2008-04-28 Mon
囚われのアンドロメダ「Captive Andromeda」 Arthur Hill

(1876年/油彩/カンバス/89.5×43.8/アーサー・ヒル/ラッセル=コーツ美術館)
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| ユニフォーム姿三四郎 | 16:33 | comments (x) | trackback (x) | ユニフォーム姿三四郎の幸せ::読書 |
2007-12-16 Sun
ユニフォーム姿三四郎の好きな徳川慶喜公(生誕1837年10月28日)
は明治の終わりまで島津家の当主に会わなかった。
しかし、明治の末期、徳川家達さんが無理に?宮中で
当時の当主である島津忠重氏(生誕1886年10月20日)
と面接させたらしい。
この当時の様子を島津忠重さんが著書「炉辺南国記」
に書き残している。忠重さんにとっては、苦々しい
体験であったはずであるのに、よくぞ書き残して
くださった。
司馬遼太郎さんは、まだ元気だったはずの慶喜が口数
少なかったことを、明示的にコメントされているので、
この静かなエピソードの衝撃を伝えたかったのだと
思います。
googleで「島津忠重 慶喜 対面」と検索しても
ページが見当たらないので、ユニフォーム姿三四郎
がブログに書き起してみました。
(以下は引用)
慶喜の印象は、割合に小柄の人物で、私が面接した
当時すでに老齢であって、あまり元気なく、ほとんど
口もきかぬ温厚な人物のように見受けられた。そして、
家達から、「これが島津忠義の実子で忠重といい、
現在島津家の当主です。」と紹があったのに対し、
「ああ、そうですか」
と、簡単な返事しか聞かれなかった。が、私を見入
ってのかっての十五代将軍の目は曇って来たかのよう
にも感ぜられ、言葉少ないだけに、感慨無量という
風に私の目には写った。
その際、私自身もその場の空気にのまれ、口をきく
ことを渋った。
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は明治の終わりまで島津家の当主に会わなかった。
しかし、明治の末期、徳川家達さんが無理に?宮中で
当時の当主である島津忠重氏(生誕1886年10月20日)
と面接させたらしい。
この当時の様子を島津忠重さんが著書「炉辺南国記」
に書き残している。忠重さんにとっては、苦々しい
体験であったはずであるのに、よくぞ書き残して
くださった。
司馬遼太郎さんは、まだ元気だったはずの慶喜が口数
少なかったことを、明示的にコメントされているので、
この静かなエピソードの衝撃を伝えたかったのだと
思います。
googleで「島津忠重 慶喜 対面」と検索しても
ページが見当たらないので、ユニフォーム姿三四郎
がブログに書き起してみました。
(以下は引用)
慶喜の印象は、割合に小柄の人物で、私が面接した
当時すでに老齢であって、あまり元気なく、ほとんど
口もきかぬ温厚な人物のように見受けられた。そして、
家達から、「これが島津忠義の実子で忠重といい、
現在島津家の当主です。」と紹があったのに対し、
「ああ、そうですか」
と、簡単な返事しか聞かれなかった。が、私を見入
ってのかっての十五代将軍の目は曇って来たかのよう
にも感ぜられ、言葉少ないだけに、感慨無量という
風に私の目には写った。
その際、私自身もその場の空気にのまれ、口をきく
ことを渋った。
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| ユニフォーム姿三四郎 | 12:11 | comments (x) | trackback (x) | ユニフォーム姿三四郎の幸せ::読書 |
2007-12-15 Sat
ユニフォーム三四郎は徳川慶喜(生誕1837年10月28日)
さんが好きだ。幕末の混乱期、将軍の席を断り続け、
大政奉還してしまったり、大阪から舟で逃げてしまった
慶喜さんはかなり俯瞰で物事を見ているように感じる。
明治維新となってからは、結果的に随分と損な
役回りになったし、親族からも突き上げがあった
ようだ。この上座のエピソードもそれを現して
いて、興味深い。
明治に入ってからの話で、どこかで読んだ
のだけど、忘れてしまったので、「慶喜 上座」
でgoogleしてみたが、この話題を取り上げている
ページが意外と少ない。
「なんだ。自分の座る場所がないぞ。」
敗軍の将が、恥を忍んで生きながらえているのに
本家を継いだとは言え、元の部下であったはず
の徳川家達(生誕1863年8月24日)さんの言動には、
イサギヨサが無いな・・・。
どう考えても、慶喜さんを上座にしたほうが
お互いに気持ちいいでしょう。とりまきの婦人など
の言動ならまだしも・・。家達さん本人が言ったと
歴史に残ってしまった。
第二次世界大戦が終わって、帰還兵などは「まだ
逆転できるのに・・」とか、「上がダメだ」とか
強気なことばかり言って、庶民に対しては、
あいかわらず兵隊さん扱いされないと怒っていた
らしい。汽車に乗っても女子供より優先して席に
座り、車内で大声で話していたらしいから・・・。
(野坂昭如さんが詳しい)
(以下は引用)
やまとこころ 徳川家達公爵の話
http://blogs.dion.ne.jp/amabegoro/archives/392276.html
成人後、家達(いえたつ)となり、公爵、貴族院議長を務め、大正3年には総理大臣の命が下りましたが固辞したということです。
家達公はよく、
「徳川家をつぶしたのは、慶喜公。徳川家を再興したのは自分。」といっていたそうです。
