2010-05-14 Fri
「何も選ばない」生き方のすすめ
以下のサイトで先祖の調べ方を教えていただいたのが、
テキストに残っていたので、転載させていただく。このサイトは
現在無くなってしまったようだ。残念。
やまとこころ
http://blogs.dion.ne.jp/amabegoro/archives/cat_10726.html
以下は引用です。
歴史・文学・雑学について
March 28, 2006
先祖の調べ方(5)
かなり久々の先祖の調べ方ということです・・・・。
今回は「○藤」さんの苗字について。
よく佐藤さんとか近藤さんとかおられますが、もともとは「藤原氏」ゆかりの苗字なのですね。
平安時代の頃、各地の国司(いまの行政最高責任者)になった藤原さんたちがいました。
藤原といっても、傍系の傍系になるともう貴族とはいえず、さまざまな手段で「官位」を買ったといいますね。
めでたく国司になった藤原さんたちは、地元からさまざまな利益を得て都に帰ったといいます。
この藤原さんたちのご落胤がいたのですね。
地方の豪族、庶民の女性が産んだ子供たちが「地方貴族?」となって豪族、武士となったといいます。
そのとき、「藤原・・・」では聞こえがわるく、どこの生まれか分からなくなるので、生まれた国の名を名乗ります。
近江の藤原氏だから「近藤」、遠州の藤原氏は「遠藤」、武蔵の藤原氏は「武藤」などなど。
また、都から来た藤原氏の一族がその国の国名(住所地)と藤を合わせたということもあるそうです。
佐藤姓は、佐野(栃木県)の藤原という意味があるそうですね。
皆藤姓なども国名ではないのですが、藤原氏の流れらしいですね。
ところで、「古代でもっとも多かったのが物部氏、中世では藤原氏、近世では源氏の流れが栄えたとされます」ね・・・・。
物部→藤原→源氏と名乗った家系もあるようで・・。
一筋縄ではいかないようです。ご参考までに。
Posted by amabegoro at 16:17 |Comments(0) | 先祖の調べ方
September 21, 2005
先祖の調べ方(4)
約一年ぶりに先祖の調べ方(4)を書こうかと・・・。
先祖の調べ方(1)では、戸籍謄本のこと、墓について
先祖の調べ方(2)は、家の宗旨による先祖の身分、職業について
先祖の調べ方(3)は、ご先祖の戒名(法名)について
を書いてみました。
今回は、少し「家紋」について書いてみようと思います。
家紋にはいろいろありますが、今回は「くぎ抜き紋」について。
この紋は、近江源氏の「佐々木姓」の方が多く使います。
佐々木姓は、宇多天皇の子孫とされ、滋賀県を拠点に栄えた一族です。有名なバザラ大名・佐々木道誉はこの一族です。
この一族が京都の京極、六角に住んだところから京極姓、六角姓ともなっています。
戦国時代、中国地方に勢力を誇った「尼子氏」や明治時代の軍人・乃木希典氏も佐々木一族とされ、北は東北から南は九州まで佐々木姓は存在します。
つづく
Posted by amabegoro at 13:52 |Comments(0) |TrackBack(0) | 先祖の調べ方
September 25, 2004
先祖の調べ方(3)
今回は戒名からわかる先祖です。
普通の家では仏式にて葬祭をおこないます。亡くなった家族には、漢字の難しい字の名前がつけられます。属する宗旨によって戒名(かいみょう)、法名(ほうみょう)と呼ぶ場合があります。
戒名はよくお墓に刻んでいます。あるいは家の仏壇に戒名帳といって戒名が書いてあるのがありますので見てみてください。
普通の戒名は
○○○○信士(信女)、または○○○○居士(大姉)となります。
男性には信士(居士)、女性には信女(大姉)とつけられます。
○○○○には漢字で4文字が入ります。
次に
○○院○○○○居士(大姉)があります。
財産のある家、寺院に寄付したり、世話をした 人、有力者、俗に旧家といわれる家に多い。(現在は一般的にこのタイプがほとんど)
かつての武士、サムライに多いのが
○○軒○○○○居士(大姉)があります。
または、
○○院(軒)○○○○禅定門(女性は禅定尼)があります。これは武士、かつての豪族といわれる家の人に多い。
さらに大名、公家となると
続きを読む
Posted by amabegoro at 11:25 |Comments(0) |TrackBack(1) | 先祖の調べ方
September 14, 2004
先祖の調べ方(2)
先祖の戸籍、お寺をもう知ってる方のためにもう少し詳しく書きます。
江戸時代、徳川幕府の政策で「檀家制度」が行われていました。これは現在の戸籍にあたるもので、日本人なら必ず「ある宗派」でお葬式をするように定められていました。これは、「キリシタン」取締りと身分を固定するためにおこなわれたらしい。
身分によって「お寺」の宗旨が決まっていました。
天子(天皇・皇族)→真言宗
公家 →天台宗、臨済宗、浄土宗
大名 →浄土宗、禅宗など
武家 →禅宗、真言宗
商人 →浄土宗、浄土真宗
農民 →真言、浄土真宗など
工芸・職人 →日蓮宗、時宗など
大まかに言うとですが、このような分類になっていたらしい。
うぅん? 神道ですか?
神道は、明治になって神職となっている家では、
「廃仏棄釈」で真言、天台宗の僧侶から、神道になったところが多い。
ちなみに隠れキリシタンは、浄土、浄土真宗としておりました。
これらを頭にいれとくと、先祖の職業がわかるはずです。ただし、例外もあるので確認してみて下さい。
明治以降、あるいは戦後に家の宗旨を変えている場合もありますので、この分類はあてはまらないこともありますのでご容赦のほどを・・・・・・。
(つづく) 次回は、戒名からみる先祖の姿です。
Posted by amabegoro at 14:22 | 先祖の調べ方
先祖の調べ方(1)
今日は旧暦の太陰暦では八月一日。八朔(はっさく)の日です。果物のはっさくは、このはっさくからきています。
それはさておき、昨日の続きで「先祖の調べ方」をご教授いたします。
先祖ってどう調べるの?やまぶしさんが進路学習で書いていましたが、
まず、自分の本籍地を確認します。まず戸籍を取り寄せてください。戸籍には必ず「本籍地」と「戸籍筆頭者」がのっています。「戸籍筆頭者」が死亡しているときは「除籍謄本」をとりよせて確認します。一通@800~1000くらい
自分→両親→祖父母→曽祖父母・・・とさかのぼれます。「除籍謄本」でわからなければ「原戸籍謄本」をとってみてください。それらで5~7代前の先祖のつながりはわかります。
母方の場合も同じように取れますが直系の親子関係でないと「戸籍」はとれないのでご注意。
本籍地と現在の住所が違う場合は、本籍地のある市役所、町村役場に問い合わせて「郵送」で「除籍謄本」を取得できるか確認してください。続きを読む
Posted by amabegoro at 13:49 |Comments(2) |TrackBack(1) | 先祖の調べ方
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テキストに残っていたので、転載させていただく。このサイトは
現在無くなってしまったようだ。残念。
やまとこころ
http://blogs.dion.ne.jp/amabegoro/archives/cat_10726.html
以下は引用です。
歴史・文学・雑学について
March 28, 2006
先祖の調べ方(5)
かなり久々の先祖の調べ方ということです・・・・。
今回は「○藤」さんの苗字について。
よく佐藤さんとか近藤さんとかおられますが、もともとは「藤原氏」ゆかりの苗字なのですね。
平安時代の頃、各地の国司(いまの行政最高責任者)になった藤原さんたちがいました。
藤原といっても、傍系の傍系になるともう貴族とはいえず、さまざまな手段で「官位」を買ったといいますね。
めでたく国司になった藤原さんたちは、地元からさまざまな利益を得て都に帰ったといいます。
この藤原さんたちのご落胤がいたのですね。
地方の豪族、庶民の女性が産んだ子供たちが「地方貴族?」となって豪族、武士となったといいます。
そのとき、「藤原・・・」では聞こえがわるく、どこの生まれか分からなくなるので、生まれた国の名を名乗ります。
近江の藤原氏だから「近藤」、遠州の藤原氏は「遠藤」、武蔵の藤原氏は「武藤」などなど。
また、都から来た藤原氏の一族がその国の国名(住所地)と藤を合わせたということもあるそうです。
佐藤姓は、佐野(栃木県)の藤原という意味があるそうですね。
皆藤姓なども国名ではないのですが、藤原氏の流れらしいですね。
ところで、「古代でもっとも多かったのが物部氏、中世では藤原氏、近世では源氏の流れが栄えたとされます」ね・・・・。
物部→藤原→源氏と名乗った家系もあるようで・・。
一筋縄ではいかないようです。ご参考までに。
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September 21, 2005
先祖の調べ方(4)
約一年ぶりに先祖の調べ方(4)を書こうかと・・・。
先祖の調べ方(1)では、戸籍謄本のこと、墓について
先祖の調べ方(2)は、家の宗旨による先祖の身分、職業について
先祖の調べ方(3)は、ご先祖の戒名(法名)について
を書いてみました。
今回は、少し「家紋」について書いてみようと思います。
家紋にはいろいろありますが、今回は「くぎ抜き紋」について。
この紋は、近江源氏の「佐々木姓」の方が多く使います。
佐々木姓は、宇多天皇の子孫とされ、滋賀県を拠点に栄えた一族です。有名なバザラ大名・佐々木道誉はこの一族です。
この一族が京都の京極、六角に住んだところから京極姓、六角姓ともなっています。
戦国時代、中国地方に勢力を誇った「尼子氏」や明治時代の軍人・乃木希典氏も佐々木一族とされ、北は東北から南は九州まで佐々木姓は存在します。
つづく
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September 25, 2004
先祖の調べ方(3)
今回は戒名からわかる先祖です。
普通の家では仏式にて葬祭をおこないます。亡くなった家族には、漢字の難しい字の名前がつけられます。属する宗旨によって戒名(かいみょう)、法名(ほうみょう)と呼ぶ場合があります。
戒名はよくお墓に刻んでいます。あるいは家の仏壇に戒名帳といって戒名が書いてあるのがありますので見てみてください。
普通の戒名は
○○○○信士(信女)、または○○○○居士(大姉)となります。
男性には信士(居士)、女性には信女(大姉)とつけられます。
○○○○には漢字で4文字が入ります。
次に
○○院○○○○居士(大姉)があります。
財産のある家、寺院に寄付したり、世話をした 人、有力者、俗に旧家といわれる家に多い。(現在は一般的にこのタイプがほとんど)
かつての武士、サムライに多いのが
○○軒○○○○居士(大姉)があります。
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September 14, 2004
先祖の調べ方(2)
先祖の戸籍、お寺をもう知ってる方のためにもう少し詳しく書きます。
江戸時代、徳川幕府の政策で「檀家制度」が行われていました。これは現在の戸籍にあたるもので、日本人なら必ず「ある宗派」でお葬式をするように定められていました。これは、「キリシタン」取締りと身分を固定するためにおこなわれたらしい。
身分によって「お寺」の宗旨が決まっていました。
天子(天皇・皇族)→真言宗
公家 →天台宗、臨済宗、浄土宗
大名 →浄土宗、禅宗など
武家 →禅宗、真言宗
商人 →浄土宗、浄土真宗
農民 →真言、浄土真宗など
工芸・職人 →日蓮宗、時宗など
大まかに言うとですが、このような分類になっていたらしい。
うぅん? 神道ですか?
