗系ではないから神とか神社とかせず「宮」としたが、ここに掲げられた
紋が梅鉢である。つまりウメガイが大量に日本列島へ渡ってきたものの、母国唐を滅
ぼした不倶戴天の仇敵と公家はみて、同じ大陸人なのに「賎」に落とし、でっちあげ
の天刑(慶)の乱を口実にして東北へ追い、瀬戸内海の純友の一族は紀ノ川の流域の
川州へ押しこんだ。
 つまりウメガイを、その民族のトーテムとしてもち、平氏系や源氏系の先祖となる
ハタムラの中へ逃げ込んだのが、現代のサンカの起りとみられる。後から追われて加
わった契丹系が、大陸からの最新入国人で、知能程度が高く、いつの間にか反体制集
団の頭になっていった。
 しかし、民族別には紀元前からの[姓の最初発音が]エ系列[の人々の祖先]、そ
れに「源・平]と後にはなる[民族カラーが]白赤系と雑多なので、「一セブリ」と
して一家族単位に分かれて自由に行動させ、五つを一単位として天神と称した。


ハタムラとよぶ掟

 ヰツキは、きわめて善良民である。決して一般社会と相反する行為をしない事をヤ
ヘガキ(八重書)としている。ヤヘガキとは、彼らの憲法のことである。つまり身分
素性を隠して庶民の間へとけこむためのやむを得ぬ掟であろう。
 ヤヘガキは陰陽のサンカに共通の憲法であって、彼らは、これをイヅモヤヘガキと
も云っている。つまり出雲神話を後からくっつけたものらしい。出雲憲法のことであ
る。
 これはサンカには伝承では最も重要な事柄であると三角寛先生は説明する。
この憲法に基づく秩序維持のための、乱行規正の規律のことを、また、ハタムラとも
いうのである。ハタは、「端々迄(はしばしまで)も」であり、とはいうが、ハタは
八幡であり初めは平氏。古代新羅語では後の源氏の俗称となる。ムラは「牟禮(むれ)
」つまり「群れ」即ち村である。端々の村まで一人のこらず守ることを、ハタムラと
いうのである。
 陰陽ニ態のサンカは、いずれも全く天下の自由人であるが、それがまた厳しいイズ
モヤヘガキによるハタムラを規則としているところが、無政府主義でありながら、サ
ンカ社会の特異なところである。
 このヤヘガキは、八重書とはいっても、六法全書のように箇条書きにはされていな
い。毎年一回全国の国知(クズシリ)(旧国郡制による国のセブリの長)の一が集ま
って、ハタムラの「サラタメ」という大切な行事を開くのである。
 これを一集(かみつど)い、と呼ぶが、これを「カンド」ともいう。ツドヒのツと
ヒを省いて、集まることを「ド」という。このドリ(集まり)とか、このドリカタ
(集まりの様)は、などというのは「賎」の日本原住民は奴隷のドと差別されていた
せいであったからである。
 サラタメという言葉は、「更に改める」という意味であるが、新しい法律を新しく
制定し、旧法を改廃するという意味ではない。昔から伝承されたサンカ社会の憲法で
あり、法律(ハタムラ)である約束(きめごと)を、時流に合わせて、どういう風に
運用するかを相談し合うことがサラタメで、これはサラヒなのであり、サラヒ(把‥
‥さらひ)、したがって、その意味を的確に言うならば、「ハタムラのおクシスキ」
である。クシは櫛であり、スキは透(すき)である。クシは鶴岡八幡宮に今も現存の
マンコぐし北条政子のものが日本では最初のものという。物事の筋目を正しくするこ
とが透成(すきなし)であり、クシスキらしい。
 ハタムラのクシスキがすむと、国一(クズカミ)の下の親分にあたる、郡とか郷と
かの親分、すなわちクズコの一(かみ)が集まる。
 そうすると、新聞や官報も見ていない一同に世の移り変わりを教えてから、決まっ
てサンカ社会では、前述のように毎年一回、改めて一般に周知させられるように説明、
一の親方は戻ってまた部下によく言ってきかせるから違法者は出ないのである。
 一般社会とは違って、法三章主義で、毎年毎年法律を作るわけでなく、日常の起居
そのものが慣習で、その慣習法がヤヘガキである。それだけにあまり変りがなく、サ
ンカ人全体に周知徹底ができるわけである。
 その内容は、部外者には一切口外しないことが、またハタムラである。と彼らは勿
体ぶってなかなか言おうとはしない、絶対的な秘密主義を守っている。
 そこで、三角寛先生は「サンカの社会性」の50Pから51Pにかけて、きわめて
判りやすく説明する。その厳しさの中から探採しただけで、ハタムラの全部について
論ずる事はできないが、箇条は成文ではなく、慣習法がヤヘガキであり、ハタムラで
ある。先生はこれをサンカの伝承法といっている。
 箇条書きになっていないものを、組織、総統制、生活などと項目に分類して並べ立
てるのは研究者の仕事であって、そのサンカそのものの社会には分類や項目などとは
區分はされていない。純血日本人として七世紀以前から一致団結しているからである
と考える。
 ハタムラが厳格に守られている一つの例として、一夫一婦制のハタムラの如きは、
我々一般人がとても想像する事をすら許されないほど厳格さで、そのものずばり女上
位なのである。
 武蔵一(明治二十七年八月一日、東京石神井生れ)は、武蔵全体のクズシリ(親分)
である。現在は埼玉県南部の豊岡村附近を縄張(タチバ)に瀬降っているサンカであ
るが、昭和二十七年九月六日、埼玉県熊谷堤のセブリで、その妻テル(明治四十五年、
下谷萬年町の居附セブリの生れ)から三角寛先生がきいた話がある。
 武蔵サンカの寄居一郎(明治四十年七月十日、寄居赤濱生れ)は、七歳年上の花子
と夫婦(マグイ)である。その花子が、サンカには珍しい中風を患って病臥したまま
であった。一郎は寄居に居附の瀬降を作って、そこに病妻を寝かせて、十一年間介抱
し続け、昭和二十六年十一月九日、花子が死ぬまで、妻一人の貞操を守り続けたので
ある。これは普通の男にはとてもできる事ではないが、つまりこれがサンカの掟なの
である。
 ところが、花子が妻としての役目が果たせないのが原因で、一郎は気が荒み、粗暴
になるかと思うと、急に泣き出したりするということを聞いて、武蔵一の妻テルが、
寄居の瀬降に見舞いに行く途中、輩下にあたる箕作りの小山北吉の越生(おごせ)の
セブリを訪ねたとき、待ちかねたように困ったように、その北吉が言うのには、
「一郎は、あのとおりの男前だし、腕がいいので金も取れるから、熊谷邊の呑屋に行
って、こっそり女を買おうとしたが、夫婦(マグイ)の掟(ハタムラ)があるので、
呑屋の女はその気になっていたが、ついに手を出すことができずに、急に泣き出した。
驚いた呑屋のおかみがわけを聞くと、『家(セブリとは云はない)に十年も中風を患
っている家内がいるので、俺ぁ気が狂いそうだ』と言ったという。それで、おかみま
で同情して、『女ならいくらでもいるじゃないか。泊まってゆきな』と云われたが、
『それができるくらいなら泣きやしねぇ』と言って泣く泣く店を出ていった‥‥」
この話を聞いたテルは、
「これだけは貸す事はできないから、中風でも使い方があるんだから、それを教えて
くる」
と言って、北吉の妻のハルを連れて、一郎の瀬降に行って、蓬湯(よもぎゆ)で腰湯
を使わせ、妻のつとめができるようにしてやった。そのお蔭で一郎は頭が狂うことも
なく、最期まで半身不随の花子を大切に見てやる事ができたという。病妻の死後、寄
居一郎は、十七歳の純粋(ハラコ)のサンカ娘キヨ子を妻にしているということであ
る。
 このような自制は、容易な事ではないが、サンカの掟(ハタムラ)として、厳しく
それを守る事が彼らにとっては通念であり、信仰にもなっている一例である。まった
く女を大切にしたのも七世紀に進駐軍から逃げ、手をとりあって脱走しあってからの
掟である。
 こうした諸々の掟に縛られて、この約束(キメゴト)から外れないように彼らは生
きているのである。今ではトケコミで完全に普通人とは変わらぬようになっているの
で、見つけだすのは困難だが、サンカの血脈をひく男を夫に選ぶ事ができたら、半身
不随になっても脊向位や側向位で、あの方の欲望は満たしてくれるし、生涯とても大
切にしてくれて浮気などは全然しない。
 よく中年の男性で、これまで浮気をしたことはありません、というのがいるけれど、
それがもし本当ならば、その男性は明治から「とけこみサンカ」の血を引く証明とも
いえよう。
 現代でさえ香港へ行けば、生涯に九人の妻を持つのが男子としての本懐なりといっ
ている。明治まで「良」と大宝律令でされていた大陸系の血を引く男は、亭主関白で
妻妾同居すら平気である。だから、サンカのような純粋なのは、いわゆる一穴主義を
押し通しているから、
「月給袋を丸ごと封を切らずに妻にわたす」
といった夫も、やはりサンカの血筋をひくとみられる。ということは、三角寛先生の
説くごとく弱小部族ではなく、サンカは人口の二割近い事になる。
 さて、一セブリは夫婦を単位とする子供達との家族制だから、男は食物を探したり、
それを賄う賃仕事をして、家庭は一切赤ネルのオカカが後顧の憂いのないようにして
いた。それが、明治になって警察国家こそ近代国家なりと岩倉訪欧団が帰朝後、亨保
時代から八部衆と呼ばれる古代海人族系の放浪の赤の者等に朱鞘の公刀と取縄を渡し、
鉄火場開帳を黙認して費用に充当させ、逮捕権裁判権の一切を任せていたのを明治政
府は取り上げて、旧士族のポリス制度と改変。徴税と徴兵のために戸口調査を全国的
にやり、無申告のサンカの刈り込みをした。
 ずっと一夫一婦制だったサンカ社会も、このために娘を身売りして税金を払わねば
ならぬような仕儀となった。そのため明治時代の遊郭は殆どサンカの娘達ばかりの有
様となった。
 が、なにしろ、反体制の血をひく彼女らである。そこで有名な東雲(しののめ)楼
の梅鉢お女郎さんのストライキを皮切りにして、各地で待遇改善のゼネストが次々と
起きだして騒ぎが広まったので、
「ウメガイのチョウズバチ叩いてお金がなるならば‥‥」
といったシノノメストライキの唄が全国的に広まってしまった。
 歌詞は、それまで山野または川で自由に用をたしていた娘たちが、一定の狭いとこ
ろで放尿をさせられ、かつては皮屋がアンモニアの代用に小水は買ってくれたものを、
垂れ流しさせるとは何事かというので、きんかくしと呼ばれる板にみな己れらの民族
トーテムの梅鉢つまり焼火箸で五つの穴をあけていたのを叩いて不平を洩らしていた
のが、ストライキの原因だったというのである。
 しかし、サンカの女性は女上位で、お客の下敷きにならずに馬乗りになるのが珍し
く一般うけしていたので、女郎へお客の声援があったのである。
 ウメバチというのは加賀百万石前田家の定紋でもあった。雨が多く雪深い金沢が、
文化都市であるのも、諸国のサンカのメッカで色んな芸能類をもちこんだせいである。
五木寛之も金沢にいたが、泉鏡花のドロドロした夢幻的な小説は、あれはサンカ伝説
によるものが多い。
 また徳川幕府が外様大名を頻りと潰したのに、加賀百万石には手を出さなかったの
は、全国に散らばっていて、秀吉の内乱防止の朝鮮外征に先立って強制執行した刀狩
りにも、ウメガイだけは供出されていず、槍ならば別だが片刃三寸の日本刀ではウメ
ガイに太刀打ちできぬのは当時よく知られていたから、前田家に弾圧を加えたら、諸
国のサンカの一斉蜂起を惧れ、ために幕末まで銭屋五兵衛の事件があっても、国替え
も減封もできなかったといわれる。
 前田の先祖ともいえる前田犬千代利家が、信長に小姓時代から仕えても、今でいう
スパイとして今切浜の今川義元の舶来鉄砲や、ポルトガル硝石輸入に三年も見張り人
の小者に化けて潜入して探っていても、たいして取り立ててはやらず、柴田勝家の寄
騎として僅かに二万石の石川能登城主にしか処置しなかったのも、八の出身の信長に
すれば、契丹系の異民性といった差別が、そこにはあったのだろうか。
 利家に勝家を裏切らせ先遣軍とし、柴田勝家を自滅させた秀吉にしても、やはり八
の出身ゆえ、ねねが若い頃に利家と関係があったとはいえ、その娘の於松を己が側室
に召し出している。
 さすがの前田利家利長父子も、秀吉が死ぬと家康に寝返って百万石に大立身したの
だが、それでも用心して前田利長のごときは、鼻毛を2センチぐらい伸ばし、あえて
阿呆面をし、用心して警戒されぬようにしていたと伝わる。
 しかし、サンカの反骨精神というか、反体制の血の流れというか、徳川二百七十年
間にわたって、「絵本太閤記」とか「秀吉と石川五衛門とは幼馴染み」といった反豊
臣ものは前体制ゆえ許され読み本や芝居になったが、信長ものだけは絶対禁止。
 なのに前田家では、今では活字本になってはいるものの、茶道具の宣伝パンフレッ
トなみの「信長公記」の原本を三世紀にわたって門外不出で匿しとおしてきたのであ
る。万が一にも露見したら、いくら諸国のサンカが蜂起しても、当主の切腹ぐらいは
覚悟せねばならないのに、よくも三世紀近くも隠しも隠していたものである。桑田老
が茶器ばかり書き加えているが、それでも前田家に揃いが一組あったればこそ、今日
の「信長公記」はどうにか読めるのである。