徳川家の親族の集まりで家達公が遅れてくると、上座に慶喜が座っていた。
家達公が
「なんだ。自分の座る場所がないぞ。」というと、慶喜さんが遠慮して座を譲ろうとした。
家達公が「いやいや。遠慮せずに・・。」と2人上座に座ったという話があります。
実は、家達公が幼い頃に13代家定夫人・天璋院篤子(薩摩・島津斉彬養女)から
「慶喜の血を引くものを徳川宗家の当主にしてはならない。また、慶喜の縁者と婚姻関係を結んではならない。
そして、会津松平家の面倒は必ず見なさい。
これを徳川家の家訓とせよ。」と遺言されていたという。
亡くなった高松宮妃喜久子さまが著書に書いていますが、家達公が亡くなった時、お悔やみに行き、家達公の遺体と面会します。
「すごい怖い顔をしてたのよ。やっぱり、(自分が)慶喜の孫だから怖い顔をしたのね。」(ご著書より、要約)
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さんが好きだ。幕末の混乱期、将軍の席を断り続け、
大政奉還してしまったり、大阪から舟で逃げてしまった
慶喜さんはかなり俯瞰で物事を見ているように感じる。
明治維新となってからは、結果的に随分と損な
役回りになったし、親族からも突き上げがあった
ようだ。この上座のエピソードもそれを現して
いて、興味深い。
明治に入ってからの話で、どこかで読んだ
のだけど、忘れてしまったので、「慶喜 上座」
でgoogleしてみたが、この話題を取り上げている
ページが意外と少ない。
「なんだ。自分の座る場所がないぞ。」
敗軍の将が、恥を忍んで生きながらえているのに
本家を継いだとは言え、元の部下であったはず
の徳川家達(生誕1863年8月24日)さんの言動には、
イサギヨサが無いな・・・。
どう考えても、慶喜さんを上座にしたほうが
お互いに気持ちいいでしょう。とりまきの婦人など
の言動ならまだしも・・。家達さん本人が言ったと
歴史に残ってしまった。
第二次世界大戦が終わって、帰還兵などは「まだ
逆転できるのに・・」とか、「上がダメだ」とか
強気なことばかり言って、庶民に対しては、
あいかわらず兵隊さん扱いされないと怒っていた
らしい。汽車に乗っても女子供より優先して席に
座り、車内で大声で話していたらしいから・・・。
(野坂昭如さんが詳しい)
(以下は引用)
やまとこころ 徳川家達公爵の話
http://blogs.dion.ne.jp/amabegoro/archives/392276.html
成人後、家達(いえたつ)となり、公爵、貴族院議長を務め、大正3年には総理大臣の命が下りましたが固辞したということです。
家達公はよく、
「徳川家をつぶしたのは、慶喜公。徳川家を再興したのは自分。」といっていたそうです。
徳川家の親族の集まりで家達公が遅れてくると、上座に慶喜が座っていた。
家達公が
「なんだ。自分の座る場所がないぞ。」というと、慶喜さんが遠慮して座を譲ろうとした。
家達公が「いやいや。遠慮せずに・・。」と2人上座に座ったという話があります。
実は、家達公が幼い頃に13代家定夫人・天璋院篤子(薩摩・島津斉彬養女)から
「慶喜の血を引くものを徳川宗家の当主にしてはならない。また、慶喜の縁者と婚姻関係を結んではならない。
そして、会津松平家の面倒は必ず見なさい。
これを徳川家の家訓とせよ。」と遺言されていたという。
亡くなった高松宮妃喜久子さまが著書に書いていますが、家達公が亡くなった時、お悔やみに行き、家達公の遺体と面会します。
「すごい怖い顔をしてたのよ。やっぱり、(自分が)慶喜の孫だから怖い顔をしたのね。」(ご著書より、要約)
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| ユニフォーム姿三四郎 | 21:30 | comments (x) | trackback (x) | ユニフォーム姿三四郎の幸せ::読書 |
2007-11-05 Mon
ユニフォーム三四郎は読書が趣味だが、とんでもなく
つまらなくて、読み終えたあと、家に残しておきたく無い
ほどヒドイ本も存在する。
そこで、アマゾン(amazon)で売ろうと思って、出品画面
を進んでいくと、おどろくほどamazonに支払う手数料が
高額だった。中古本の仲買のようなシステムを自動的に
ロボットに行わせておいて、この暴利とは!。経営者
的な視点に立てば、非常に優れたビジネスモデルと
言えるだろう。
ユニフォーム三四郎が1400円で購入した本が800円
で売れそうだったけど、840円が入金されたとしても、
送料の負担と、発送の面倒を考えると・・・やっぱやめた。
amazonで題名だけ見て衝動買いすると、つまらない本に
めぐり合う確率も高いので、本屋である程度内容を見ない
とダメだと、これを機会に決めたのだった。
(amazonで購入した本は手数料安くすれば良いのに・・・
そうでなければamazonで本を買わなくなるよ。大丈夫?。)
1円で販売した場合
【購入者が341円支払】
【出品者に161円入金・マイナス送料】
コンディション: ユーズド商品 - 非常に良い
商品説明: 新品を購入して、一度だけ読みました。
出品価格: ¥1
数量: 1
配送料(売れた場合): ¥340 (国内配送料)
入金額合計(売れた場合): ¥161 (国内配送)
※amazonの利益 180円
100円で販売した場合
【購入者が440円支払】
【出品者に245円入金・マイナス送料】
コンディション: ユーズド商品 - 非常に良い
商品説明: 新品を購入して、一度だけ読みました。
出品価格: ¥100
数量: 1
マーケットプレイス手数料(売れた場合): (¥195) (国内配送料)