神道は、明治になって神職となっている家では、
「廃仏棄釈」で真言、天台宗の僧侶から、神道になったところが多い。
ちなみに隠れキリシタンは、浄土、浄土真宗としておりました。
これらを頭にいれとくと、先祖の職業がわかるはずです。ただし、例外もあるので確認してみて下さい。
明治以降、あるいは戦後に家の宗旨を変えている場合もありますので、この分類はあてはまらないこともありますのでご容赦のほどを・・・・・・。
(つづく) 次回は、戒名からみる先祖の姿です。
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先祖の調べ方(1)
今日は旧暦の太陰暦では八月一日。八朔(はっさく)の日です。果物のはっさくは、このはっさくからきています。
それはさておき、昨日の続きで「先祖の調べ方」をご教授いたします。
先祖ってどう調べるの?やまぶしさんが進路学習で書いていましたが、
まず、自分の本籍地を確認します。まず戸籍を取り寄せてください。戸籍には必ず「本籍地」と「戸籍筆頭者」がのっています。「戸籍筆頭者」が死亡しているときは「除籍謄本」をとりよせて確認します。一通@800~1000くらい
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母方の場合も同じように取れますが直系の親子関係でないと「戸籍」はとれないのでご注意。
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| ユニフォーム姿三四郎 | 08:02 | comments (x) | trackback (x) | ユニフォーム姿三四郎の幸せ::読書 |
2010-05-11 Tue
「何も選ばない」生き方のすすめ
この書籍を読んで、あらためて感じたこと。
薩長土肥の高級官僚の独占は、いたるところに形跡を
残している。たとえば、幕府直轄地であった地域は
もちろんのこと、官軍に付かなかった藩の県令(知事)や
権参事(副知事)など、初代を調べてみると、はるばる
薩摩(鹿児島)や肥前(佐賀)などの出身者が着任して
いることが多い。
これらは相当の数にのぼると見られるが、薩長土肥の
独占がゆえに、優秀な人材を不足していただろう。
これが、そもそもの日本の政治の弱体化の始まり
だったのかも知れない。
現代でも政治家、つまり代議士でたとえてみると、
それに比較して官僚の方が優秀であることが多いだろう。
おそらく、そういうことは既成概念として定着して
しまっていると思われる。
各省庁の官僚から見たら「誰が来ても同じ」だ。
同様に、他県から着た知事に対しても、必要以上に
冷たくあしらう地方公務員を見るにつけて、
明治時代に威張っていた県令達が引いた線が与えた
現代の2層化への影響が大きいことを感じる。
中級・下級官吏にしかなれなかった幕臣は、
それでも職があるだけマシというような物差しで
仕事を探したことだろう。もともと、太鼓が鳴れば
登城して、着物を着せたりするだけの仕事で
のんびりやっていた人達の子孫だから、お行儀は
良かっただろう。薩長土肥にとっては好都合
だったのかも知れない。
※幕府側では新撰組(武士では無い)を除いて、皆誠実
だったと思っている。私怨で人を斬ったりする
新撰組と、同じ土俵で戦った薩摩藩の下級武士に
ついては言うまでも無いが、そういう人達が
明治政府を動かした。そこまでいかない藩士達も
後に出世して、勲章をもらったり、男爵などに
なっている。
以下は書籍からの抜粋・・・
明治10年(1877年)の数字によれば、政府官員5215人のうち、
静岡・東京出身者は1755人にも及んでいたという。
静岡・東京出身者とは、静岡藩士であり、その母体となった旧幕臣の
ことだが、彼らが官吏の三分の一を占めていた計算になる。
もっとも、勅任官や奏任官など高級官僚は薩長土肥の四藩出身者が独占していたのだが、
判任官など中級以下の官僚には旧幕臣出身者が多かった(樋口前掲書)。
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この書籍を読んで、あらためて感じたこと。
薩長土肥の高級官僚の独占は、いたるところに形跡を
残している。たとえば、幕府直轄地であった地域は
もちろんのこと、官軍に付かなかった藩の県令(知事)や
権参事(副知事)など、初代を調べてみると、はるばる
薩摩(鹿児島)や肥前(佐賀)などの出身者が着任して
いることが多い。
これらは相当の数にのぼると見られるが、薩長土肥の
独占がゆえに、優秀な人材を不足していただろう。
これが、そもそもの日本の政治の弱体化の始まり
だったのかも知れない。
現代でも政治家、つまり代議士でたとえてみると、
それに比較して官僚の方が優秀であることが多いだろう。
おそらく、そういうことは既成概念として定着して
しまっていると思われる。
各省庁の官僚から見たら「誰が来ても同じ」だ。
同様に、他県から着た知事に対しても、必要以上に
冷たくあしらう地方公務員を見るにつけて、
明治時代に威張っていた県令達が引いた線が与えた
現代の2層化への影響が大きいことを感じる。
中級・下級官吏にしかなれなかった幕臣は、
それでも職があるだけマシというような物差しで
仕事を探したことだろう。もともと、太鼓が鳴れば
登城して、着物を着せたりするだけの仕事で
のんびりやっていた人達の子孫だから、お行儀は
良かっただろう。薩長土肥にとっては好都合
だったのかも知れない。
※幕府側では新撰組(武士では無い)を除いて、皆誠実
だったと思っている。私怨で人を斬ったりする
新撰組と、同じ土俵で戦った薩摩藩の下級武士に
ついては言うまでも無いが、そういう人達が
明治政府を動かした。そこまでいかない藩士達も
後に出世して、勲章をもらったり、男爵などに
なっている。
以下は書籍からの抜粋・・・
明治10年(1877年)の数字によれば、政府官員5215人のうち、
静岡・東京出身者は1755人にも及んでいたという。
静岡・東京出身者とは、静岡藩士であり、その母体となった旧幕臣の
ことだが、彼らが官吏の三分の一を占めていた計算になる。
もっとも、勅任官や奏任官など高級官僚は薩長土肥の四藩出身者が独占していたのだが、
判任官など中級以下の官僚には旧幕臣出身者が多かった(樋口前掲書)。
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2010-05-05 Wed
「何も選ばない」生き方のすすめ
1945年7月26日、アメリカ合衆国、中華民国および英国の連合軍はポツダム宣言を発した。この時点ではソビエトは中立の立場であった。日本はこれを無視。
既に、東京大空襲など大都市が壊滅状態になって4ヶ月近くが経過している7月、ポツダム宣言を昭和天皇は「もう一度戦果を上げ」て降伏もしくは和解の条件を上げるとして受け入れなかった。その日から降伏までの、ほんの数週間に悲しい出来事が大きくなったことは事実。(但し、本当に天皇の意見だったかどうかは出典が確認できていない。)
8月6日広島市への原子爆弾投下。
8月8日ソ連の宣戦布告。
8月9日長崎市への原子爆弾投下。
8月10日国体の変更を伴わないかどうかを連合国に確認。
8月14日回答を待たずに御前会議で、昭和天皇の裁断によりポツダム宣言受諾が決定
8月15日昭和天皇、戦争の終結を国民に伝える玉音放送。
上記の流れを追っていくと、2つの原爆とソ連の参戦により、敗戦の相手国を増やしてしまったことが悔やまれる。その理由は「国体の維持」という、現体制の保身に集約されていることを考えると、さらに責任は大きいと言える。
しかし、ソ連の参戦などを警戒したアメリカが、より戦勝後の日本の統治に意欲を燃やしたことは非常に運が良かったのかも知れない。ソビエトや中国に占領されていたとしたら、日本の文化の毀損度は、アメリカ統治による毀損度とは比べものにならないくらい大きかっただろう。(10日の御前会議での昭和天皇の決断は、遅かったことは否めないが、戦後のアメリカ占領の流れをギリギリ保ったことは功績と言えるのかも知れない。)
今、中国が「世界の中心の国」であることを数百年ぶりに意識しはじめて、一部に日本を属国と考えるような勢力の台頭も危惧される。アジア通貨統合など、やんわりとした合流は避けられない時代となったとしても、少しでもその時期を先延ばしにするような政策が求められる。政策といっても、政治家は何も考えていないし、官僚も保身ばかり。こうなると、アメリカに統治された時と同じように運に身を任せるしか無いのか?。
ただ、言えることは、中国やロシアが今のままでは無く、かつての日本のように外国文化や考え方を受け入れることが出来たら、文化的な国家になることも間違いでは無いだろう。私が昔、大学で勉強したロシア文学や中国文学の誠実な精神性というもの、それらの先祖の思想が花を咲かせて、もしかしたら新たな価値観を生み出すかも知れない。
いずれにしても、今の日本人は労働時間ばかり長くて、仕事の密度が低すぎる。かつてはそれを補う技術力があったのだが、それが激減していることを考えると、先ほどの日記の繰り返しになるが「勤勉さを取り戻すこと」しか無いだろう。タイムカードを押している時間に、なんとかして仕事をしないでおこうと考える人間を責めなければ、将来リスクが発生しても、日本人を大切な隣人と考えてもらえない。
敗戦当時の日本人というのが、アメリカ人から見て誠実で勤勉に見えたことは間違いのない事実なのだから。
※但し、原爆はもとより、東京や大阪などの民間人を絨緞爆撃されたことは、孫の代まで伝える必要がある。
【ポツダム宣言】
ポツダム会談での合意に基づいて、アメリカ合衆国、中華民国および英国の首脳が、1945年(昭和20年)7月26日に大日本帝国(日本)に対して発した、第二次世界大戦(大東亜戦争、太平洋戦争)に関し、「全日本軍の無条件降伏」等を求めた13条から成る宣言。
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%84%E3%83%80%E3%83%A0%E5%AE%A3%E8%A8%80)
【ソ連対日参戦】
満洲における日本の軍事力が急速に低下する一方でドイツ軍は敗退を続け、ソ連側に余力が生じたことでソ連の対日参戦が現実味を帯び始める。
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E9%80%A3%E5%AF%BE%E6%97%A5%E5%8F%82%E6%88%A6)
こうした状況下で、二月に平沼騏一郎・広田弘毅・近衛・若槻礼次郎・牧野伸顕・岡田・東条ら七人の重臣によって時局に関する上奏が行われた。これら七人の重臣の中で、近衛だけが明確な政治的方向性を持って上奏した。(19)近衛は「最悪ナル事態ハ遺憾ナガラ最早必至ナリ」として、敗戦が最早避けられないことを述べ、「国体護持ノ立場ヨリ最モ憂フベキ」なのは「共産革命」であり、それを回避するためには、「一日モ速ニ戦争終結ノ方途ヲ構ズベキ」という考えを上奏した。これに対し天皇は「モウ一度戦果ヲ挙ゲテカラデナイト中々話ハ難シイト思フ」(20)と答えた。
(http://megalodon.jp/2010-0505-1321-26/www.bl.mmtr.or.jp/~k-hideya/sotsu2.htm)
この宣言が出ても、戦争継続派は非常に強硬ではあったが、広島・長崎への原爆投下、ソ連の参戦など戦局はより緊迫し、鈴木首相・米内海相らは「国体護持」だけを条件にしてポツダム宣言を受諾すべきだと主張し、日本側の自主的武装解除などの四条件付き受諾をとる阿南惟畿(惟幾)陸相・梅津美治郎参謀総長らと対立した。この結論は一〇日の御前会議に持ち越され、天皇の「聖断」によって、「国体護持」のみを条件としてポツダム宣言を受諾することに決定した。
(http://megalodon.jp/2010-0505-1321-26/www.bl.mmtr.or.jp/~k-hideya/sotsu2.htm)
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1945年7月26日、アメリカ合衆国、中華民国および英国の連合軍はポツダム宣言を発した。この時点ではソビエトは中立の立場であった。日本はこれを無視。
既に、東京大空襲など大都市が壊滅状態になって4ヶ月近くが経過している7月、ポツダム宣言を昭和天皇は「もう一度戦果を上げ」て降伏もしくは和解の条件を上げるとして受け入れなかった。その日から降伏までの、ほんの数週間に悲しい出来事が大きくなったことは事実。(但し、本当に天皇の意見だったかどうかは出典が確認できていない。)
8月6日広島市への原子爆弾投下。
8月8日ソ連の宣戦布告。
8月9日長崎市への原子爆弾投下。
8月10日国体の変更を伴わないかどうかを連合国に確認。
8月14日回答を待たずに御前会議で、昭和天皇の裁断によりポツダム宣言受諾が決定