サンカを利用したのはCIA

 足利時代の東西の散所奉行によってなされた、南朝側の遺臣を主にしたアミ掛け式
の特殊部落は、徳川期になると、騎馬系の「四つ」と海洋系の「八つ」を交互に組み
合わせて、毒をもって毒を制するの治安方針をとって、幕末の弥次(八)喜多(北=
四つ)道中記の統一革命の読み本の貸本が、春本壇の浦合戦や、こうもんマン遊記と
共に大いに読まれて御一新となったが、サンカの社会では、今でいう駆け込み寺みた
いに各地から逃亡してきた連中がサンカに入れば女房がもてて、一生セン(賎)ズリ
で自分の事は自分で始末しなくともすむというので、次々と、日本六十余州といわれ
るくらいの数多くの諸民族が入り込んできたので、到底これを部族別には今までどお
り分けられない。 そこで、腹子と雑っぽ(ザボウ)のニ等分にして、出自はいちい
ち詮索しない事にした。
 ハラコというのは、三代を経て、四代めからをハラコという。セブリ生活を三代続
けた先祖をもって、その腹から生れた者だけがハラコである。つまり純血日本人とも
いう。同腹の兄弟姉妹もハラカラであるが、サンカは異腹異父の兄弟はありはしない
し認めないので、ハラコに限ってハラカラと明白にいう。これも一つの掟(ハタムラ)
である。
 このシステムは足利時代、日本原住民にして室町御所に仕えたい者には剃髪させ、
ナムアミダブツを百万ぺん唱える条件で、治安維持上、武技には無関係な花、茶、書
画等をやらせ、「阿弥」といった名をつけ、同朋に近づいた衆として同朋衆とよんだ
のを真似したものであろう。
 ザボというのは、一般人がサンカの部内に転入した者をさしていう。ザボチともい
うが、正確にはザボオチ(一般落ち)である。このザボが三代続いてセブリ生活を続
け、四代目になると、はじめてハラコになる。ハラコはザボより上席である。道を歩
くときも、ザボはハラコの先をゆくことは許されない。(絶対にこれは厳しい戒律で
ある)
 つまり、先輩と後輩といったような区別を、簡単に彼らはなし分けていたのではな
い。ハラコだからといって、ザボといって、年に一回セブリが五つ単位で各国別に集
まる時だけ、その座る際の席順が左右に区別されるだけで、他は別にさほど差別され
るような事はなかった。
 しかし、子供を学校へあげたいとか色々な理由で戸籍を作って「無告の民」の自由
人から、町村役場で戸籍を作ってしまった者は、「シロバケ」つまり素人化けといっ
てウメガイを戻す掟があって、ハラコでもザボでもそうなったらセブリは作れず、居
附サンカになるしかなかった。後悔して戻り新参すれば、かつてはハラコの身分でも
ザボの下の位置となった。
 日露戦争の時、血の気の多いのが進んで兵士になるため戸籍に申告して入籍して出
征した。二○三高地で戦死したサンカも多いが、めでたく金鴻勲章を受けて戻ってき
たのもいた。
 当時としては、栄えある凱旋軍人だったが、サンカの仲間へ戻れば、シロバケモド
リとして、それから子、孫、次の曾孫の代になるまでは前には戻れないし、又、江戸
時代の寺人別帖みたいな町村役場に戸籍を作ってしまっては、もはや束縛されたみた
いで、「自由人でサンカ」ではなくなる。そこで、在郷軍人会にも入れられて住処も
定めねばならぬところから、十二職(トフタベ)となった。
「箕つくり 箕直し 笊つくり ささらつくり(竹細工) 茶筅つくり 釜(鍋)敷
つくり 気込めつくり(杓入れのこと) 矢こぎ ろうつくり 簀の子作り 練子踏
み(鋳かけ屋)」
といった職人になって、居附、つまり町に住まいをもって、そこで家族が暮すように
なった。
 が、漂泊性が強くて一所に定住するのは無理な者達は今でいえば旅芸人となって、
「俵ころばし 小法師通り 四つ竹舞 うずめ(宇受女) さかき(榊)振り てる
(れ)つく(照尽)踊 獅子舞 たまい(田楽とちがい、竹筒と板木で舞う) さる
まい(猿舞) さるめ(猿楽の一種)」今でいえばアングラ演劇である。
 といった門付けの芸人となって、たまいや、さるまいが、デロレン祭文つまり今の
浪花節語りや辻講釈師。
 サルメというのが明治の初めまでは地方の招魂祭にもまだ出ていたところの、
「それ突け、やれ突け」と、細竹の先にタンポをまいたのをもって股倉を広げた太夫
達の女性自身のサネとよぶ中核を、合の手の三味線でうかれて突き、うまく挿入でき
てもぐいっと締めこまれてしまうとお客の負けで、勝てば太夫が抱ける褒美つきだが、
竹のタンポを咥えこんでポキンと折ってしまうところへ己れの一物を入れてポキリと
やられては後が使えぬと、よし巧くいっても客はその侭でへらへら照れ臭がって戻っ
て満足していってしまう。
 こうした遊芸を「十エラ」といって、次々とタカマチ[高市]とよぶ縁日を飛んで
廻らねばならぬから、足が速い連中で若くなくては勤まらぬ。それゆえ、年寄りや病
人や子供の多いのは、「五ツもり」というのをやる。
 三角寛先生の考証では「サンカの生活」の63、63の両頁にかけ、
ヤモリ(山守)、イスケ(池番)、カモリ(川番)、ノモリ(田畑番人)、ウキス
(繋留船の番人)
をば「イツモリ」(五守)という。
(昭和九年三月十三日、泉州岸和田の津田川べり三ツ松の瀬降ならびに、セチゴの池、
貝塚の近木(おぎ)川、佐野川(佐野町)を中心に、泉北、泉南両郡、さらに隣接す
る河内、摂津に亘り、一ヶ月の調査で「池守(イケス)」を確認し、昭和八年七月十
八日から甲斐、北都留、南都留両郡を桂川を中心に、九月十三日まで「山守(ヤモリ)
」セブリ三ヵ所で山守を調査、さらに昭和九年八月十三日から九月七日まで、美濃の
加茂、武儀両郡を、木曽川の上流益田川を中心に調べ、さらに川上にのぼって、飛騨
の益田、郡上両郡の「山守小屋」三セブリを調査して先生ご自身で確認)
 カモリは、今日では禁猟区や個人占有の買切区域などに雇われて見張りをしている。
地方によっては、「川徒」と呼ばれている。彼らは驚くべき魚捕りの名手である。
(昭和十年六月十七日、十八日の両日、播磨の揖保川の上流、因幡街道に添った引原
川の曲里(まがりさと)、嵯峨山のセブリ、さらに同年十一月十日から五日間、長州
の佐波郡と吉敷郡の境になっている佐波川べり。釈々井のセブリでと先生は確認とさ
れている。
 ノモリは関東、関西いたるところに就職して、果樹園などの盗難警戒に従事してい
る。
 ウキスは、東京の河川に多い。繋留船の番人に雇われて無人船の番をする。これは
(昭和九年七月二日より八月十日まで)東京水上暑石井巡査部長の案内で確認した、
と三角寛先生は記録しているのである。
 江戸時代には、国境ともなれば万一を考えて橋をかけず渡し船で往来させた。これ
にサンカが入っていないのは、川番や船番は赤褌をしめた八の部族の限定職業と定ま
っていた為である。
 居附サンカにしてやれた事は、俗にいう頼朝御判二十八種といった源氏系には保護
するような限定職業が決まってあり、皮剥ぎの「四つ」ばかりでなかったし、八母音
の言葉を話す「八つ」の者らは、水に関係した仕事の川越人足から、馬を使わぬ駕か
き車力といった種類の仕事を、褌の色の赤白で一目で判るようにし、互いに分けあっ
ていたから、彼らは幕末までさぞかし苦労をしたろう。