配送料(売れた場合): ¥340 (国内配送料)
入金額合計(売れた場合): ¥245 (国内配送)
※amazonの利益 195円
340円で販売した場合
【購入者が680円支払】
【出品者に449円入金・マイナス送料】
コンディション: ユーズド商品 - 非常に良い
商品説明: 新品を購入して、一度だけ読みました。
出品価格: ¥340
数量: 1
マーケットプレイス手数料(売れた場合): (¥231) (国内配送料)
配送料(売れた場合): ¥340 (国内配送料)
入金額合計(売れた場合): ¥449 (国内配送)
※amazonの利益 231円
1000円で販売した場合
【購入者が1340円支払】
【出品者に1,010円入金・マイナス送料】
コンディション: ユーズド商品 - 非常に良い
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出品価格: ¥1,000
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3000円で販売した場合
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言えるだろう。
ユニフォーム三四郎が1400円で購入した本が800円
で売れそうだったけど、840円が入金されたとしても、
送料の負担と、発送の面倒を考えると・・・やっぱやめた。
amazonで題名だけ見て衝動買いすると、つまらない本に
めぐり合う確率も高いので、本屋である程度内容を見ない
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| ユニフォーム姿三四郎 | 20:32 | comments (x) | trackback (x) | ユニフォーム姿三四郎の幸せ::読書 |
2007-10-13 Sat
ユニフォーム三四郎が学生時代に少し研究した立原 道造。
あまりにも甘美な詩人なので、だんだん気恥ずかしくなって
きたのを覚えている。それで、卒論は森鷗外。一般の方
には硬派に思えるかもしれないが、舞姫など初期の作品
はやはり甘美・・・。
久しぶりに立原 道造を検索してみたら、水戸部アサイさん
のほうが気になってきた。そういえば、「立原道造・愛の手紙」
という書籍を購入して、何度も読んだことを思い出した。立原の
亡くなったあと、忽然と姿を消した美しい女性水戸部アサイさん
は、その後どなたかと結婚されて幸せに暮らしていることは
何かで読んだのだが。もう少しだけ詳しく記述しているサイト
を発見した。動的ページで消えてしまいそうだな・・・ちょっと
長めだけど、引用させてもらっちゃおう。
■以下、引用
2.人生で感銘を受けた本 野村證券(株)顧問 竹林靖雄
これだけ長いこと生きてくると、感銘を受けた本を一冊に絞るのは不可能ですが、今だに昔と変わりない感動を与えてくれる本として、取り上げてみました。
○「立原道造全集(全五巻)」角川書店 1967年
多くの人達が、青春の多感な時代に、自ら詩人となることを夢想したり、美しい詩に魂を揺さぶられる経験をしたことでしょう。私のような団塊の世代に属する者にとって、今ほどのメディアの喧騒に煽られる以前の時代にあっては、「詩」も「死」をも、もっと身近に感じていたような気がします。おそらく、そんな仲間達の間で一番人気があったのは、暗く繊細な輝きを放つ中原中也か、もう少し成熟した憂国の詩人三好達治だったのではないかと思いますが、私は、立原道造の、透明感のある孤独と悲哀を内に秘めた限りない優しさに強く魅かれました。断片的に彼の詩を味わっていただけの頃に、殆ど全ての詩と、書簡とノートなどを収録した「立原道造全集」を古本屋で見つけた喜びは今でも鮮明に覚えています。
立原道造は、1939年(昭和14年)に24歳で夭折した叙情詩人です。一高・帝大(現東京大学)工学部という道を歩んで、銀座石本建築事務所に勤め、日本橋に住んでいたようです。「四季」の同人でもあるこの長身痩躯の青年は、蒲柳の質ではありましたが、下町風で人懐こい、陽気な性格であったようです。 そういえば、彼のノートの中に、「僕は背が高い。そのせいか夕暮れが早い」という悪戯っ子のような言葉がありました。早熟で繊細な詩人の中にある茶目っ気と優しい眼差しを感じて思わず頬が緩む気がしたものです。
多感な詩人は、24年間という短い生涯のなかで、彼の詩に影響を与えたと思われる何人かの女性に出逢っているのですが、最後の出逢いが、水戸部アサイという眼のすずやかな美しい女性(19歳)でした。暖かい情感のいきわたった表情を写真で見た時に、立原道造はこの人に救われたのだと、私はすぐに納得してしまいました。水戸部アサイは、立原の最後を看取ったあと、それまで交流のあった全ての人達の前から忽然と姿を消し、二度と姿を現わさなかったようです。婚約者でありながら、後に「今の方々には信じられないかもしれませんが、私達は清い間柄でした。」という言葉を残して。そして、彼女は、立原の旅の最後の地となった長崎で、クリスチャンとして静かに平和に暮らしたという噂を耳にするに及んで、立原道造の詩の持つ果てない純粋さや夢に溢れた情感が、人の心に与え続けるインパクトを思わずにはいられません。その頃の詩のひとつに次のようなものがあります。現代の青春模様からは程遠いのですが、立原道造と水戸部アサイとの切実な、青春そのものの言葉であるような気がします。
「爽やかな五月に」
月の光のこぼれるやうに おまへの頬に
溢れた 涙の大きな粒が すぢを曳いたとて
私は どうして それをささへよう!