8月15日昭和天皇、戦争の終結を国民に伝える玉音放送。
上記の流れを追っていくと、2つの原爆とソ連の参戦により、敗戦の相手国を増やしてしまったことが悔やまれる。その理由は「国体の維持」という、現体制の保身に集約されていることを考えると、さらに責任は大きいと言える。
しかし、ソ連の参戦などを警戒したアメリカが、より戦勝後の日本の統治に意欲を燃やしたことは非常に運が良かったのかも知れない。ソビエトや中国に占領されていたとしたら、日本の文化の毀損度は、アメリカ統治による毀損度とは比べものにならないくらい大きかっただろう。(10日の御前会議での昭和天皇の決断は、遅かったことは否めないが、戦後のアメリカ占領の流れをギリギリ保ったことは功績と言えるのかも知れない。)
今、中国が「世界の中心の国」であることを数百年ぶりに意識しはじめて、一部に日本を属国と考えるような勢力の台頭も危惧される。アジア通貨統合など、やんわりとした合流は避けられない時代となったとしても、少しでもその時期を先延ばしにするような政策が求められる。政策といっても、政治家は何も考えていないし、官僚も保身ばかり。こうなると、アメリカに統治された時と同じように運に身を任せるしか無いのか?。
ただ、言えることは、中国やロシアが今のままでは無く、かつての日本のように外国文化や考え方を受け入れることが出来たら、文化的な国家になることも間違いでは無いだろう。私が昔、大学で勉強したロシア文学や中国文学の誠実な精神性というもの、それらの先祖の思想が花を咲かせて、もしかしたら新たな価値観を生み出すかも知れない。
いずれにしても、今の日本人は労働時間ばかり長くて、仕事の密度が低すぎる。かつてはそれを補う技術力があったのだが、それが激減していることを考えると、先ほどの日記の繰り返しになるが「勤勉さを取り戻すこと」しか無いだろう。タイムカードを押している時間に、なんとかして仕事をしないでおこうと考える人間を責めなければ、将来リスクが発生しても、日本人を大切な隣人と考えてもらえない。
敗戦当時の日本人というのが、アメリカ人から見て誠実で勤勉に見えたことは間違いのない事実なのだから。
※但し、原爆はもとより、東京や大阪などの民間人を絨緞爆撃されたことは、孫の代まで伝える必要がある。
【ポツダム宣言】
ポツダム会談での合意に基づいて、アメリカ合衆国、中華民国および英国の首脳が、1945年(昭和20年)7月26日に大日本帝国(日本)に対して発した、第二次世界大戦(大東亜戦争、太平洋戦争)に関し、「全日本軍の無条件降伏」等を求めた13条から成る宣言。
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%84%E3%83%80%E3%83%A0%E5%AE%A3%E8%A8%80)
【ソ連対日参戦】
満洲における日本の軍事力が急速に低下する一方でドイツ軍は敗退を続け、ソ連側に余力が生じたことでソ連の対日参戦が現実味を帯び始める。
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E9%80%A3%E5%AF%BE%E6%97%A5%E5%8F%82%E6%88%A6)
こうした状況下で、二月に平沼騏一郎・広田弘毅・近衛・若槻礼次郎・牧野伸顕・岡田・東条ら七人の重臣によって時局に関する上奏が行われた。これら七人の重臣の中で、近衛だけが明確な政治的方向性を持って上奏した。(19)近衛は「最悪ナル事態ハ遺憾ナガラ最早必至ナリ」として、敗戦が最早避けられないことを述べ、「国体護持ノ立場ヨリ最モ憂フベキ」なのは「共産革命」であり、それを回避するためには、「一日モ速ニ戦争終結ノ方途ヲ構ズベキ」という考えを上奏した。これに対し天皇は「モウ一度戦果ヲ挙ゲテカラデナイト中々話ハ難シイト思フ」(20)と答えた。
(http://megalodon.jp/2010-0505-1321-26/www.bl.mmtr.or.jp/~k-hideya/sotsu2.htm)
この宣言が出ても、戦争継続派は非常に強硬ではあったが、広島・長崎への原爆投下、ソ連の参戦など戦局はより緊迫し、鈴木首相・米内海相らは「国体護持」だけを条件にしてポツダム宣言を受諾すべきだと主張し、日本側の自主的武装解除などの四条件付き受諾をとる阿南惟畿(惟幾)陸相・梅津美治郎参謀総長らと対立した。この結論は一〇日の御前会議に持ち越され、天皇の「聖断」によって、「国体護持」のみを条件としてポツダム宣言を受諾することに決定した。
(http://megalodon.jp/2010-0505-1321-26/www.bl.mmtr.or.jp/~k-hideya/sotsu2.htm)
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2010-05-05 Wed
「何も選ばない」生き方のすすめ
とにかく衝撃的な写真が下記のサイトに掲載されて
いる。
http://megalodon.jp/2010-0401-0042-07/photo.jijisama.org/OldKorea.html
このサイトによると、チマチョゴリという韓国の民族衣装
は、女性の胸をむき出しにしていることが事実として
写真に残っていることが説明されている。
こういう恥ずかしい歴史は、広まらないように意識的
に隠されてしまうのだろう。
日本も、この時代は韓国に比べれば、多少先進的
であったが、江戸・明治のはじめは同じように恥部を
かかえているものと思われる。都市部から外の民衆は
ヨーロッパ人から見ると「土人」と呼ばれていたりして、
現代の我々が思い描くアフリカの後進的な人々と
同じような外見に映ったようだ。
顔も体も真っ黒で、男と女の見分けがつかないような
人々が、関東以北の農村部では暮らしていた記録が
残っている。おそらく、全国的に見ても似たような
ものと思われる。
風呂にも入らずに、日に焼けて農作業をして、
煮炊きや炭作りでススをかぶり、そのまま寝ている
ような毎日だったのだろう。
ほんの百年ほど前のこと・・・。
ほとんどの日本人の曾曾お爺さんとか、曾曾お婆さん
は、そんな暮らしをしていたんだと、全ての日本国民が
イメージしてみたとしたら、何かが変わるのでは?と
思ったりする。
現代人の苦労とは比べものにもならない。捨て石の
ように命を繋いでくれて、このような幸せを与えてくれた
ご先祖様に感謝しなければならない。
毎日、好きな時間にお風呂に入って、食べたいものを
食べることが出来ている。1日の中の7時間とか8時間
とか『仕事の時間』くらいは勤勉に働いてみても良い
のでは無いだろうか。
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http://megalodon.jp/2010-0401-0042-07/photo.jijisama.org/OldKorea.html
このサイトによると、チマチョゴリという韓国の民族衣装
は、女性の胸をむき出しにしていることが事実として
写真に残っていることが説明されている。
こういう恥ずかしい歴史は、広まらないように意識的
に隠されてしまうのだろう。
日本も、この時代は韓国に比べれば、多少先進的
であったが、江戸・明治のはじめは同じように恥部を
かかえているものと思われる。都市部から外の民衆は
ヨーロッパ人から見ると「土人」と呼ばれていたりして、
現代の我々が思い描くアフリカの後進的な人々と
同じような外見に映ったようだ。
顔も体も真っ黒で、男と女の見分けがつかないような
人々が、関東以北の農村部では暮らしていた記録が
残っている。おそらく、全国的に見ても似たような
ものと思われる。
風呂にも入らずに、日に焼けて農作業をして、
煮炊きや炭作りでススをかぶり、そのまま寝ている
ような毎日だったのだろう。
ほんの百年ほど前のこと・・・。
ほとんどの日本人の曾曾お爺さんとか、曾曾お婆さん
は、そんな暮らしをしていたんだと、全ての日本国民が
イメージしてみたとしたら、何かが変わるのでは?と
思ったりする。
現代人の苦労とは比べものにもならない。捨て石の
ように命を繋いでくれて、このような幸せを与えてくれた
ご先祖様に感謝しなければならない。
毎日、好きな時間にお風呂に入って、食べたいものを
食べることが出来ている。1日の中の7時間とか8時間
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2009-10-12 Mon
「何も選ばない」生き方のすすめ
ユニフォーム三四郎の最近読んだ書籍。
江戸時代にイタリアから宣教師として日本に来た「シドチ」。
(シドッチ、シロウテ、シローテとも呼ぶ)
司馬遼太郎のこの書籍には「白石と松陰の場合-学問のすすめ」
という1969年に書かれた寄稿の新井白石の学問への
取り組み方について、エピソードとしてシドチとのかかわり
が記述されている。
しかし、なぜかとても気になった。この宣教師はやはり
獄門にかけられてしまったのだろうか?。この書籍には
記述が無かったので、インターネットで調べてみた。
獄門では無かったが・・・やはり釈然としない結末。
恐らく凍死だろうか。死罪よりもひどい扱いになって
しまっている。ユニフォーム姿三四郎の家系は代々
神主なので宗派としては神道ということになっている。
本家には今も神社がある。それでもキリスト教は
どちらかと言えば(仏教に比べて)好きな方だ。
しかし、布教活動というのはいつの時代にも
余計なお世話と感じられてしまうのかも知れない。
それにしても、身近で世話をするうちに信心した長助から
見て、弾圧している下級武士よりもシドチの方が優しい人物に
映ったことは間違いないだろう。
以下は引用です・・・・・。
宣教師ヨハン・シロウテは、座って身を容れるだけの数尺の牢に閉じ込められます。
キリシタン弾圧の際に使用された一辺数尺の牢(3尺牢)は、津和野のキリシタン殉難の地「乙女峠」にそのひな型が展示されています。ヨハン・シロウテは、立つことも、横になることも、姿勢を変えることもできない数尺の牢の中で、わずかな粥以外何も与えられませんでした。
シロウテは、泣きながら、日本人は残酷である・・・と訴えたといいます。
http://eigaku.cocolog-nifty.com/jyosetu/2005/09/post_ae3d.html
(部落学序説 『西洋紀聞』・長助とはるの物語)
そして、上記と同じ吉田向学さんのブログには以下の
興味深い記述がある。
長助とはるが「非人」であるというのは、幕府から、そのように命じられて、長年に渡ってその仕事に従事してきたからです。獄舎の掃除や囚人の食事の世話は、長州藩の支藩である徳山藩の記録によると、「穢多」身分の「小番」という役がこれにあたります。長助とはるは、その職務上は、「被支配」ではなく「支配」の側に身を置いていたのです。
幕府が、狂気の中、キリシタン糾弾や弾圧をしている真っ最中なら、長助とはるは、キリシタン関係者として、キリシタンと同じ罪で斬首に処せられたと思われます。しかし、その時は過ぎ去り、江戸の民衆からキリシタン糾弾や弾圧の悲惨さを遠ざけることを幕府の方針としたあとであったため、長介とはるは命拾いをするのです。それぞれの両親は処刑され、そのあと、キリシタン・バテレンに引き取られていたのです。長介とはるは幼くして殺すにしのびないと思った幕府は、キリシタン屋敷に囚人として送られてくる「宗教犯罪者」の身の回りの世話をする役を与え、長助とはるを生かすのです。そして、長助とはるが年頃になったとき、二人を夫婦にします。
http://eigaku.cocolog-nifty.com/jyosetu/2005/09/post_ae3d.html
(部落学序説 『西洋紀聞』・長助とはるの物語)
このほか、シドッチの概要を知るには、以下のサイト
も興味深い。現代のキリスト協会のサイトでは、
シドッチの信仰心を讃えている。もうひとつは、
成人してから「長助とはる」のエピソードを
深く知り、キリスト教徒から離れた方のサイト
です。
http://www.nobitown.com/dom020603.html
(西洋思想と東洋思想 ~最後の宣教師「新井白石とシドッチ」~)
http://web.archive.org/web/20080127195920/http://www.page.sannet.ne.jp/tcchp/mikotoba/hakuseki.htm
http://tatebayashi-kk.org/mikotoba/mikotobatonokaiwa.pdf
(新井白石と宣教師しろうて( 西洋紀聞 から))
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ユニフォーム三四郎の最近読んだ書籍。
江戸時代にイタリアから宣教師として日本に来た「シドチ」。