「ええ、竿屋でござい‥‥ベランダにも合う色つきビニールカバーかぶせもございま
す」
と呼ばわってくる竿屋に、今の洋式鍋は、昔の鋳物みたいに孔があかぬから、今では
滅多にみかけぬが、町で火を起こしてフイゴ屋。東京にも一人しか残っていないとい
われる羅宇屋。
 大正時代では道端で広げて直していた洋傘直し。目明けとよばれる鋸の目たて。九
州と信州には今もいるマムシ捕り。それに野師言葉ではドクマといって易竹を用いる
が、それとは違う水晶玉や算盤トランプなどを用いて占いをしたり、呪いをかけたり
予言までするトベナヒ。
 サンカの三のケチつまり区別というのは、最初の十二職(トフタベ)、次の十エラ
(選び)、それにこの八シナの計三十種がサンカの持てる職業ということになる。
 かつて全日本ミノ製作者組合というのが、戦後にあってGHQの許可で生れたけれ
ど、屋台に炭火をおこしてフイゴで風を送り込む鋳かけ屋が昭和三十六年で日本国中
に、もはや未使用の侭で放置されているのも加えて四百余。ピーピー音をたてノボリ
旗をたてるスイタケとよぶ煙管の羅宇直し屋台は、東京だけではもはや一台だが、地
方ではもはや使っていないのを入れれば、五百と、それに数が出ている。
 ついでに書けば、マンションの物干しにはパイプ型の新製品ができたせいか、竿屋
を時々やるというのが全国で約千人。これが昭和四十五年ぐらいから屑紙交換に変わ
ってしまっている。
 砥ぎ屋も、刀をさして歩く武士がいなくなった明治からは、SINOGI、TAI
RA、TWRWGI[ママ]と発音できる当字をつけて戸籍をもっているのは、全国
では二百あまりだというが、TAIRAというのは平氏平民からではなく、ウメガイ
の中央に溝を入れず平べったいナイフみたいな型のものを、契丹のウメガイが来なく
なってきたので、越前来、出雲石井、美濃関、筑前石堂、豊後了我などで、僅かなハ
ガネになる鉄を見つけてきては、江戸時代に鍛造。
 中央に線の入った鎬づくりと平づくりと二種類あるものの、今でこそダイヤやルビ
ーが産出せぬ日本では、刀は美術品として高価に売買でき、贋物がひどいくらい多い
が、マサムネとかオサブネ、コテツといったようにア横列、オ横列の名が多いという
のは、いま考えられているのと違って刀工は部落の限定収容に限られていたからであ
る。
 「楠木正成」980円で、元寇に際して、各部落より都に集めてこられた刀工が、
一定の収容地に押し込められてトッテンカン、トッテンカン。縄が張ってあるのを注
連縄(しめなわ)とよんで、神社にもはってあるので神聖視するような誤解を与えて
いるが、神とか社というのは明治までは「罪なくして謀殺された怨霊が迷い出てきて、
祟りをせぬように」という封じ込めで、縄をはるのは亡霊が外へ出てこぬためのまじ
ない。
 判りやすく言えば、火事場で野次馬が近づかぬように縄を張って通行止めするのと
同じ事。刀匠の仕事場に注連(しめ)がたれ廻してあったのも、この中へは常人は入
れぬ人外の場なりといった掲示だったのが本当のところで、人間を殺傷する刀は、ア
とオの横列姓に定まっていたゆえ、それに入らぬ「ム」の村正などは故意に妖刀とい
った扱いをしたのを講釈でひろめたものらしい。
 風を送り込んで火種を高熱にするフイゴは、元来は紀元前1490年のエジプト
[ペルシャ?]のササン王朝の頃のものである。しかし、そうなると天地水火を拝む
今の平民、かつての平氏である古代海人族の縄張りになってしまう。そこで彼らは
「シナド」「シナタラ」と故意に変えては呼称する。そして、サンカ人間である純血
日本人の彼らシノガラは、「フイゴ祭り」というのを例年十一月八日に、古代海人系
の石工や鍛冶屋が全国的に催すのに対して、元旦に「礼祭」と呼んで、契丹よりの大
山見命によって我々のは伝わったものであって、紅殻塗りの平氏の祇系や夷也(稲荷)
派とは相違すると頑張るのも職業確保の為で、
「クタラタラ、シナドニフケバ、マガネワキ、ツルギモウメニ、ミヨヲサムカモ」
と、中国から但馬方面に採鉱のため、多々良と後には日本名になる契丹人が来ていた
来歴を、彼らはノリトみたいに礼祭の時には大声で唱和する。まぁ、契丹系であれば
祖国ゆえやむを得ぬ話。
 九州延岡の山奥に「天下(あも)り」とよぶ、四国や九州のサンカには聖地にひと
しい秘境がある。ここでは年に一回、山陽道までの国カズ、つまり各地代表親頭衆が
参列して集会をなす。
 その年に一番よくサンカのために尽した功労者とか、全体の頭目だった者の遺体を、
もう死んでいて既に土葬にしてあったものでも、そっと掘り起こして菰包みにして運
んできて、「シナ土送り」と称する、大陸への北東に向けて崖の上におき、サンカの
最高葬の風葬にする。
 菅原道真の梅鉢を刀につけてウメガイにしたり、自分達は漂着してやむなく住み着
いたり、アレキサンダー遠征のため逃亡奴隷となり、難民となって日本へ来たのでは
なく、
「国家目的によって日本海を渡って進攻してきたのに、亡国唐の遺民が支配する国で、
我々戦いに利なく追い散らされはしたが、決して尠(すくな)い同志ではなく、不運
にも東北の荒地へ収容され奴隷百姓となった者らも多いが、我々は亡国唐の藤原を仆
して、やがてとってかわるのだ」
といった意識がサンカには多く、セブリを五つ集めたテンジンでも、彼らがクズシリ
とよぶ親方となって一同を指揮するし、他民族の下にならぬようハラコとザボの二階
級にし、明治以降は、初め無告つまり無申告であったが、日露戦争の一斉狩りこみの、
男子召集の徴兵のための新戸籍の際には、唐字ではない契丹文字の「鈴」を姓につけ
る者が極めて多かった。
 「契丹日本史」の私の本に則天武后の命令で作字された唐字にはいっていない「鈴」
は、契丹二千文字文に明確にあるのを書いておいたが、太田亮の「姓氏辞典」の本は、
「神社には金属を吊るした木があり、そうした飾りつけが鈴木姓のいわれである」
と、まるでクリスマスツリーみたいな嘘っ八が出ているが、加賀へ入った藤原氏が加
藤であるという話と同じデッチ上げである。「クズシリツナギ」で、鈴は彼らの代表
格なのである。
 中国に隣接したインドやアラブ、ソ連にしても「チャイナ」とはいまだに呼ばず、
「キタイ」とか「キタイスカヤ」と契丹の古名を国名として呼んでいる程、契丹人は
優れた人種だったらしい。
 つまり七世紀には、追われた古代海人族や騎馬系の女共を救けて、山や海中の孤島
に逃げ込んでセブリを張っていた純日本人達も、十世紀になって契丹人が反唐という
ので、追い落され逃げ込んできた時から、初めはザボだった彼らも三代たってトケコ
ミをしだした。
 つまり、ハラカラとなると、なにしろ優秀人種の事ゆえ、次々と各テンジン頭とな
り、やがて国一となって勢力を確保してサンカ人を指揮下におき、統制のためずっと
千年たったらしい。
 それでも混血は避け、海人族は海人族と、契丹系は同種とツナガリが縁組みを決め
合っていたから、あくまでサンカのシノガラは今でも純日本人の血を今日まで保ち続
け得たのだ。
(http://www.rekishi.info/library/yagiri/scrn2.cgi?n=1004)