おまへは 私を だまらせた・・・
(略)
だが たった一度も 言ひはしなかった
《私は おまへを 愛していると
《おまへは 私を 愛しているか と
はじめての薔薇が ひらくやうに
泣きやめた おまへの頬に 笑ひがうかんだとて
私の心をどこにおかう?
親交のあった堀辰雄と共に、立原道造は、軽井沢をこよなく愛しました。そして、信濃追分を散策しながら、「萱草(わすれぐさ)に寄す」「暁と夕の詩」等の作品を残したのです。いつの間にか、私にとっても追分宿の、浅間神社から堀辰雄の書庫、油屋あたりに続く道は、特に人通りの少なくなる晩秋にふと訪ねたくなる場所になっています。その地を訪ねる時に口ずさむのにぴったりの詩が、次の代表的な作品です。
「のちのおもひに」
夢はいつもかへって行った 山の麓のさびしい村に
水引草に風が立ち
草ひばりのうたひやまない
しづまりかへった午さがりの林道を
(略)
夢は そのさきには もうゆかない
なにもかも 忘れ果てようとおもひ
忘れつくしたことさへ 忘れてしまったときには
夢は 真冬の追憶のうちに凍るであらう
そして それは戸をあけて 寂寥のなかに
星くづにてらされた道を過ぎさるであらう
立原道造の見た原風景は、もはや心の内にしか再現できないものかもしれないのですが、私には忘れがたい浪漫と力を与え続けてくれています。それは、彼が死と競いあうように、その命よりも、ただひたすら光を求める夢に人生を賭けたかに思われるからかもしれません。
竹林靖雄(たけばやし やすお)略歴
1947年東京生まれ。1971年早稲田大学第一政経学部卒業。同年、野村證券(株)入社。国際金融部、ロンドン現法、ニューヨーク現法等の勤務を経て、1991年野村アセットマネジメント(株)に転籍。取締役海外本部長、常務取締役企画・人事担当等を経て、2000年(株)野村アセット投信研究所代表取締役社長に就任。2004年野村證券(株)顧問に就任し、現在に至る。証券業協会NPOエイプロシス(「投資と学習を普及・推進する会」)理事、大阪経済大学大学院客員教授なども務める。
[編集後記]
竹林靖雄氏とは、1971年4月に野村證券の講堂で一緒に新人写真をとりました。その後、今年までお会いすることはなかったのですが、同期の一人に紹介されて書評をお願いし、快諾いただきました。
米国人のプレゼンテーション技術はいつもすごいと思います。練習量の差があると思います。ブッシュもケリーも猛練習をしたと思います。自分自身いまだに、リハーサルについ手を抜いて失敗し、反省することばかりです。
私も学生時代、立原道造が大好きでした。「夢見たものは ひとつの幸福 ねがつたものは ひとつの愛」今でも、口ずさむことができます。青春の思い出です。
(株式会社クリエイジ 代表取締役社長 西脇 隆)
竹林靖雄氏 http://www.creage.ne.jp/app/UsrInfo?p=mailmag19.jsp
■以下も引用
立原が死んだとき、先に挙げた錚々たる友人知人が彼の死を悼み盛大な追悼会が開かれた。19歳の少女は皆の前からひっそりと姿を消した。手紙のことも、皆の記憶から消えていた。
評論家の小川和佑はその“少女”水戸部アサイを30年後に探し出し、その手紙を預かった。そうして書かれたのが『立原道造・忘れがたみ』(文京書房、1975年)である。
小川はアサイが長崎県に住んでいると書いて、消息の詳細を避けている。栃木出身の彼女が故郷から遠く遥かな長崎の地に住んでいる…。
長崎は立原が倒れる直前に旅した場所。明るい南国の光射すあこがれの地であった。実際に立原が目にした長崎はそれとは程遠く、冬ざれたわびしい長崎であった。その落胆から喀血して倒れる。それは死に至るのだが、長崎に抱いた立原のあこがれはアサイにも伝わっていたであろう。その思いをアサイが引き継いでも不思議でない。まさに「のちのおもひに」だ。
――30年経ても、水戸部アサイは立原からもらった手紙15通を一つも汚さず所持していたと小川は書いている。皆の前から姿を消した彼女は、ずっと独身であったのではないかと推測される。わずか1年足らずの愛を刻んだまま水戸部アサイは生きてきたのではないか。
とすれば、私の中に閃くものがある。彼女は信仰に生きたのではないか。長崎のいずれかの修道会に入って、立原の短い生涯をずっと慰めてきたのではないだろう、か。