(シドッチ、シロウテ、シローテとも呼ぶ)
司馬遼太郎のこの書籍には「白石と松陰の場合-学問のすすめ」
という1969年に書かれた寄稿の新井白石の学問への
取り組み方について、エピソードとしてシドチとのかかわり
が記述されている。
しかし、なぜかとても気になった。この宣教師はやはり
獄門にかけられてしまったのだろうか?。この書籍には
記述が無かったので、インターネットで調べてみた。
獄門では無かったが・・・やはり釈然としない結末。
恐らく凍死だろうか。死罪よりもひどい扱いになって
しまっている。ユニフォーム姿三四郎の家系は代々
神主なので宗派としては神道ということになっている。
本家には今も神社がある。それでもキリスト教は
どちらかと言えば(仏教に比べて)好きな方だ。
しかし、布教活動というのはいつの時代にも
余計なお世話と感じられてしまうのかも知れない。
それにしても、身近で世話をするうちに信心した長助から
見て、弾圧している下級武士よりもシドチの方が優しい人物に
映ったことは間違いないだろう。
以下は引用です・・・・・。
宣教師ヨハン・シロウテは、座って身を容れるだけの数尺の牢に閉じ込められます。
キリシタン弾圧の際に使用された一辺数尺の牢(3尺牢)は、津和野のキリシタン殉難の地「乙女峠」にそのひな型が展示されています。ヨハン・シロウテは、立つことも、横になることも、姿勢を変えることもできない数尺の牢の中で、わずかな粥以外何も与えられませんでした。
シロウテは、泣きながら、日本人は残酷である・・・と訴えたといいます。
http://eigaku.cocolog-nifty.com/jyosetu/2005/09/post_ae3d.html
(部落学序説 『西洋紀聞』・長助とはるの物語)
そして、上記と同じ吉田向学さんのブログには以下の
興味深い記述がある。
長助とはるが「非人」であるというのは、幕府から、そのように命じられて、長年に渡ってその仕事に従事してきたからです。獄舎の掃除や囚人の食事の世話は、長州藩の支藩である徳山藩の記録によると、「穢多」身分の「小番」という役がこれにあたります。長助とはるは、その職務上は、「被支配」ではなく「支配」の側に身を置いていたのです。
幕府が、狂気の中、キリシタン糾弾や弾圧をしている真っ最中なら、長助とはるは、キリシタン関係者として、キリシタンと同じ罪で斬首に処せられたと思われます。しかし、その時は過ぎ去り、江戸の民衆からキリシタン糾弾や弾圧の悲惨さを遠ざけることを幕府の方針としたあとであったため、長介とはるは命拾いをするのです。それぞれの両親は処刑され、そのあと、キリシタン・バテレンに引き取られていたのです。長介とはるは幼くして殺すにしのびないと思った幕府は、キリシタン屋敷に囚人として送られてくる「宗教犯罪者」の身の回りの世話をする役を与え、長助とはるを生かすのです。そして、長助とはるが年頃になったとき、二人を夫婦にします。
http://eigaku.cocolog-nifty.com/jyosetu/2005/09/post_ae3d.html
(部落学序説 『西洋紀聞』・長助とはるの物語)
このほか、シドッチの概要を知るには、以下のサイト
も興味深い。現代のキリスト協会のサイトでは、
シドッチの信仰心を讃えている。もうひとつは、
成人してから「長助とはる」のエピソードを
深く知り、キリスト教徒から離れた方のサイト
です。
http://www.nobitown.com/dom020603.html
(西洋思想と東洋思想 ~最後の宣教師「新井白石とシドッチ」~)
http://web.archive.org/web/20080127195920/http://www.page.sannet.ne.jp/tcchp/mikotoba/hakuseki.htm
http://tatebayashi-kk.org/mikotoba/mikotobatonokaiwa.pdf
(新井白石と宣教師しろうて( 西洋紀聞 から))
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2009-06-25 Thu
「何も選ばない」生き方のすすめ
『おんな二代の記』山川菊栄 著 を読み始めた。
明治維新の頃の話が豊富なので、面白いのだが、
自尊心が高い方のようで、実名入りで、自分が
通った学校の先生を悪く言っていたりして、
『名ごりの夢―蘭医桂川家に生れて』今泉 みね 著
に比べたら、かなり読みづらい。
面白い話は多く、江戸の薩摩藩邸に西郷隆盛の
部下が集まっていたいた頃は、町中の犬と猫が
いなくなった・・・らしい。おそらく、食用に
していたのだが、西南戦争に入っていく過程で、
西郷さんの部下が藩邸からいなくなると、町に
犬と猫が見られるようになったという。
そういえば、戦時中に技師として海外に渡って
いた祖父が、赤犬を食べたらしく、「赤犬なら
美味しい」と言っていたらしいのを祖母から聞いた
ことがある。この話を聞いた頃、既に祖父は
亡くなっており、その家に日本刀や十手があった
のだが、「誰かを斬っていたら怖い」と祖母が
古道具屋を読んで、売ってしまった。
「まぁまぁ、の刀だったらしい」とお金に
変わって喜んでいたことを覚えている。
話が飛んでしまったが、今でも上野御徒町の
「中国東北料理 小虎(ことら)」では、裏メニュー
として、狗肉料理が提供されているらしい。
これは、犬(イヌ)の肉、おそらくチャウチャウ
らしいのだが、可愛らしい犬なので、気の毒な
感じがする。
東北の貧しい地域では、飢饉の時に人間の
赤ちゃんを食べていたらしいので、そういう
人を先祖に持つ方も、間違い無く存在するので
ある。。何かの本で読んだのだが、食べたことを
「絶対に他人に言うな」と口止めされたらしいので、
生涯、後ろめたい気持ちでいたらしい。
(これは、世界的に珍しく無く、おフランス
でも、大英帝国でも貧しい時代には、しかた
なかったようだ。)
http://www.netpro.ne.jp/~takumi-m/book/106-kikin.htm
民芸品の「こけし」は「子消し」であって、
あの先の丸さと、長さを考えると、疑う余地は
無いだろう。
ご先祖様は、大変な時代を生き延びて、我々に
命を繋いでくれている。いろいろと、悩みも
多いが、今の時代は間違い無く「幸せ」であることを
歴史を辿ると実感できるものである。
以下は引用。
日本の犬肉料理「えのころ飯」
1 :世界@名無史さん[sage]:2008/01/02(水) 12:35:14 0
>えのころ飯(えのころめし)とは薩摩地方で食べられていたと言う料理。
>内臓を抜いた仔イヌの腹に米を詰めて焼いたあと、米飯を取り出し食べる、
>というもので、薩摩藩主も食べていた
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%88%E3%81%AE%E3%81%93%E3%82%8D%E9%A3%AF
193 :梵阿弥[sage]:2008/02/02(土) 18:07:30 0
「えのころ」は「犬ころ」ですよね
247 :世界@名無史さん[]:2008/04/08(火) 19:08:38 0
現代の東京でも上野などには普通に犬肉が出てくるみたいだぞ
http://maromaro.com/archive/2007/10/02/kuniku.php
40 :仙台藩百姓:2007/10/13(土) 19:52:52 ID:POMyhXmr
素晴らしい薩摩文化シリーズ
【ひえもん】
薩摩の代表的胃腸薬。
戦死した者や刑死した者の胆嚢を取り出して陰干したもの。
材料が人間であるだけで他地域の「熊の胆」と同様なものである。
病人の治療や健康保全の為に服用された。
薩摩では人の胆が好まれ、近代に入っても戊辰戦争や西南戦争で胆取りが行われた話しが残る。
41 :仙台藩百姓:2007/10/13(土) 20:21:36 ID:POMyhXmr
素晴らしい薩摩文化シリーズ
【ひえもんとり】
薩摩の代表的娯楽競技。
死刑囚の死体から胆嚢を数人で争って取り出す競技。
参加者は互いを殺傷しないよう刃物の所持を禁じられている。
先を争っては死体に群がり胆嚢などを取り出すのだが
参加者は刃物を所持していないため歯を使う。
死体にかぶりつき死肉を食い破り傷口から手を突っ込み胆を取り出す。
そして胆を取り出した者が栄誉とされる。
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『おんな二代の記』山川菊栄 著 を読み始めた。
明治維新の頃の話が豊富なので、面白いのだが、
自尊心が高い方のようで、実名入りで、自分が
通った学校の先生を悪く言っていたりして、
『名ごりの夢―蘭医桂川家に生れて』今泉 みね 著
に比べたら、かなり読みづらい。
面白い話は多く、江戸の薩摩藩邸に西郷隆盛の
部下が集まっていたいた頃は、町中の犬と猫が
いなくなった・・・らしい。おそらく、食用に
していたのだが、西南戦争に入っていく過程で、
西郷さんの部下が藩邸からいなくなると、町に
犬と猫が見られるようになったという。
そういえば、戦時中に技師として海外に渡って
いた祖父が、赤犬を食べたらしく、「赤犬なら
美味しい」と言っていたらしいのを祖母から聞いた
ことがある。この話を聞いた頃、既に祖父は
亡くなっており、その家に日本刀や十手があった
のだが、「誰かを斬っていたら怖い」と祖母が
古道具屋を読んで、売ってしまった。
「まぁまぁ、の刀だったらしい」とお金に
変わって喜んでいたことを覚えている。
話が飛んでしまったが、今でも上野御徒町の
「中国東北料理 小虎(ことら)」では、裏メニュー
として、狗肉料理が提供されているらしい。
これは、犬(イヌ)の肉、おそらくチャウチャウ
らしいのだが、可愛らしい犬なので、気の毒な
感じがする。
東北の貧しい地域では、飢饉の時に人間の
赤ちゃんを食べていたらしいので、そういう
人を先祖に持つ方も、間違い無く存在するので
ある。。何かの本で読んだのだが、食べたことを
「絶対に他人に言うな」と口止めされたらしいので、
生涯、後ろめたい気持ちでいたらしい。
(これは、世界的に珍しく無く、おフランス
でも、大英帝国でも貧しい時代には、しかた
なかったようだ。)
http://www.netpro.ne.jp/~takumi-m/book/106-kikin.htm
民芸品の「こけし」は「子消し」であって、
あの先の丸さと、長さを考えると、疑う余地は
無いだろう。
ご先祖様は、大変な時代を生き延びて、我々に
命を繋いでくれている。いろいろと、悩みも
多いが、今の時代は間違い無く「幸せ」であることを
歴史を辿ると実感できるものである。
以下は引用。
日本の犬肉料理「えのころ飯」
1 :世界@名無史さん[sage]:2008/01/02(水) 12:35:14 0
>えのころ飯(えのころめし)とは薩摩地方で食べられていたと言う料理。
>内臓を抜いた仔イヌの腹に米を詰めて焼いたあと、米飯を取り出し食べる、
>というもので、薩摩藩主も食べていた
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%88%E3%81%AE%E3%81%93%E3%82%8D%E9%A3%AF
193 :梵阿弥[sage]:2008/02/02(土) 18:07:30 0
「えのころ」は「犬ころ」ですよね
247 :世界@名無史さん[]:2008/04/08(火) 19:08:38 0
現代の東京でも上野などには普通に犬肉が出てくるみたいだぞ
http://maromaro.com/archive/2007/10/02/kuniku.php
40 :仙台藩百姓:2007/10/13(土) 19:52:52 ID:POMyhXmr
素晴らしい薩摩文化シリーズ
【ひえもん】
薩摩の代表的胃腸薬。
戦死した者や刑死した者の胆嚢を取り出して陰干したもの。
材料が人間であるだけで他地域の「熊の胆」と同様なものである。
病人の治療や健康保全の為に服用された。
薩摩では人の胆が好まれ、近代に入っても戊辰戦争や西南戦争で胆取りが行われた話しが残る。
41 :仙台藩百姓:2007/10/13(土) 20:21:36 ID:POMyhXmr
素晴らしい薩摩文化シリーズ
【ひえもんとり】
薩摩の代表的娯楽競技。
死刑囚の死体から胆嚢を数人で争って取り出す競技。
参加者は互いを殺傷しないよう刃物の所持を禁じられている。
先を争っては死体に群がり胆嚢などを取り出すのだが
参加者は刃物を所持していないため歯を使う。
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そして胆を取り出した者が栄誉とされる。
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2009-05-24 Sun
「何も選ばない」生き方のすすめ