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山形県といえば、庄内藩
    「何も選ばない」生き方のすすめ

日刊ゲンダイ2010年9月9日掲載の記事に「民間調査大手の東京商工リサーチにより、社長を輩出している確率が最も高いのは、意外にも山形県であることが分かった。出身地別の社長数が各都道府県別の総人口の何割を占めているかを表した“輩出率”で見ると、山形が1.28%と、香川県の1.21%、徳島県の1.19%を抑えてトップに躍り出た。」というのがあった。「首都圏3県は全国ワースト3」ということなので、分析方法に疑問も感じるが、山形県といえば、庄内藩。同じく官軍に逆らって明治初期に弾圧を受けた会津藩とともに、その後の藩の人々が非常に気になっていた。このニュースを読んで、出世している方々が多いことを知り、何か脈々と流れるものがあるのかとも想像してみた。


1 三島通庸 1879年(明治9年)8月22日 鹿児島県 前鶴岡県知事
2 折田平内 1882年(明治15年)7月13日 鹿児島県 山形県知事
3 柴原和     1886年(明治19年)7月19日 兵庫県
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%BD%A2%E7%9C%8C%E7%9F%A5%E4%BA%8B%E4%B8%80%E8%A6%A7)

戦後、民選知事になるまでは明治政府の派遣する人々が県令(知事)に任命されており、特に初期の県令についてはお決まりの佐賀県や鹿児島県からの選出が多く、薩摩系が独占の様相は、維新時に徳川についたり幕府直轄地だった他の県と同様に受け入れざるを得ない屈辱だったであろう。

三代目の柴原和は兵庫県の出身だが、兵庫県といえば初代の県令は伊藤博文であり、この頃になると既に頭角を現して、県令の選出に影響力を持っていたのかも知れない。


三島通庸 写真
(http://www.ndl.go.jp/portrait/datas/335_1.html)

県令時代は、住民の反対を押し切り強引に土木工事を進める手法から、「土木県令」や「鬼県令」の俗称で呼ばれた。三島は人民に対しては傲岸な態度で臨み、強引な課税や労役賦課、寄付金強要を行なうなど、批判に対しては弾圧一辺倒であった。
1887年(明治20年)12月25日、三大事件建白運動や大同団結運動など自由民権運動の高揚に対し、皇居付近から「危険人物」を排除する事を目的とした保安条例が勅令によって公布されると、警視総監として即日施行した。当時の首相伊藤博文は条例に反対であり、内務大臣山縣有朋も消極的な態度であったものの、三島は条例を積極的に推進していたとされる。弾圧の対象人物に尾崎行雄、片岡健吉、中江兆民、星亨などがいた。
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%B3%B6%E9%80%9A%E5%BA%B8)



ところで、三島通庸という人は初代の県令だが、上記の説明にあるように強権的に山形県に乗り込んでいったことが判る。明治政府の庄内藩に対する厳しい姿勢が見えるが、山形を離れた後は、強権的すぎて、落ち着きをとりもどした新政府には面倒な人物だったのかも知れない。それにしても、墓が青山墓地で一番に巨大とは・・・絶句。

庄内藩については、会津藩に比べたら非常に穏便に事後処理がなされたようで、残された民衆に対しては弾圧が続いたと思われるが、庄内藩の藩主酒井家には寛大な処置で取りつぶしなどは免れているようだ。この頃、県令として乗り込んだ三島通庸や折田平内、柴原和など子孫が山形県に残り、民衆ともども山形県を発展させた明治~昭和期を礎に、平成に入っての社長排出トップという名誉を得ているのかとも思って、現在の名字の分布を調べてみたが、この予想は全く外れてしまう。ほとんど、上記3名の名字の世帯は残っていない。招かざる客として3年から4年間を県令で過ごし、次の任官地や、地元とか東京に移ったものと思われる。この頃からの山形県民の権力に逃げないパワーがトップを排出しているのかも知れませんね。