(http://mizumakura.exblog.jp/3869390/)
■追記 水戸部アサイさんの甥子さんが以下の写真館で専務をされていたようだ
茨城県古河市【ミトベ写真館】
http://www.mitobe.net/studio.html

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あまりにも甘美な詩人なので、だんだん気恥ずかしくなって
きたのを覚えている。それで、卒論は森鷗外。一般の方
には硬派に思えるかもしれないが、舞姫など初期の作品
はやはり甘美・・・。
久しぶりに立原 道造を検索してみたら、水戸部アサイさん
のほうが気になってきた。そういえば、「立原道造・愛の手紙」
という書籍を購入して、何度も読んだことを思い出した。立原の
亡くなったあと、忽然と姿を消した美しい女性水戸部アサイさん
は、その後どなたかと結婚されて幸せに暮らしていることは
何かで読んだのだが。もう少しだけ詳しく記述しているサイト
を発見した。動的ページで消えてしまいそうだな・・・ちょっと
長めだけど、引用させてもらっちゃおう。
■以下、引用
2.人生で感銘を受けた本 野村證券(株)顧問 竹林靖雄
これだけ長いこと生きてくると、感銘を受けた本を一冊に絞るのは不可能ですが、今だに昔と変わりない感動を与えてくれる本として、取り上げてみました。
○「立原道造全集(全五巻)」角川書店 1967年
多くの人達が、青春の多感な時代に、自ら詩人となることを夢想したり、美しい詩に魂を揺さぶられる経験をしたことでしょう。私のような団塊の世代に属する者にとって、今ほどのメディアの喧騒に煽られる以前の時代にあっては、「詩」も「死」をも、もっと身近に感じていたような気がします。おそらく、そんな仲間達の間で一番人気があったのは、暗く繊細な輝きを放つ中原中也か、もう少し成熟した憂国の詩人三好達治だったのではないかと思いますが、私は、立原道造の、透明感のある孤独と悲哀を内に秘めた限りない優しさに強く魅かれました。断片的に彼の詩を味わっていただけの頃に、殆ど全ての詩と、書簡とノートなどを収録した「立原道造全集」を古本屋で見つけた喜びは今でも鮮明に覚えています。
立原道造は、1939年(昭和14年)に24歳で夭折した叙情詩人です。一高・帝大(現東京大学)工学部という道を歩んで、銀座石本建築事務所に勤め、日本橋に住んでいたようです。「四季」の同人でもあるこの長身痩躯の青年は、蒲柳の質ではありましたが、下町風で人懐こい、陽気な性格であったようです。 そういえば、彼のノートの中に、「僕は背が高い。そのせいか夕暮れが早い」という悪戯っ子のような言葉がありました。早熟で繊細な詩人の中にある茶目っ気と優しい眼差しを感じて思わず頬が緩む気がしたものです。
多感な詩人は、24年間という短い生涯のなかで、彼の詩に影響を与えたと思われる何人かの女性に出逢っているのですが、最後の出逢いが、水戸部アサイという眼のすずやかな美しい女性(19歳)でした。暖かい情感のいきわたった表情を写真で見た時に、立原道造はこの人に救われたのだと、私はすぐに納得してしまいました。水戸部アサイは、立原の最後を看取ったあと、それまで交流のあった全ての人達の前から忽然と姿を消し、二度と姿を現わさなかったようです。婚約者でありながら、後に「今の方々には信じられないかもしれませんが、私達は清い間柄でした。」という言葉を残して。そして、彼女は、立原の旅の最後の地となった長崎で、クリスチャンとして静かに平和に暮らしたという噂を耳にするに及んで、立原道造の詩の持つ果てない純粋さや夢に溢れた情感が、人の心に与え続けるインパクトを思わずにはいられません。その頃の詩のひとつに次のようなものがあります。現代の青春模様からは程遠いのですが、立原道造と水戸部アサイとの切実な、青春そのものの言葉であるような気がします。
「爽やかな五月に」
月の光のこぼれるやうに おまへの頬に
溢れた 涙の大きな粒が すぢを曳いたとて
私は どうして それをささへよう!
おまへは 私を だまらせた・・・
(略)
だが たった一度も 言ひはしなかった
《私は おまへを 愛していると
《おまへは 私を 愛しているか と
はじめての薔薇が ひらくやうに
泣きやめた おまへの頬に 笑ひがうかんだとて
私の心をどこにおかう?