斗南藩への配流となった会津藩について、なぜ
不毛の地とされる「斗南(現在のむつ市)」を選択
したのかをネットで調べていたら、以下のような
記述が見つかった。このような見解は会津の方
以外においては、最近一般的になっているよう
にも思える。その一例として、引用させていただいた。
「今もって長州に女々しく怨み節をのたまわっている会津の人よ、もう少しマクロな歴史を知って欲しい。戊辰敗戦後斗南に移ったのはあなた達先祖の判断で猪苗代の選択肢(葛西富夫著:斗南藩史 頁113)があったのですよ。 勝者の薩長があたかも酷寒の不毛の地を押しつけたのでは決してありません!!。 」
(http://www.d4.dion.ne.jp/~ponskp/bakuhan/bakuhan.htm)
どう考えても、会津藩が気の毒でしかたないので、
ちょっと調べてみた。
まず最初に、2つの地域を新政府は提示している。
「斗南」を選んだ理由が、もう一つの選択肢であった
「猪苗代」において、敗戦後の人民を押さえられない
ことや、借金の返済の目処が立たないことが事実
だとしたら、そのような2カ所を提示すること自体
が非常に「罪なこと」、と考える方は少ないので
しょうか?。
また、薩長閥など無いに等しいかのように考えて
いる方々も多いようだが、前のブログに書いた
石本新六が陸軍大臣になるまで、薩長出身者
以外では明治44年(1911年)まで見あたらない
ことなどからも、あからさまに薩長が政権を
握っていたことは確かである。
『ある明治人の記録-会津人柴五郎の遺書』に
書かれている、柴五郎の中国における戦い方
を見ていると、以下のようなエピソードがある。
「多数の犠牲者を出した旅順攻撃に際しても、
要塞内に逃げ込んだロシア市民の待避を軍使を
たてて要請したが、食料など十分なるうえ、
防備固く安全なりとの理由で拒否され、
やむなく攻撃を開始している。各戦闘における
軍規の厳正さについて、敵将クロパトキン将軍
の回顧録は、世界まれにみる軍隊として賞揚
している。」
「義和団からの攻撃に応戦しているとき、
遠巻きにして傍観している清国正規軍が、
籠城軍牽制のため射程内に近づいて来る
ことがあり、誤ってこれを射ってしまった
ことがあった。このようなときには、白旗
の軍使を派遣して陳謝するなど、細かい配慮
を忘れず、沈着に行動した。」
戦国時代の名残で「我こそは」とまでは行か
ないにせよ、会津人柴五郎が戦いにおいても
行儀・作法の信念をもっていたことは確かであり、
農民あがりの新撰組や薩長の戦い方とは次元が
違う感じがする。下級の公家であった岩倉具視
の悪知恵か、大久保・西郷かははっきりしない
が、正式な勅命も無しに、錦の御旗など
かかげて勝利してしまうような下品な振る舞い
はこれからの歴史研究家が証明するものと思う。
話が逸れてしまったが、要所要所での薩長軍
の強引な実行力で、徳川軍があのような負け方
をしたことは、まぎれもない事実であり、-徳川
300年をごくわずかな武士の上層部のために、
農民が搾取されたかのような説明が百歩譲って
確かだとしても-その中で暮らしていた人々の
文化や振る舞いが世界有数の美しさだったことは
「武士の娘」や「名ごりの夢」を読んでみれば
理解できると思う。
薩長が作った明治政府は文明開化の華をを
咲かせたが、政権を握ったのが大久保や伊藤博文
などの最下級の武士だったこともあり、美しい精神や
振る舞いを受け継ぐことより、政府や皇室の特権化
を優先した。
(宮内庁の儀礼の多くが明治時代に作られた
と言われている。)
現代でも、ここ数十年のグローバル化といった
アメリカ流の経営手法は、打算的な経営を加速
させてしまい、医師や料理人などに少しだけ
残っていたはずの立場や責任で「分をわきまえて
誠実に働く人々」の文化も消してしまった。
皮肉なことに、このような文化は薩摩(鹿児島)
や長州(山口)の方が、比較的まだ残っている
のだろうと予想する。関東や東北の貧しい地域
には、ほんのカケラほどなら残ってはいるが、
怠惰と打算が支配してしまって、売っている
ものも、サービスも低下が著しい。
ただ最後に、会津藩の問題で少し疑問が残るのは、
斗南藩の周辺にも、八戸藩などの普通に運営
されていた諸藩もある訳で、斗南がそれに
比べてどれだけ厳しい土地であったかは調べる
必要がありそうだ。この地域の諸藩は、江戸期
を通して改易や国替えもほとんど無く、他地域
からの転封・移封は少ないようだ。やはり、
運営の難しい地域だったのかも知れない。
地域の問題もさることながら、石高の減少の方が
きつかったと言えるかも知れない。
蝦夷・陸奥・出羽の諸藩
http://www.asahi-net.or.jp/~ME4K-SKRI/han/mutudewa.html
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斗南藩への配流となった会津藩について、なぜ
不毛の地とされる「斗南(現在のむつ市)」を選択
したのかをネットで調べていたら、以下のような
記述が見つかった。このような見解は会津の方
以外においては、最近一般的になっているよう
にも思える。その一例として、引用させていただいた。
「今もって長州に女々しく怨み節をのたまわっている会津の人よ、もう少しマクロな歴史を知って欲しい。戊辰敗戦後斗南に移ったのはあなた達先祖の判断で猪苗代の選択肢(葛西富夫著:斗南藩史 頁113)があったのですよ。 勝者の薩長があたかも酷寒の不毛の地を押しつけたのでは決してありません!!。 」
(http://www.d4.dion.ne.jp/~ponskp/bakuhan/bakuhan.htm)
どう考えても、会津藩が気の毒でしかたないので、
ちょっと調べてみた。
まず最初に、2つの地域を新政府は提示している。
「斗南」を選んだ理由が、もう一つの選択肢であった
「猪苗代」において、敗戦後の人民を押さえられない
ことや、借金の返済の目処が立たないことが事実
だとしたら、そのような2カ所を提示すること自体
が非常に「罪なこと」、と考える方は少ないので
しょうか?。
また、薩長閥など無いに等しいかのように考えて
いる方々も多いようだが、前のブログに書いた
石本新六が陸軍大臣になるまで、薩長出身者
以外では明治44年(1911年)まで見あたらない
ことなどからも、あからさまに薩長が政権を
握っていたことは確かである。
『ある明治人の記録-会津人柴五郎の遺書』に
書かれている、柴五郎の中国における戦い方
を見ていると、以下のようなエピソードがある。
「多数の犠牲者を出した旅順攻撃に際しても、
要塞内に逃げ込んだロシア市民の待避を軍使を
たてて要請したが、食料など十分なるうえ、
防備固く安全なりとの理由で拒否され、
やむなく攻撃を開始している。各戦闘における
軍規の厳正さについて、敵将クロパトキン将軍
の回顧録は、世界まれにみる軍隊として賞揚
している。」
「義和団からの攻撃に応戦しているとき、
遠巻きにして傍観している清国正規軍が、
籠城軍牽制のため射程内に近づいて来る
ことがあり、誤ってこれを射ってしまった
ことがあった。このようなときには、白旗
の軍使を派遣して陳謝するなど、細かい配慮
を忘れず、沈着に行動した。」
戦国時代の名残で「我こそは」とまでは行か
ないにせよ、会津人柴五郎が戦いにおいても
行儀・作法の信念をもっていたことは確かであり、
農民あがりの新撰組や薩長の戦い方とは次元が
違う感じがする。下級の公家であった岩倉具視
の悪知恵か、大久保・西郷かははっきりしない
が、正式な勅命も無しに、錦の御旗など
かかげて勝利してしまうような下品な振る舞い
はこれからの歴史研究家が証明するものと思う。
話が逸れてしまったが、要所要所での薩長軍
の強引な実行力で、徳川軍があのような負け方
をしたことは、まぎれもない事実であり、-徳川
300年をごくわずかな武士の上層部のために、
農民が搾取されたかのような説明が百歩譲って
確かだとしても-その中で暮らしていた人々の
文化や振る舞いが世界有数の美しさだったことは
「武士の娘」や「名ごりの夢」を読んでみれば
理解できると思う。
薩長が作った明治政府は文明開化の華をを
咲かせたが、政権を握ったのが大久保や伊藤博文
などの最下級の武士だったこともあり、美しい精神や
振る舞いを受け継ぐことより、政府や皇室の特権化
を優先した。
(宮内庁の儀礼の多くが明治時代に作られた
と言われている。)
現代でも、ここ数十年のグローバル化といった
アメリカ流の経営手法は、打算的な経営を加速
させてしまい、医師や料理人などに少しだけ
残っていたはずの立場や責任で「分をわきまえて
誠実に働く人々」の文化も消してしまった。
皮肉なことに、このような文化は薩摩(鹿児島)
や長州(山口)の方が、比較的まだ残っている
のだろうと予想する。関東や東北の貧しい地域
には、ほんのカケラほどなら残ってはいるが、
怠惰と打算が支配してしまって、売っている
ものも、サービスも低下が著しい。
ただ最後に、会津藩の問題で少し疑問が残るのは、
斗南藩の周辺にも、八戸藩などの普通に運営
されていた諸藩もある訳で、斗南がそれに
比べてどれだけ厳しい土地であったかは調べる
必要がありそうだ。この地域の諸藩は、江戸期
を通して改易や国替えもほとんど無く、他地域
からの転封・移封は少ないようだ。やはり、
運営の難しい地域だったのかも知れない。
地域の問題もさることながら、石高の減少の方が
きつかったと言えるかも知れない。
蝦夷・陸奥・出羽の諸藩
http://www.asahi-net.or.jp/~ME4K-SKRI/han/mutudewa.html
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2009-05-23 Sat
「何も選ばない」生き方のすすめ
塚原但馬守昌義(つかはら・まさよし)
写真(最前列の一番左)
http://tozenzi.cside.com/zousenzyo.htm
鳥羽・伏見の戦いで、副将として大阪城に徳川慶喜とともに籠もるが、慶喜の大阪城脱出で主戦派とみなされて取り残された数人のうちの一人。
大坂城にいた慶喜らは、主戦派の幕臣(松平・竹中・塚原)に無断で脱出するも、暗闇の為に乗船しようとした「開陽」を見付けられずにやむなく
アメリカ船に乗船して一泊、翌日「開陽」に移る。
(旧幕府艦隊とともに「開陽」は大坂の天保山沖に停泊していた。開陽の艦長、榎本和泉守武揚は上陸中だった為、副長沢太郎左衛門に命じて8日夜に出港し、慶喜らは11日に品川沖に着いた。)
大阪城に残された塚原但馬守昌義は、おそらく翌日、大阪湾の南端(和歌山の北)の加太浦に逃げ延び(ここまでは榎本和泉守武揚と行動を共にした?)「富士山」への乗船を願い出たが、新撰組などに罵られ紀州(和歌山)へ戻って行ったとある。
「加太浦にて乗船の時、塚原但馬守も同乗を頼みしが、艦中の新選組・会・桑等の負傷者、塚原の名前を聞きて、敗軍の大将なんの面目ありて乗船するやと口々に罵りければ、再び紀州へ戻り行きたり」
この『徳川慶喜公伝』の記述が、塚原但馬守昌義の日本での最後の記録と思われる。この後、アメリカ船に逃げ延び、日本で初めての政治亡命した人物となる。数年後のサンフランシスコ・クロニクル」紙(1869年6月17日)に記事があるとのことなので、亡命したことは間違いないようだ。
「実際には陸軍奉行竹中重固が指揮を取っていた模様」とあるので、微妙な立場であったと思われる。少なくとも新撰組(下級武士にも及ばない農民あがり)に罵倒されるようないわれは無い。また、直属の上司である塚原に対して、他藩であるとは言うものの、会・桑等の負傷者も罵倒したということは、当時の敗軍の風潮として興味深い。
(薩長に目の敵とされ気の毒であるとの認識が体勢を占める会津藩の藩士についても、礼節が無くなっていたというのは、少し残念に思える。)
将軍が逃げてしまったので、明確に負けた訳ではなく、責任を負って、切腹するというのも考えつかなかっただろう。勇猛果敢なイメージの新撰組にしても、満員の船に乗って逃げまくっている。責任のある立場だったので、自分だけ非難される風潮に追い込まれていることは事実。アメリカに渡ったのは賢明な選択だったと言える。
味方からも見放されてしまったのだが、もし官軍に見つかっていたらどうなっていたか?。小栗上野介の場合が参考になるかも知れない。斬首を実行した原保太郎の口演の記録。珍しい資料なので引用する。
「丁度未明に権田の小栗の屋敷(東善寺)へ行って捕縛した訳であります。格別抵抗も何もしませぬ。そこで其日・・・・・(無言)・・・・・ですが、斬ってしまった。ちょっと申しますと、甚だ残酷なような訳でありました(斬首のあとさらし首)。丁度其頃の一体の事情が、断然の処分をせいとか、遅疑(ぐずぐず)せずにやれとか言うは必ずもう斬れと云ふことに決まって居った。その処分をしまして高崎の旅館まで帰ってきました。」