以下は引用です。

 時代は飛んで、幕末期。
 戊辰戦争において、会津藩と共に征討の対象となった庄内藩は、新政府軍との戦いにおいて、最終的に約4500人の兵を動員したのですが、その内の約 2200名が、実は農民や町民といった領民達によって組織された民兵でした。この民兵の割合は、非常に異例なもので、このような高い比率は他藩には見られず、庄内藩だけに見られることです。
 このように、庄内藩の戊辰戦争は、藩士と領民とがまさに一丸となって、新政府軍と相対しました。そして、戊辰戦争後、庄内藩が新政府から、会津若松への転封や賠償金の請求を命じられた際にも、領民はその転封撤回の嘆願活動を行ったり、賠償金支払いのための基金として、藩に対し献金したりと、藩と領民が一丸となって、庄内藩に訪れた危機を乗り越えようとしました。
 その結果、明治に入ってからも、庄内藩は転封することもなく、鶴ヶ岡を中心拠点にし、松ヶ岡開墾場に代表される県内の殖産興業に努めることが出来たのです。
 天保おすわり事件、戊辰戦争、そして明治に入ってから訪れた転機、この庄内藩を襲った様々な危機に対し、深い絆で結ばれていた藩とその領民達は、まさに一心同体となって乗り越えたのです。
(http://www.page.sannet.ne.jp/ytsubu/turuoka.htm)