親交のあった堀辰雄と共に、立原道造は、軽井沢をこよなく愛しました。そして、信濃追分を散策しながら、「萱草(わすれぐさ)に寄す」「暁と夕の詩」等の作品を残したのです。いつの間にか、私にとっても追分宿の、浅間神社から堀辰雄の書庫、油屋あたりに続く道は、特に人通りの少なくなる晩秋にふと訪ねたくなる場所になっています。その地を訪ねる時に口ずさむのにぴったりの詩が、次の代表的な作品です。
「のちのおもひに」
夢はいつもかへって行った 山の麓のさびしい村に
水引草に風が立ち
草ひばりのうたひやまない
しづまりかへった午さがりの林道を
(略)
夢は そのさきには もうゆかない
なにもかも 忘れ果てようとおもひ
忘れつくしたことさへ 忘れてしまったときには
夢は 真冬の追憶のうちに凍るであらう
そして それは戸をあけて 寂寥のなかに
星くづにてらされた道を過ぎさるであらう
立原道造の見た原風景は、もはや心の内にしか再現できないものかもしれないのですが、私には忘れがたい浪漫と力を与え続けてくれています。それは、彼が死と競いあうように、その命よりも、ただひたすら光を求める夢に人生を賭けたかに思われるからかもしれません。
竹林靖雄(たけばやし やすお)略歴
1947年東京生まれ。1971年早稲田大学第一政経学部卒業。同年、野村證券(株)入社。国際金融部、ロンドン現法、ニューヨーク現法等の勤務を経て、1991年野村アセットマネジメント(株)に転籍。取締役海外本部長、常務取締役企画・人事担当等を経て、2000年(株)野村アセット投信研究所代表取締役社長に就任。2004年野村證券(株)顧問に就任し、現在に至る。証券業協会NPOエイプロシス(「投資と学習を普及・推進する会」)理事、大阪経済大学大学院客員教授なども務める。
[編集後記]
竹林靖雄氏とは、1971年4月に野村證券の講堂で一緒に新人写真をとりました。その後、今年までお会いすることはなかったのですが、同期の一人に紹介されて書評をお願いし、快諾いただきました。
米国人のプレゼンテーション技術はいつもすごいと思います。練習量の差があると思います。ブッシュもケリーも猛練習をしたと思います。自分自身いまだに、リハーサルについ手を抜いて失敗し、反省することばかりです。
私も学生時代、立原道造が大好きでした。「夢見たものは ひとつの幸福 ねがつたものは ひとつの愛」今でも、口ずさむことができます。青春の思い出です。
(株式会社クリエイジ 代表取締役社長 西脇 隆)
竹林靖雄氏 http://www.creage.ne.jp/app/UsrInfo?p=mailmag19.jsp
■以下も引用
立原が死んだとき、先に挙げた錚々たる友人知人が彼の死を悼み盛大な追悼会が開かれた。19歳の少女は皆の前からひっそりと姿を消した。手紙のことも、皆の記憶から消えていた。
評論家の小川和佑はその“少女”水戸部アサイを30年後に探し出し、その手紙を預かった。そうして書かれたのが『立原道造・忘れがたみ』(文京書房、1975年)である。
小川はアサイが長崎県に住んでいると書いて、消息の詳細を避けている。栃木出身の彼女が故郷から遠く遥かな長崎の地に住んでいる…。
長崎は立原が倒れる直前に旅した場所。明るい南国の光射すあこがれの地であった。実際に立原が目にした長崎はそれとは程遠く、冬ざれたわびしい長崎であった。その落胆から喀血して倒れる。それは死に至るのだが、長崎に抱いた立原のあこがれはアサイにも伝わっていたであろう。その思いをアサイが引き継いでも不思議でない。まさに「のちのおもひに」だ。
――30年経ても、水戸部アサイは立原からもらった手紙15通を一つも汚さず所持していたと小川は書いている。皆の前から姿を消した彼女は、ずっと独身であったのではないかと推測される。わずか1年足らずの愛を刻んだまま水戸部アサイは生きてきたのではないか。
とすれば、私の中に閃くものがある。彼女は信仰に生きたのではないか。長崎のいずれかの修道会に入って、立原の短い生涯をずっと慰めてきたのではないだろう、か。
(http://mizumakura.exblog.jp/3869390/)
■追記 水戸部アサイさんの甥子さんが以下の写真館で専務をされていたようだ
茨城県古河市【ミトベ写真館】
http://www.mitobe.net/studio.html

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2007-10-11 Thu
『ウィキペディア(Wikipedia)』で金子みすゞ(かねこみすず)の
ことを調べていたら、ユニフォーム三四郎が全て購入している
金子みすゞ作品に関する書籍の著作権が死後50年を経過
しているにもかかわらず、矢崎氏を中心とする組織によって
拘束されているとの記述を発見した。
ウィキペディア(Wikipedia)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E5%AD%90%E3%81%BF%E3%81%99%E3%82%9E
上記のページからリンクされていた下記の長周新聞の記述を
読んでみて、「ひかえめな、日本的婦人の特徴を示している」という
みすゞの総論は-矢崎氏の考え方に反論するための「こじつけ」