(維新資料編纂会 原 保太郎君口演速記)
「ぐずぐずせずにやれ」とは、官軍の総督有栖川宮もしくは岩倉具視の命令だったのかどうか・・・、いずれにしても「必ずもう斬れと云ふことに決まって居った」と明言されていることが事実として残っている。原保太郎は、丹波園部藩脱藩で、岩倉具視の用心棒をしていたとのこと。後に、山口県令、山口県知事、貴族院勅選議員まで出世している。剣豪とのことで、下級藩士が脱藩した上で、武力を活かした者が出世して政治をする。そういう荒い時代だったということになる。小栗上野介を斬首する際に同行していた豊永貫一郎(土佐藩・元陸援隊士) の、その後の情報は少なく、小栗のアメリカから連れ帰った高価なアラビア馬を略奪して乗り回していた・・・とあるが、そういう狼藉の記録は勝った官軍には少ないが、間違い無くあったということのようだ。それにしても、豊永貫一郎はどうなってしまったのだろう。”豊永 県令”などで検索してもヒットしない。
原保太郎の写真がレアなので下記にリンクしておく。「原保太郎君口演速記」で言葉に詰まったりしているので、後悔していたんだろうけど。完全な悪人には見えませんが・・・、想像していたとおりのお顔立ちです。

原保太郎
さらに話は逸れるが、江戸に逃げ帰った近藤勇は、数十両で錦の着物を買い込み甲陽鎮撫隊を引き連れて大名行列している。幕臣の能力が低かったので幕府が終焉したとの認識が一般化されているが、少なくとも行儀の悪さでは誰も新撰組にはかなわない。武士の真似事はできても、所詮は農民あがりと言われてもしかたないだろう。
(参考 http://www.asahi-net.or.jp/~HC2T-TNK/sinsen/kantou2.html)
塚原但馬守昌義の祖先は武田の家臣団であり、武田家滅亡により徳川家に仕え、秀忠の部下として大阪の陣に参戦。その後、今の八王子にあった留所村を知行地として旗本となった。別系のご子孫は神戸で繁栄されているようだ。
武田信玄家臣団編成表 御目付衆 塚原六右衛門
http://s04.megalodon.jp/2009-0523-2021-51/shingen3.hp.infoseek.co.jp/shingen/kashindan.html
宝印寺
http://s04.megalodon.jp/2009-0523-1943-31/1st.geocities.jp/tekedadesu/hoinzi.html
留所村 とどころむら
内容: 江戸期から明治前期にかけての村の名.1889年(明治22)加住村の大字となる.多摩郡小宮領のうち.富所とも書く.南北朝期にも留所の地名が見える.鎮守は勝手明神山王権現合社.いまの加住町1丁目の地域.江戸時代初期の村高149石7斗8升,幕末153石6斗2升,反別18町3反4畝,田は2町4反3畝,畑15町9反.幕初から旗本塚原家に知行地として与えられた.幕末の塚原寛十郎は高700石西丸書院番を勤めた.
http://www.cs.takushoku-u.ac.jp/is/hachioji/50.php?NAME=%CE%B1%BD%EA%C2%BC
幕末の幕臣。安政3(1856)年外国貿易取調掛就任以後,外交面で頭角を現し,同6年外国奉行支配調役。万延1(1860)年日米修好通商条約批准書交換のため新見正興を正使とする遣米使節に随行,海外知識を広め帰国。文久2(1862)年目付,講武所頭取,大砲組与組を経て元治1(1864)年目付に再任。この間,文久3年池田長発遣欧使節の目付に,また慶応2(1866)年英国駐箚公使に任命されたがいずれも赴かず。慶応2年大目付就任以降,外国奉行,勘定奉行兼任,外国総奉行,若年寄並などを歴任。一方慶応3年兵庫開港に備えて商社を設立し富国強兵化に努めたが,長州処分や鳥羽・伏見の戦では強行論者であったため,明治1(1868)年徳川慶喜により免職・登営禁止を命じられる。<参考文献>『維新史』4,5巻
(岩壁義光)
http://kotobank.jp/word/%E5%A1%9A%E5%8E%9F%E6%98%8C%E7%BE%A9
万延元年、初の遣米使節団に小栗上野介らとともに参加。米国より特に派遣せられた軍艦ポーハタンに乗り込んで出発。勝海舟やジョン万次郎を含む咸臨丸の一行はそれに随行する形。当時の役職は、外国奉行支配両番格調役 塚原重五郎昌(36歳) とある。
(『幕末遣外使節物語』 尾佐竹 猛)
鳥羽・伏見の戦い
老中格・大河内正質(おおこうちまさただ)を総督とし、若年寄並・塚原昌義を副
総督とする旧幕府軍1万5000が大坂から進発した。
http://www7a.biglobe.ne.jp/~soutokufu/boshinwar/tobafusimi/main.html
サンフランシスコで清国相手の貿易商(創作小説?)
http://s04.megalodon.jp/2009-0523-2018-25/www.geocities.co.jp/Bookend-Akiko/5110/newpage3.htm
「アメリカ亡命第一号・旧幕府外国総奉行 塚原但馬守昌義」とあります。前列左端の人物です。
この写真は、1858年に調印した日米修好通商条約の批准書交換のために、江戸幕府が米国に派遣した使節団が、ワシントンの米海軍造船所を訪問した時の記念写真です。
http://s04.megalodon.jp/2009-0523-2024-58/www.jomm.jp/volunteer/2007tushin.html
767 明治元年正月初旬大阪開城前後の情況に関する浅野氏祐の談話
さて御親書は何事ならんと拝見し奉りしに、すなわち御東帰に付き、
参政以上の進退を直命し給えるものにて、御文面は左の如くありしかと覚えたり。
供 酒井雅楽頭 供 板倉伊賀守
残 松平豊前守 供 永井主水正
随意 浅野美作守 供 平山図書頭
残 竹中丹後守 残 塚原但馬守
http://asiabaku9.exblog.jp/7793556/
東都アロエ様のサイト(『徳川慶喜公伝 史料編』3巻 287P~)
さて紀州へ下りてみれば、端なくも富士山艦は同所加太浦へ寄せ来れり、
榎本の招きもあれば、これに同乗して横浜へ入港したり。
直ちに上陸して神奈川奉行に打ち合わせ、多くの船舶を雇い上げ、
紀州に残れる兵隊負傷者など呼迎うべき手筈をなし、やがて江戸へ帰りたり。
加太浦にて乗船の時、塚原但馬守も同乗を頼みしが、
艦中の新徴組(※もちろん新選組のまつがいです)・会・桑等の負傷者、
塚原の名前を聞きて、敗軍の大将なんの面目ありて乗船するやと口々に罵りければ、
再び紀州へ戻り行きたり。
小野内膳正も榎本に用談ありて来りしが、
艦長柴誠一等に奸物奸物と罵倒せられ、是も端舟に乗りて何地へか避けたり。
http://asiabaku9.exblog.jp/7807110/
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塚原但馬守昌義(つかはら・まさよし)
写真(最前列の一番左)
http://tozenzi.cside.com/zousenzyo.htm
鳥羽・伏見の戦いで、副将として大阪城に徳川慶喜とともに籠もるが、慶喜の大阪城脱出で主戦派とみなされて取り残された数人のうちの一人。
大坂城にいた慶喜らは、主戦派の幕臣(松平・竹中・塚原)に無断で脱出するも、暗闇の為に乗船しようとした「開陽」を見付けられずにやむなく
アメリカ船に乗船して一泊、翌日「開陽」に移る。
(旧幕府艦隊とともに「開陽」は大坂の天保山沖に停泊していた。開陽の艦長、榎本和泉守武揚は上陸中だった為、副長沢太郎左衛門に命じて8日夜に出港し、慶喜らは11日に品川沖に着いた。)
大阪城に残された塚原但馬守昌義は、おそらく翌日、大阪湾の南端(和歌山の北)の加太浦に逃げ延び(ここまでは榎本和泉守武揚と行動を共にした?)「富士山」への乗船を願い出たが、新撰組などに罵られ紀州(和歌山)へ戻って行ったとある。
「加太浦にて乗船の時、塚原但馬守も同乗を頼みしが、艦中の新選組・会・桑等の負傷者、塚原の名前を聞きて、敗軍の大将なんの面目ありて乗船するやと口々に罵りければ、再び紀州へ戻り行きたり」
この『徳川慶喜公伝』の記述が、塚原但馬守昌義の日本での最後の記録と思われる。この後、アメリカ船に逃げ延び、日本で初めての政治亡命した人物となる。数年後のサンフランシスコ・クロニクル」紙(1869年6月17日)に記事があるとのことなので、亡命したことは間違いないようだ。
「実際には陸軍奉行竹中重固が指揮を取っていた模様」とあるので、微妙な立場であったと思われる。少なくとも新撰組(下級武士にも及ばない農民あがり)に罵倒されるようないわれは無い。また、直属の上司である塚原に対して、他藩であるとは言うものの、会・桑等の負傷者も罵倒したということは、当時の敗軍の風潮として興味深い。
(薩長に目の敵とされ気の毒であるとの認識が体勢を占める会津藩の藩士についても、礼節が無くなっていたというのは、少し残念に思える。)
将軍が逃げてしまったので、明確に負けた訳ではなく、責任を負って、切腹するというのも考えつかなかっただろう。勇猛果敢なイメージの新撰組にしても、満員の船に乗って逃げまくっている。責任のある立場だったので、自分だけ非難される風潮に追い込まれていることは事実。アメリカに渡ったのは賢明な選択だったと言える。
味方からも見放されてしまったのだが、もし官軍に見つかっていたらどうなっていたか?。小栗上野介の場合が参考になるかも知れない。斬首を実行した原保太郎の口演の記録。珍しい資料なので引用する。
「丁度未明に権田の小栗の屋敷(東善寺)へ行って捕縛した訳であります。格別抵抗も何もしませぬ。そこで其日・・・・・(無言)・・・・・ですが、斬ってしまった。ちょっと申しますと、甚だ残酷なような訳でありました(斬首のあとさらし首)。丁度其頃の一体の事情が、断然の処分をせいとか、遅疑(ぐずぐず)せずにやれとか言うは必ずもう斬れと云ふことに決まって居った。その処分をしまして高崎の旅館まで帰ってきました。」
(維新資料編纂会 原 保太郎君口演速記)
「ぐずぐずせずにやれ」とは、官軍の総督有栖川宮もしくは岩倉具視の命令だったのかどうか・・・、いずれにしても「必ずもう斬れと云ふことに決まって居った」と明言されていることが事実として残っている。原保太郎は、丹波園部藩脱藩で、岩倉具視の用心棒をしていたとのこと。後に、山口県令、山口県知事、貴族院勅選議員まで出世している。剣豪とのことで、下級藩士が脱藩した上で、武力を活かした者が出世して政治をする。そういう荒い時代だったということになる。小栗上野介を斬首する際に同行していた豊永貫一郎(土佐藩・元陸援隊士) の、その後の情報は少なく、小栗のアメリカから連れ帰った高価なアラビア馬を略奪して乗り回していた・・・とあるが、そういう狼藉の記録は勝った官軍には少ないが、間違い無くあったということのようだ。それにしても、豊永貫一郎はどうなってしまったのだろう。”豊永 県令”などで検索してもヒットしない。
原保太郎の写真がレアなので下記にリンクしておく。「原保太郎君口演速記」で言葉に詰まったりしているので、後悔していたんだろうけど。完全な悪人には見えませんが・・・、想像していたとおりのお顔立ちです。

原保太郎
さらに話は逸れるが、江戸に逃げ帰った近藤勇は、数十両で錦の着物を買い込み甲陽鎮撫隊を引き連れて大名行列している。幕臣の能力が低かったので幕府が終焉したとの認識が一般化されているが、少なくとも行儀の悪さでは誰も新撰組にはかなわない。武士の真似事はできても、所詮は農民あがりと言われてもしかたないだろう。
(参考 http://www.asahi-net.or.jp/~HC2T-TNK/sinsen/kantou2.html)
塚原但馬守昌義の祖先は武田の家臣団であり、武田家滅亡により徳川家に仕え、秀忠の部下として大阪の陣に参戦。その後、今の八王子にあった留所村を知行地として旗本となった。別系のご子孫は神戸で繁栄されているようだ。
武田信玄家臣団編成表 御目付衆 塚原六右衛門
http://s04.megalodon.jp/2009-0523-2021-51/shingen3.hp.infoseek.co.jp/shingen/kashindan.html
宝印寺
http://s04.megalodon.jp/2009-0523-1943-31/1st.geocities.jp/tekedadesu/hoinzi.html
留所村 とどころむら
内容: 江戸期から明治前期にかけての村の名.1889年(明治22)加住村の大字となる.多摩郡小宮領のうち.富所とも書く.南北朝期にも留所の地名が見える.鎮守は勝手明神山王権現合社.いまの加住町1丁目の地域.江戸時代初期の村高149石7斗8升,幕末153石6斗2升,反別18町3反4畝,田は2町4反3畝,畑15町9反.幕初から旗本塚原家に知行地として与えられた.幕末の塚原寛十郎は高700石西丸書院番を勤めた.