(近世)江戸期の藩名。鶴岡藩ともいう。譜代・中藩。居城は鶴岡。出羽国の西南部,はじめは遊佐(ゆざ)郡・田川郡・櫛引(くしびき)郡を含み,寛文4年以後は飽海(あくみ)郡・田川郡の2郡となる。藩主酒井氏は新田源氏の末裔,徳川氏と同祖の家柄,始祖左衛門督忠次は徳川四天王の随一といわれ,家康の叔母碓井姫を室に迎え,永禄7年三河国(現愛知県)吉田城主となった人物,2代家次の時,天正18年下総国臼井(現千葉県佐倉市付近)3万石,慶長9年上野国高崎(現群馬県高崎市)5万石,元和3年越後国高田(現新潟県上越市)10万石となり,3代忠勝の時,元和5年信濃国松代(現長野県長野市)10万石に移り,同8年山形藩最上氏の改易にあたり,出羽国庄内に入部。歴代の藩主は次の通り。初代忠次―2代家次―3代忠勝―4代忠当―5代忠義―6代忠真―7代忠寄―8代忠温―9代忠徳―10代忠器―11代忠発―12代忠寛―13代忠篤―14代忠宝。酒井氏の庄内配置の目的は,山形の鳥居忠政を中心に,忠政の女婿庄内の酒井忠勝,妹婿真室の戸沢政盛,従弟上山の松平重忠,忠勝の弟左沢(あてらざわ)の酒井直次,同じく忠勝の弟白岩の酒井忠重などを麾下とする戦略体制の樹立にあり,奥羽の外様大名の監視を目的とした。庄内藩領は最上川で南北に分断され,川北に亀ケ崎城,川南に鶴ケ岡城の2城があった。忠勝は鶴ケ岡城を居城に定め,出羽国第一の港町酒田を城下とする亀ケ崎城には城代を置いた。入部当時の鶴ケ岡城は本丸だけの小城であったので,二の丸と広大な三の丸を取り立て整備したが,質素な城で,天守閣はなく,石垣も少なく, 完成後も角櫓は2基にすぎなかった。三の丸には役所や家中(侍)屋敷,藩主の菩提寺大督寺などを配置,曲輪(くるわ)(三の丸)の東側と南側に町人町を配置,その外側と曲輪の北と西には家中や給人(下級武士)の町や寺社を配置した。元和8年の御知行目録によれば,石高は13万8,071石余,同年の出羽荘内寺社領目録では寺社領高合3,530石余(うち羽黒領1,460石余)。元和9年全領に検地を実施,5万3,000余石の出目を検出,忠勝は幕府に対し 20万石の役儀を願い出たが許されなかった。寛永9年加藤清正の嫡子,肥後熊本藩主加藤忠広が罪を得て庄内藩に預けられ,左沢1万石を給された時,忠勝は忠広を丸岡村(現櫛引町大字丸岡)に置き,左沢1万石を丸岡1万石への変更を進言,その替え地として左沢1万2,000石を給され,庄内藩の石高は14万石余となる。正保4年忠勝病死,その遺言により三男忠恒に松山(松嶺)藩2万石(左沢1万2,000石を含む),七男忠解(ただとき)に大山藩1万石を分知,天和2年次男忠俊の子忠高に余目(あまるめ)5,000石を分知したが,庄内藩の表高は変わらず14万石余であった。しかし実高は漸増し,貞享元年18万石5,302石余,宝暦8年19万2,626石余となる。丸岡藩領は承応2年忠広の病死とともに収公。大山藩は寛永8年藩主に嗣子なく急死,同9年改易。余目領は元禄9年酒井忠盈が嗣子なく病死,家断絶。いずれも幕府領となったが,田川郡のこれら公領2万7,000余石は,幕末の江戸市内取締りと新徴組委任の功に対し,元治元年庄内藩に与えられ,同年17万石格式の大名となった。この間,田川郡の幕府領は承応2年~寛延元年,寛延3年~明和6年,天保13年~弘化元年の128年間の大部分は尾花沢代官支配,大山村に陣屋が置かれ,寛延2~3年,明和6年~天保13年,弘化元年~元治元年の67年間は庄内藩の預り支配を受けた。慶応二年寅御物成御勘定一紙によれば,高辻19万1,611石余,御加増地高辻2万7,138石余,新田高1,771石余,合計22万520石余とある。庄内藩の経済的基盤は米作農業にあり,その基礎は最上氏時代の青竜寺(しようりゆうじ)川・中川堰・北楯堰・因幡堰など大灌漑用水路の開削によって確立され,庄内藩は主としてその利用と改良によって新田開発を推進した。小藩から成長して来た庄内藩は最上牢人をはじめ,多くの牢人を召し抱えた。家臣団の構成は,家中(侍)と給人(下級武士)からなり,家中数は初期の達三公御代諸士分限帳では483人, 給人は正保4年の調査では徒士60人・持筒25人・足軽1,000人・諸役人321人・旗巻110人・中間511人,合計2,027人とある。庄内藩の知行制は蔵米知行制,家中や給人に対する知行米,扶持米は米札で支給,米札制度は寛永元年郡代柴谷武右衛門によって創始され,米札は貨幣同様流通した。農民支配の機構は,郡代―郡奉行・代官―大肝煎(貞享4年大庄屋と改称)―村役人。村役人は肝煎と長人の二役制,長人は時代と所によって組頭,添役とも呼ばれた。元和検地の結果,年貢増徴となり,遊佐郡荒瀬郷・遊佐郷の百姓は逃散して抵抗した。藩は大肝煎の失態としてその責任を追及したので,寛永11年遊佐郷大肝煎高橋太郎左衛門による幕府への上訴事件に発展した。この頃忠勝の弟酒井長門守忠重は白岩8,000石を領し,激しい収奪の結果,惣百姓一揆が勃発,百姓側の敗北に終わったが,忠重も責任を問われ改易された。高橋の目安と白岩一揆の訴状は,初期農政の苛酷さを示している。長門守は実家に寄食し,兄忠勝の寵を受け,藩政に干渉するのみならず,忠勝の世子忠当を廃し,自子九八郎を立て宗家乗っ取りの陰謀をたくらみ,忠当擁護派と対立を深めた。忠当派の中心人物高力喜兵衛(4,000石)らはこの事を忠当の岳父であった老中松平伊豆守信綱に訴え援助を求めたが,これを察知した長門守に讒訴され,忠勝の逆鱗に触れ,九州に追放され,高力派の多くは死罪や追放に処された。しかし長門守の陰謀も正保4年の忠勝の死によって挫折した。4代忠当の襲封後はその室千万の父松平伊豆守が積極的に庄内藩政に助言し,特に万治3年忠当の死後,5代忠義の代には後見人として藩政の指導に当たった。教えを受けた代官白石茂兵衛の記録「白石茂兵衛覚書」は伊豆守の政治思想を示している。庄内藩政はこの頃基礎を確立した。寛文年間は幕藩体制の確立期で,藩財政の再建に辣腕を振るったのが郡代高力忠兵衛であった。財政を緊縮,倹約令を励行,農村に徳政を敷き,百姓の旧債を破棄,脇借を禁じた上で増税を実施した。忠兵衛の収奪強化で, 藩財政は一時好転したが,百姓の不満は大きく一触即発の険悪な空気が領内にみなぎった。忠兵衛は天和元年中川通の百姓から巡見使に訴えられ失脚した。元禄年間には新田開発が盛んに行われたが,藩財政は窮乏し,元禄3年家臣の俸禄を削減する上米(あげまい)制が始められた。享保年間に入ると米は過剰となり, 米値段が暴落して藩財政の危機を招いた。