で無ければ-非常に的を得たとらえかたで、激しく同意できる。
ユニフォーム三四郎は、金子みすゞの自殺の原因として、一番
大きかったのは、夫から伝染された淋病だと考える。当時の
日本人女性にとって、本人に責任が無いにせよ、このような
病気を持つことは、差別の対象であり、誹謗中傷に甘んじる
のであれば死を選ぶことは、彼女のいさぎよい生活態度から
も察することができる。
■以下は抜粋■
金子みすゞ 『話の関門』を探し出そう
昭和12年、本紙・福田正義主幹が評論
全部の遺稿読み、詩と人生を紹介 2001年4月12日付
遺族の本当の願いを代表
みすゞの作品は、上山文英堂が配っていた日記帳の見本の3冊
にびっしりと書かれてあった。福田主幹は「わたしはその作品を見て
驚いた。りっぱな作品をたくさん書いており、すぐれた詩人である。
その詩はわかりやすく、弱いものへのいたわりが全作品に深く
息づいている」とのべている。また「金子みすゞというのは、売名的
でなく、作品をコツコツと書きつづけており、ひかえめな、日本的
婦人の特徴を示している」と語っている。
http://www.h5.dion.ne.jp/~chosyu/hanasinokanmonwosagasidasou.htm
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ことを調べていたら、ユニフォーム三四郎が全て購入している
金子みすゞ作品に関する書籍の著作権が死後50年を経過
しているにもかかわらず、矢崎氏を中心とする組織によって
拘束されているとの記述を発見した。
ウィキペディア(Wikipedia)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E5%AD%90%E3%81%BF%E3%81%99%E3%82%9E
上記のページからリンクされていた下記の長周新聞の記述を
読んでみて、「ひかえめな、日本的婦人の特徴を示している」という
みすゞの総論は-矢崎氏の考え方に反論するための「こじつけ」
で無ければ-非常に的を得たとらえかたで、激しく同意できる。
ユニフォーム三四郎は、金子みすゞの自殺の原因として、一番
大きかったのは、夫から伝染された淋病だと考える。当時の
日本人女性にとって、本人に責任が無いにせよ、このような
病気を持つことは、差別の対象であり、誹謗中傷に甘んじる
のであれば死を選ぶことは、彼女のいさぎよい生活態度から
も察することができる。
■以下は抜粋■
金子みすゞ 『話の関門』を探し出そう
昭和12年、本紙・福田正義主幹が評論
全部の遺稿読み、詩と人生を紹介 2001年4月12日付
遺族の本当の願いを代表
みすゞの作品は、上山文英堂が配っていた日記帳の見本の3冊
にびっしりと書かれてあった。福田主幹は「わたしはその作品を見て
驚いた。りっぱな作品をたくさん書いており、すぐれた詩人である。
その詩はわかりやすく、弱いものへのいたわりが全作品に深く
息づいている」とのべている。また「金子みすゞというのは、売名的
でなく、作品をコツコツと書きつづけており、ひかえめな、日本的
婦人の特徴を示している」と語っている。
http://www.h5.dion.ne.jp/~chosyu/hanasinokanmonwosagasidasou.htm
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2007-09-30 Sun
ユニフォーム三四郎の最近読んだ書籍。
江戸時代にイタリアから宣教師として日本に来た「シドチ」。
(シドッチ、シロウテ、シローテとも呼ぶ)
司馬遼太郎のこの書籍には「白石と松陰の場合-学問のすすめ」
という1969年に書かれた寄稿の新井白石の学問への
取り組み方について、エピソードとしてシドチとのかかわり
が記述されている。
しかし、なぜかとても気になった。この宣教師はやはり
獄門にかけられてしまったのだろうか?。この書籍には
記述が無かったので、インターネットで調べてみた。
獄門では無かったが・・・やはり釈然としない結末。
恐らく凍死だろうか。死罪よりもひどい扱いになって
しまっている。
宣教師ヨハン・シロウテは、座って身を容れるだけの数尺の牢に閉じ込められます。
キリシタン弾圧の際に使用された一辺数尺の牢(3尺牢)は、津和野のキリシタン殉難の地「乙女峠」にそのひな型が展示されています。ヨハン・シロウテは、立つことも、横になることも、姿勢を変えることもできない数尺の牢の中で、わずかな粥以外何も与えられませんでした。
シロウテは、泣きながら、日本人は残酷である・・・と訴えたといいます。
http://eigaku.cocolog-nifty.com/jyosetu/2005/09/post_ae3d.html
(部落学序説 『西洋紀聞』・長助とはるの物語)
そして、上記と同じ吉田向学さんのブログには以下の
興味深い記述がある。
長助とはるが「非人」であるというのは、幕府から、そのように命じられて、長年に渡ってその仕事に従事してきたからです。獄舎の掃除や囚人の食事の世話は、長州藩の支藩である徳山藩の記録によると、「穢多」身分の「小番」という役がこれにあたります。長助とはるは、その職務上は、「被支配」ではなく「支配」の側に身を置いていたのです。