http://www.cs.takushoku-u.ac.jp/is/hachioji/50.php?NAME=%CE%B1%BD%EA%C2%BC
幕末の幕臣。安政3(1856)年外国貿易取調掛就任以後,外交面で頭角を現し,同6年外国奉行支配調役。万延1(1860)年日米修好通商条約批准書交換のため新見正興を正使とする遣米使節に随行,海外知識を広め帰国。文久2(1862)年目付,講武所頭取,大砲組与組を経て元治1(1864)年目付に再任。この間,文久3年池田長発遣欧使節の目付に,また慶応2(1866)年英国駐箚公使に任命されたがいずれも赴かず。慶応2年大目付就任以降,外国奉行,勘定奉行兼任,外国総奉行,若年寄並などを歴任。一方慶応3年兵庫開港に備えて商社を設立し富国強兵化に努めたが,長州処分や鳥羽・伏見の戦では強行論者であったため,明治1(1868)年徳川慶喜により免職・登営禁止を命じられる。<参考文献>『維新史』4,5巻
(岩壁義光)
http://kotobank.jp/word/%E5%A1%9A%E5%8E%9F%E6%98%8C%E7%BE%A9
万延元年、初の遣米使節団に小栗上野介らとともに参加。米国より特に派遣せられた軍艦ポーハタンに乗り込んで出発。勝海舟やジョン万次郎を含む咸臨丸の一行はそれに随行する形。当時の役職は、外国奉行支配両番格調役 塚原重五郎昌(36歳) とある。
(『幕末遣外使節物語』 尾佐竹 猛)
鳥羽・伏見の戦い
老中格・大河内正質(おおこうちまさただ)を総督とし、若年寄並・塚原昌義を副
総督とする旧幕府軍1万5000が大坂から進発した。
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サンフランシスコで清国相手の貿易商(創作小説?)
http://s04.megalodon.jp/2009-0523-2018-25/www.geocities.co.jp/Bookend-Akiko/5110/newpage3.htm
「アメリカ亡命第一号・旧幕府外国総奉行 塚原但馬守昌義」とあります。前列左端の人物です。
この写真は、1858年に調印した日米修好通商条約の批准書交換のために、江戸幕府が米国に派遣した使節団が、ワシントンの米海軍造船所を訪問した時の記念写真です。
http://s04.megalodon.jp/2009-0523-2024-58/www.jomm.jp/volunteer/2007tushin.html
767 明治元年正月初旬大阪開城前後の情況に関する浅野氏祐の談話
さて御親書は何事ならんと拝見し奉りしに、すなわち御東帰に付き、
参政以上の進退を直命し給えるものにて、御文面は左の如くありしかと覚えたり。
供 酒井雅楽頭 供 板倉伊賀守
残 松平豊前守 供 永井主水正
随意 浅野美作守 供 平山図書頭
残 竹中丹後守 残 塚原但馬守
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東都アロエ様のサイト(『徳川慶喜公伝 史料編』3巻 287P~)
さて紀州へ下りてみれば、端なくも富士山艦は同所加太浦へ寄せ来れり、
榎本の招きもあれば、これに同乗して横浜へ入港したり。
直ちに上陸して神奈川奉行に打ち合わせ、多くの船舶を雇い上げ、
紀州に残れる兵隊負傷者など呼迎うべき手筈をなし、やがて江戸へ帰りたり。
加太浦にて乗船の時、塚原但馬守も同乗を頼みしが、
艦中の新徴組(※もちろん新選組のまつがいです)・会・桑等の負傷者、
塚原の名前を聞きて、敗軍の大将なんの面目ありて乗船するやと口々に罵りければ、
再び紀州へ戻り行きたり。
小野内膳正も榎本に用談ありて来りしが、
艦長柴誠一等に奸物奸物と罵倒せられ、是も端舟に乗りて何地へか避けたり。
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東都アロエ様のサイト(『徳川慶喜公伝 史料編』3巻 287P~)
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2009-05-22 Fri
「何も選ばない」生き方のすすめ
今回、購入した書籍には、タイトルと少し
違って、『ある明治人の記録-会津人柴五郎の遺書』
とある。この中に、柴五郎が陸軍幼年学校で同期
だった石本新六の名前を見つけた。森鴎外と確執が
あったことでこの名前を記憶していたのだが、なぜ、
石本新六が男爵になるまで出世したのかを年表から
抽出して探ってみた。
年齢は鴎外よりは8歳も年上。柴五郎よりは6歳年上
でだが、おそらく柴五郎より陸軍士官学校を早く卒業
しているようだ。陸軍中将になったのは柴五郎よりも
8年も早い。その石本新六が亡くなったあとに、やっと
柴五郎が陸軍中将に昇進している。
その5年前、石本新六が男爵の爵位をとった年に
森鴎外が中将相当に昇進しているので、鴎外の出世
も遅いが、年長の柴五郎の出世はさらに遅かった
と言える。
一方、森鴎外は、男爵となった石本新六と本格的
な確執を迎え、精神的に厳しかっただろうと思う。
確執に勝利した石本新六はその後、陸軍大臣まで
昇進するのだから、悪い相手と喧嘩したなぁ。
石本新六
1854年2月17日生まれ
1877年7月、工兵少尉に任官
1878年12月、陸士(旧1期)を卒業
1898年3月、陸軍少将
1904年10月、陸軍中将に昇進。
1907年9月、男爵の爵位を授爵し華族となった。
1911年8月、第2次西園寺公望内閣において薩長出身者以外では初めての陸軍大臣に就任する。
2個師団増設要求をするが閣議で拒否され、在任中の1912年(明治45年)4月2日に死去
柴 五郎
1860年6月21日生まれ
1877年(明治10年)5月、陸軍士官学校入学
1879年(明治12年)12月、陸軍砲兵少尉に任官
1880年(明治13年)12月士官学校を卒業
1912年(大正元年)9月、重砲兵第1旅団長となり、翌年8月陸軍中将
1919年(大正8年)1月にイギリスより帰国。8月には陸軍大将に進級
森 鴎外
1862年2月17日生まれ
1881年(明治14年)12月16日に陸軍軍医副(中尉相当)になり、東京陸軍病院に勤務
1899年(明治32年)6月に軍医監(少将相当)に昇進
1907年(明治40年)10月、陸軍軍医総監(中将相当)に昇進し、陸軍省医務局長(人事権をもつ軍医のトップ)に就任した
1909年(明治42年)石本陸軍次官から戒飭(かいちょく)された。
1917年(大正7年)12月、帝室博物館(現東京国立博物館)総長兼図書頭(ずしょのかみ)
柴五郎さんは、1930年(昭和5年)4月に退役。
15年も後の1945年(昭和20年)に敗戦を迎え、
身辺の整理を始め9月15日に自決を図る。老齢の
為この時は果たせないのだが、同年12月その怪我
がもとで病死する。
開戦の頃から、日本軍が負けることを予想していた
ようだから、後輩の育成を間違えたと、責任感
を感じていたのかも知れない。
鴎外は、舞姫などの文学活動や、最初の妻の生家
赤松家との離婚などが出世の足を引っ張ったことも
事実だが、薩長閥や年齢が出世を左右している
ことも事実のようだ。
石本新六と同い年の小池正直が鴎外より2年先に
軍医総監になって、爵位をもらっているので、
鴎外は、ぎりぎりアウトという感じ。でも、そんな
出世に遅れた鴎外の作品が素晴らしいし、
子供たちに優しいお父さんだったことが、
後生の読者とっては魅力的だと思う。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
☆☆☆ ☆☆☆
☆☆☆ ユニフォーム姿三四郎が紹介されています ☆☆☆
☆☆☆ ☆☆☆
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
今回、購入した書籍には、タイトルと少し
違って、『ある明治人の記録-会津人柴五郎の遺書』
とある。この中に、柴五郎が陸軍幼年学校で同期
だった石本新六の名前を見つけた。森鴎外と確執が
あったことでこの名前を記憶していたのだが、なぜ、
石本新六が男爵になるまで出世したのかを年表から
抽出して探ってみた。
年齢は鴎外よりは8歳も年上。柴五郎よりは6歳年上
でだが、おそらく柴五郎より陸軍士官学校を早く卒業
しているようだ。陸軍中将になったのは柴五郎よりも
8年も早い。その石本新六が亡くなったあとに、やっと
柴五郎が陸軍中将に昇進している。
その5年前、石本新六が男爵の爵位をとった年に
森鴎外が中将相当に昇進しているので、鴎外の出世
も遅いが、年長の柴五郎の出世はさらに遅かった
と言える。
一方、森鴎外は、男爵となった石本新六と本格的
な確執を迎え、精神的に厳しかっただろうと思う。
確執に勝利した石本新六はその後、陸軍大臣まで
昇進するのだから、悪い相手と喧嘩したなぁ。
石本新六
1854年2月17日生まれ
1877年7月、工兵少尉に任官
1878年12月、陸士(旧1期)を卒業
1898年3月、陸軍少将
1904年10月、陸軍中将に昇進。
1907年9月、男爵の爵位を授爵し華族となった。
1911年8月、第2次西園寺公望内閣において薩長出身者以外では初めての陸軍大臣に就任する。
2個師団増設要求をするが閣議で拒否され、在任中の1912年(明治45年)4月2日に死去
柴 五郎
1860年6月21日生まれ
1877年(明治10年)5月、陸軍士官学校入学
1879年(明治12年)12月、陸軍砲兵少尉に任官
1880年(明治13年)12月士官学校を卒業
1912年(大正元年)9月、重砲兵第1旅団長となり、翌年8月陸軍中将
1919年(大正8年)1月にイギリスより帰国。8月には陸軍大将に進級
森 鴎外
1862年2月17日生まれ
1881年(明治14年)12月16日に陸軍軍医副(中尉相当)になり、東京陸軍病院に勤務
1899年(明治32年)6月に軍医監(少将相当)に昇進
1907年(明治40年)10月、陸軍軍医総監(中将相当)に昇進し、陸軍省医務局長(人事権をもつ軍医のトップ)に就任した
1909年(明治42年)石本陸軍次官から戒飭(かいちょく)された。
1917年(大正7年)12月、帝室博物館(現東京国立博物館)総長兼図書頭(ずしょのかみ)
柴五郎さんは、1930年(昭和5年)4月に退役。
15年も後の1945年(昭和20年)に敗戦を迎え、
身辺の整理を始め9月15日に自決を図る。老齢の
為この時は果たせないのだが、同年12月その怪我
がもとで病死する。
開戦の頃から、日本軍が負けることを予想していた
ようだから、後輩の育成を間違えたと、責任感
を感じていたのかも知れない。
鴎外は、舞姫などの文学活動や、最初の妻の生家
赤松家との離婚などが出世の足を引っ張ったことも
事実だが、薩長閥や年齢が出世を左右している
ことも事実のようだ。
石本新六と同い年の小池正直が鴎外より2年先に
軍医総監になって、爵位をもらっているので、
鴎外は、ぎりぎりアウトという感じ。でも、そんな
出世に遅れた鴎外の作品が素晴らしいし、
子供たちに優しいお父さんだったことが、
後生の読者とっては魅力的だと思う。
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2009-05-04 Mon
「何も選ばない」生き方のすすめ
166万人くらいだとしたら、人口全体の5%。
これは家族を含めた数字なので、刀を差している
ような本当の武士を数えたら、100人に一人か2人
くらい、つまり『1%強』と考えても良いのでは無いか?。
江戸には武士が集中していただろうが、他の地域では、
あまり見かけなかったのかも知れない。
今の警察官の割合が0.2%だから、もっとずっと
多い。超高級外車に乗っている人の割合くらい?