元文4年には日光東照宮の修理に4万8,000余両を費やしたため藩庫は逼迫し,寛保元年には全藩士の禄米と扶持米を取り上げ,1人につき1日米6合と禄米100石に750文の雑用金を支給した。さらに安永4年には藩主の雑用金を7年間半減する建白書が提出された。 9代忠徳(ただあり)は酒田町の豪商本間光丘を登用し,財政の再建に努めたが,天明の凶作で再び悪化し,寛政初期には藩の借財は10万両に及んだ。寛政7 年山浜通代官和田伴兵衛が独断で温海組の未納年貢を切り捨てたことを契機に,忠徳は中老竹内八郎右衛門,郡代白井矢大夫らを改革御用掛に任命,本間家の商業資本との癒着を断ち,農本主義的政策に転換した。まず貸付米8万3,000余俵と貸付金1万3,000余両を切り捨て,代官才覚貸付米金は当分据置きとし,地主に困窮与内米をかけ,その資金で荒廃地の年貢を減じて農村の再建に努めた。その結果農村は立ち直り,藩財政は安定し,庄内藩は神田大黒の異名を得た。また白井矢大夫の進言により士風刷新,能吏養成のため,文化2年藩校致道館を大宝寺に創立し,徂徠学を通じて藩士の子弟を教育した。しかし竹内,白井の失脚の後,文化13年致道館は政教一致の目的から曲輪の内,馬場町十日町口に移され,一部を会所に使用した。庄内藩の徂徠学は水野元朗に始まり,享保10年板行された「徂徠先生答問書」上中下3巻の後半は,元朗の質問に荻生徂徠が答えたものである。庄内でも貞享3年・享保5年・天明3年など大凶作は多かったが,領内の産米で領民の飯米が不足することは一度もなかった。その点からも天保4年の凶作は前代未聞であった。餓死への不安が高まり,9月1日には山浜通由良組水沢村の搗屋2軒が米の買占めを理由に温海組の窮民に打ち毀された。藩はただちに八組郷中両城下大山領その他預け地にそれぞれ1,000俵ずつ計1万2,000俵の救米を給与することを達し,11月には孤独者片輪者長病者で扶養する親族のない者に1,000俵を賜与し,極窮者の救済に努める一方,他国米の買付けに努力し,領民には合積(割当制)を実施し,1人の餓死者も出さずに乗り切った。しかし農民の疲弊は甚しく,藩は天保9年農政改革を断行し,累積した農民の拝借米金を切り捨てたが,それを恩恵として石高20石に1俵の与内米を毎年取立て貯籾を充実し,凶作時においても年貢の確保を図り,農民の負担を更に強化した。天保11年11月越後長岡藩主を川越(現埼玉県川越市)に,武蔵川越藩主を庄内に,庄内藩主を長岡(現新潟県長岡市)に移す三方領地替えの幕命が降った。庄内藩は転封経費の調達を本間家をはじめ領内の大地主や大商人に依頼する一方,未納年貢の納入を督励した。百姓は貯籾が長岡に持ち去られることを恐れ,貯籾の持出反対,夫食米貸付の保証,拝借米の即時取立反対,高1石につき7人の人足徴集反対を嘆願した。新領主の悪評が伝えられ,再検地の不安が高まるにつれて,旧主を慕い,新領主を嫌う感情が強まり,同年12月山浜通西郷組の百姓11名が幕命撤回を求める駕籠訴のため江戸に登ったのを皮切りに,江戸越訴,地元の農民大集会,近隣雄藩への愁訴が続けられた。百姓の転封阻止運動は領主の暗黙の下,大地主や大商人に支持されて高揚し,諸大名の同情を集めたので,幕府は天保12年7月ついに転封令を撤回せざるを得なかった。この農民の運動は大正・昭和の不況期,小作争議が多発した頃,「天保義民」の名の下に農民の理想像として顕彰されるほどの影響力を有した。天保13年幕府は庄内の幕府領2万7,000石の庄内藩預りを中止し,尾花沢代官の直轄支配とし,大山村に陣屋を置いた。代官直轄支配は未納年貢の無利子10年賦,庄内藩が課していた酒役銭の廃止,各種職人の役銭免除などの恩恵を与えた。しかし幕府は弘化元年再び庄内藩預りを命じたため,大山の酒屋を中心とする幕府領の農民はこれを不満とし,阻止運動を起こし江戸登駕籠訴を行ったが,余目領農民の内通があり,効果は現れなかった。幕府領農民は,陣屋役人から庄内藩役人への事務引き継ぎを実力で阻止した。そのため引き継ぎは一時延期されたが,7月に入り幕府役人による首謀者の逮捕が始まり,獄門2名,遠島3名・重追放3名を含む参加者三千数百人が処罰され,事件は農民側の敗北に終わった。天保14年庄内藩は印旛沼疎水工事手伝いを命ぜられ,幕末期に海防問題が重大化した際にも警備が割り当てられた。安政元年庄内藩は品川沖五番台場の警備を命ぜられ,また同6年には蝦夷地に領地と警備区域を割り当てられて,360余人の部隊を派遣し警備と開発に当たった。また庄内藩は文久3年,幕府が募集編成した新徴組を委任され,江戸市中の警備にあたり,翌元治元年には田川郡の幕府領2万7,000余石を加封され幕府側の雄藩として活躍した。当時の庄内藩の実力者は中老松平親懐と江戸留守居役菅実秀であった。しかし庄内藩にも幕府一辺倒を危険視し,公武合体派と気脈を通じるものがあった。その中心は酒井右京,大山庄大夫であり,その周辺には江戸詰や江戸留学の間に世界の情勢を察知した人々が集まり,藩主の交替による政策転換を期待した。第2次長州征伐が失敗に終わった慶応2年10月,主流派は藩内に政策批判の起こることを恐れ,改革派の一斉逮捕に踏み切り,翌3年9月庄大夫の斬罪,右京の切腹など厳しい断罪を降し,藩論の統一を図り,戊辰戦争に臨んだ。慶応4年徳川慶喜が鳥羽伏見の戦に敗れると,庄内藩は慶喜追討の勅命を奉せず,寒河江柴橋領の争奪から天童城を攻撃し,新政府に毅然たる態度を示した。この頃奥羽諸藩は薩長の横暴を憎み,奥羽越列藩同盟を結び,陸奥会津藩に対する寛大な処置を要求したが容れられず,戦争は奥羽越に広がった。しかし新政府軍の攻勢に同盟を離脱するものが相次いだため,庄内藩は違約の隣藩を攻撃し,新庄・本庄(現秋田県本庄市)・横手(現秋田県横手市)を攻略し秋田城に迫ったが,若松城陥落後は各地に敗北が続き,米沢藩降伏後の 9月23日謝罪状を提出した。新政府軍参謀黒田清隆は26日夜鶴岡に入り,藩主忠篤の降伏を認め,27日鶴ケ岡城を接収した。酒井家は12月家名を立てられ,忠篤の弟忠宝(ただみち)が家督を継ぎ,12万石を与えられた。このような寛大な処理の裏には西郷隆盛の支持があったという。しかし同月岩代国若松 (現福島県会津若松市)に転封を命ぜられ,翌明治2年には磐城国平(たいら)(現福島県いわき市)に変更されたが,熱心な阻止運動を展開し,同年7月70万両の献金を条件に居座りを許され,同年9月庄内藩は大泉藩と改称された。明治4年廃藩,庄内藩領は,大泉県・酒田県(第2次)・鶴岡県を経て山形県に編入された。