幕府が、狂気の中、キリシタン糾弾や弾圧をしている真っ最中なら、長助とはるは、キリシタン関係者として、キリシタンと同じ罪で斬首に処せられたと思われます。しかし、その時は過ぎ去り、江戸の民衆からキリシタン糾弾や弾圧の悲惨さを遠ざけることを幕府の方針としたあとであったため、長介とはるは命拾いをするのです。それぞれの両親は処刑され、そのあと、キリシタン・バテレンに引き取られていたのです。長介とはるは幼くして殺すにしのびないと思った幕府は、キリシタン屋敷に囚人として送られてくる「宗教犯罪者」の身の回りの世話をする役を与え、長助とはるを生かすのです。そして、長助とはるが年頃になったとき、二人を夫婦にします。
http://eigaku.cocolog-nifty.com/jyosetu/2005/09/post_ae3d.html
(部落学序説 『西洋紀聞』・長助とはるの物語)
このほか、シドッチの概要を知るには、以下のサイト
も興味深い。現代のキリスト協会のサイトでは、
シドッチの信仰心を讃えている。もうひとつは、
成人してから「長助とはる」のエピソードを
深く知り、キリスト教徒から離れた方のサイト
です。
http://www.nobitown.com/dom020603.html
(西洋思想と東洋思想 ~最後の宣教師「新井白石とシドッチ」~)
http://www.page.sannet.ne.jp/tcchp/mikotoba/hakuseki.htm
(新井白石と宣教師しろうて( 西洋紀聞 から))
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江戸時代にイタリアから宣教師として日本に来た「シドチ」。
(シドッチ、シロウテ、シローテとも呼ぶ)
司馬遼太郎のこの書籍には「白石と松陰の場合-学問のすすめ」
という1969年に書かれた寄稿の新井白石の学問への
取り組み方について、エピソードとしてシドチとのかかわり
が記述されている。
しかし、なぜかとても気になった。この宣教師はやはり
獄門にかけられてしまったのだろうか?。この書籍には
記述が無かったので、インターネットで調べてみた。
獄門では無かったが・・・やはり釈然としない結末。
恐らく凍死だろうか。死罪よりもひどい扱いになって
しまっている。
宣教師ヨハン・シロウテは、座って身を容れるだけの数尺の牢に閉じ込められます。
キリシタン弾圧の際に使用された一辺数尺の牢(3尺牢)は、津和野のキリシタン殉難の地「乙女峠」にそのひな型が展示されています。ヨハン・シロウテは、立つことも、横になることも、姿勢を変えることもできない数尺の牢の中で、わずかな粥以外何も与えられませんでした。
シロウテは、泣きながら、日本人は残酷である・・・と訴えたといいます。
http://eigaku.cocolog-nifty.com/jyosetu/2005/09/post_ae3d.html
(部落学序説 『西洋紀聞』・長助とはるの物語)
そして、上記と同じ吉田向学さんのブログには以下の
興味深い記述がある。
長助とはるが「非人」であるというのは、幕府から、そのように命じられて、長年に渡ってその仕事に従事してきたからです。獄舎の掃除や囚人の食事の世話は、長州藩の支藩である徳山藩の記録によると、「穢多」身分の「小番」という役がこれにあたります。長助とはるは、その職務上は、「被支配」ではなく「支配」の側に身を置いていたのです。
幕府が、狂気の中、キリシタン糾弾や弾圧をしている真っ最中なら、長助とはるは、キリシタン関係者として、キリシタンと同じ罪で斬首に処せられたと思われます。しかし、その時は過ぎ去り、江戸の民衆からキリシタン糾弾や弾圧の悲惨さを遠ざけることを幕府の方針としたあとであったため、長介とはるは命拾いをするのです。それぞれの両親は処刑され、そのあと、キリシタン・バテレンに引き取られていたのです。長介とはるは幼くして殺すにしのびないと思った幕府は、キリシタン屋敷に囚人として送られてくる「宗教犯罪者」の身の回りの世話をする役を与え、長助とはるを生かすのです。そして、長助とはるが年頃になったとき、二人を夫婦にします。
http://eigaku.cocolog-nifty.com/jyosetu/2005/09/post_ae3d.html
(部落学序説 『西洋紀聞』・長助とはるの物語)
このほか、シドッチの概要を知るには、以下のサイト
も興味深い。現代のキリスト協会のサイトでは、
シドッチの信仰心を讃えている。もうひとつは、
成人してから「長助とはる」のエピソードを
深く知り、キリスト教徒から離れた方のサイト
です。
http://www.nobitown.com/dom020603.html
(西洋思想と東洋思想 ~最後の宣教師「新井白石とシドッチ」~)
http://www.page.sannet.ne.jp/tcchp/mikotoba/hakuseki.htm
(新井白石と宣教師しろうて( 西洋紀聞 から))
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