(C)角川日本地名大辞典



三島通庸が描いた直線
http://wing2.jp/~kaido/yori/mis1.htm

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終戦が遅れた理由
    「何も選ばない」生き方のすすめ

5月くらいに、ポツダム宣言までの経緯を以下のように
ブログで記述した。

 既に、東京大空襲など大都市が壊滅状態になって
 4ヶ月近くが経過している7月、ポツダム宣言を昭和天皇は
 「もう一度戦果を上げ」て降伏もしくは和解の条件を上げる
 として受け入れなかった。

とあった。どうも釈然としなかったのだが、娘の夏休みの宿題で
原爆が課題だったので、色々と調べていたら、アメリカが
軍需産業として原爆投下を大きな目標としていたこと。
開発中の原爆が完成を待って、それを使用する実験として、
どうしても終戦を先延ばしにしたかった・・・という話を
見つけた。日本側は天皇を中心とする国体護持が最優先
だったので、アメリカ側は、わざと妥協案を出さないことで
日本の戦争終結への道筋を無くす。結果として、広島に
原爆が投下されたが、それでも妥協案を提出しなかった
のに、長崎への投下が終わったら突如として国体を
維持することと引き替えに終戦を認めた。

ここまでは、オトナなアメリカのすることだから、わかる
ような気もするのだが、下記の書籍ではもっと踏み込んで、
天皇が2発の原爆の投下をあらかじめ知っていて、
それが完了した時点で終戦にするようなストーリーが
秘密裏に出来ていたとの見解。ちょっと飛躍しているし、
裏付けや証拠に結びつく周辺の日記なども残って
いないので、トンデモ本になってしまうような・・・。

原爆製造もその投下も、言葉は悪いが、八百長である。八百長では勝者と敗者とがはっきりと区別できる。八百長を仕組んで大儲けした奴らが勝者である。仕組まれて大損したり、死んでいった者が敗者である。原爆について考察すれば、「原爆カルテル」で大儲けした奴らが勝者である。敗者中の敗者は、広島と長崎で被爆した人々である。
【原爆の秘密 国外編】



1944年(昭和19年)10月、レイテ沖海戦の囮として
最後の空母「瑞鶴」を失ってから、都市への大空襲を経て、
原爆を2発投下されての終戦。日本が国体護持に
こだわっていることを逆手にとって、新型爆弾を
世界にアピールしてその後の主導権を得たアメリカ。

そのアメリカに統治されたことで、幸せな50年を
得ることができた。釈然としないが、生き残った
人々がツイていたことは間違いない。ソビエトに
侵攻されていたことを想像すると、極めてラッキー
だったと言えるのかも知れない。広島・長崎や
その他の地域で被害に遭われて、ご苦労された
方々には申し訳ありませんが、少なくとも今、
2010年まではラッキー、有り難い・・・と思わな
ければ戦場に散った方々に失礼なように思えます。


被爆3時間後、爆心地から2キロでの写真。
【なみだのファインダー―広島原爆被災カメラマン松重美人の1945.8.6の記録 】
(http://www.hiroshimapeacemedia.jp/mediacenter/article.php?story=20080508153649338_ja)




最後の空母「瑞鶴」 沈没直前のバンザイ

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