かも知れない。
ここまでは、総括・・・・
さて、本当は江戸時代の末期にどの程度の武士
がいたのかを知りたいのだが、武士というものの
定義が各藩で違うことや、半農の者も多かったようで、
正確に把握しづらい。
明治6年(1873年)の人口構成なら『明治史要』に
残っている。全人口は3330万0672人でこれが分母と
なる。。
皇族28人
華族2829人
士族154万8568人
卒34万3881人 ここまでで全体の5.69%。
平民3110万6514人で93.41%。
僧侶21万6995人、旧神職7万6119人、その他5738人で0.90%。
人数での統計なので、家族(幼児なども含めて)の
数字であるから、士族154万8568人といっても、実際
に刀を付けていた人数は、この3分の一とか4分の一
かも知れない。
卒も武士に含めるだろうが、平民にあたる商人などよりも
貧しい生活をしていたことが多かっただろう。明治
維新後は、世襲できない者は平民に落ちたようだし、
士族と比べて(ピラミッド型の下層として)増えて
いないので、ほとんど武士にはあたらないのかも知れない。
(このあたりの層に武士の心意気があったのかどうか、
非常に興味深い。貧しくとも、心意気があったので、
お金や遊興に興味を示さずいれたように思う。)
以下は引用・・・・・・・
2.享保の改革における「五公五民」の怪
享保の改革とは、江戸幕府八代将軍吉宗が行った幕政改革である。後に行われた、寛政の改革、天保の改革と並ぶ江戸時代の三大改革の一つである。この改革では、年貢を五公五民に引き上げ、豊凶に関わらず一定の額を徴収することとし、新田開発を行って米の増産を図った。
さて、この「五公五民」というのが不思議な数字なのである。「五公五民」とは、米の生産者である百姓の取り分が5割、支配者である武士の取り分が5割という事である。武士は自分たちが食べる分以外の米を市場で売って生活していたという。すると武士が売った米は武士でも百姓でもない者が買ったことになる。さて、江戸時代日本の人口の8割強が農民である。ちなみに武士は7%程であった。「五公五民」が本当なら、米の全収穫の半分を2割に満たない者が食い、残りの半分を8割強の人間が食ったことになる。
以上のことから以下の仮説が考えられる。
(1)江戸時代の殆どの日本人の主食は米である。年貢が「五公五民」であったというのは嘘で、実際は「一公四民」くらいであった。すなわち百姓達はお上に対して収穫高を偽っていたのである。
(2)江戸時代の大多数の日本人の主食は米ではない。米を主食にしていたのは一部の特権階級だけであった。米の全収穫量の5割をこれら特権階級が主食として食っていた。それ以外の5割を百姓が副食として食っていた。その場合、百姓が主食としていた食糧を1とした場合、米の比率は0.25くらいになる。
(http://drhnakai.hp.infoseek.co.jp/sub1-58.htm)
※仮説のうち、どちらかが実態であったに違いなく、2であった可能性が高い?
┃文章
明治政府は、江戸時代の身分制度を廃止し、1869年に旧藩主と上層の公家を華族{かぞく}、藩士と旧幕臣を士族{しぞく}と卒{そつ}<注>、農民・町人を平民{へいみん}とした。1871年8月、賤民{せんみん}廃止令(身分解放令)を出して、これまでのえた・非人の称をやめ、身分・職業ともに平民と同じとした。しかし、法律の名称通り、呼称を廃止しただけで、政府は何の
保障もしなかったため、対応は不十分だった。
<注>身分や地位の低い武士の呼称。1872年1月、世襲の者は
士族、一代限りの者は平民となった。
えた・非人にも、兵役・納税・教育などの義務が加わり、皮革加工業などの伝統的な産業も資本主義の波をかぶり、生活も苦しくなった。また、職業選択の自由により、皮革加工業に参入する人も増えた。江戸時代、えた・非人が持つ土地は免税田だったが、明治時代になると、その土地にも税金がかかるようになった。えた・非人は賤民廃止反対一揆を起こした。しかし、一般民衆の受け取り方は冷たく、一揆の農民が賤民身分廃止反対を唱えて、被差別部落を襲撃する事件も起こった。
身分制度の廃止とともに、武士の特権や江戸時代は禁止されていたことが次々と認められた。1870年9月に平民に苗字を付けること、1871年8月に華族・士族・平民間の結婚、12月に官吏以外の職業選択の自由を認めた。そして、1871年に制定された戸籍法に基づいて、翌年に統一的な戸籍が作られた。壬申{じんしん}戸籍である。
┃コラム…1873年の人口構成(『明治史要』より)
皇族28人、華族2829人、士族154万8568人、卒34万3881人で全体の5.69%を占める。平民3110万6514人で93.41%を占める。僧侶21万6995人、旧神職7万6119人、その他5738人で0.90%を占める。全人口は3330万0672人である。
(https://www.melonpan.net/letter/backnumber_all.php?back_rid=523300)
自分の先祖がどれだけいたかを考えてみます。
1世代前の父母は2人、2世代前の祖父母は4人、3世代前の曽祖父母は8人、4世代前の高祖父母は16人・・・。
世代間の平均周期はおよそ27年といわれていますから30世代前の810年前には、なんと10億7374万1824人にもなります。810年前というとちょうど鎌倉時代の初めの頃にあたります。この時代に理論上、自分の先祖が10億人いたことになるのです。
さきほどみた人口推計では鎌倉時代は、多くとも800万人程度でした。
この矛盾の種明かしは単純で理論上の10億人の先祖は全員が別人と仮定した話ですので、先祖の中で5世代さかのぼると血の繋がる者同士が結婚するという類の話はいくらでもあり、そうするとそれなりの数字に落ち着くのです。
自分の家系は延々と古代にまでさかのぼるということ、昔の人口、これらのことを考え合わせると何の血の繋がりもないと思っている人の家系が本当に自分の家系と交わったことがないという確率は限りなく低いということです。
(http://blog.livedoor.jp/seisyo1/archives/434089.html)
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166万人くらいだとしたら、人口全体の5%。
これは家族を含めた数字なので、刀を差している
ような本当の武士を数えたら、100人に一人か2人
くらい、つまり『1%強』と考えても良いのでは無いか?。
江戸には武士が集中していただろうが、他の地域では、
あまり見かけなかったのかも知れない。
今の警察官の割合が0.2%だから、もっとずっと
多い。超高級外車に乗っている人の割合くらい?
かも知れない。
ここまでは、総括・・・・
さて、本当は江戸時代の末期にどの程度の武士
がいたのかを知りたいのだが、武士というものの
定義が各藩で違うことや、半農の者も多かったようで、
正確に把握しづらい。
明治6年(1873年)の人口構成なら『明治史要』に
残っている。全人口は3330万0672人でこれが分母と
なる。。
皇族28人
華族2829人
士族154万8568人
卒34万3881人 ここまでで全体の5.69%。
平民3110万6514人で93.41%。
僧侶21万6995人、旧神職7万6119人、その他5738人で0.90%。
人数での統計なので、家族(幼児なども含めて)の
数字であるから、士族154万8568人といっても、実際
に刀を付けていた人数は、この3分の一とか4分の一
かも知れない。
卒も武士に含めるだろうが、平民にあたる商人などよりも
貧しい生活をしていたことが多かっただろう。明治
維新後は、世襲できない者は平民に落ちたようだし、
士族と比べて(ピラミッド型の下層として)増えて
いないので、ほとんど武士にはあたらないのかも知れない。
(このあたりの層に武士の心意気があったのかどうか、
非常に興味深い。貧しくとも、心意気があったので、
お金や遊興に興味を示さずいれたように思う。)
以下は引用・・・・・・・
2.享保の改革における「五公五民」の怪
享保の改革とは、江戸幕府八代将軍吉宗が行った幕政改革である。後に行われた、寛政の改革、天保の改革と並ぶ江戸時代の三大改革の一つである。この改革では、年貢を五公五民に引き上げ、豊凶に関わらず一定の額を徴収することとし、新田開発を行って米の増産を図った。
さて、この「五公五民」というのが不思議な数字なのである。「五公五民」とは、米の生産者である百姓の取り分が5割、支配者である武士の取り分が5割という事である。武士は自分たちが食べる分以外の米を市場で売って生活していたという。すると武士が売った米は武士でも百姓でもない者が買ったことになる。さて、江戸時代日本の人口の8割強が農民である。ちなみに武士は7%程であった。「五公五民」が本当なら、米の全収穫の半分を2割に満たない者が食い、残りの半分を8割強の人間が食ったことになる。
以上のことから以下の仮説が考えられる。
(1)江戸時代の殆どの日本人の主食は米である。年貢が「五公五民」であったというのは嘘で、実際は「一公四民」くらいであった。すなわち百姓達はお上に対して収穫高を偽っていたのである。
(2)江戸時代の大多数の日本人の主食は米ではない。米を主食にしていたのは一部の特権階級だけであった。米の全収穫量の5割をこれら特権階級が主食として食っていた。それ以外の5割を百姓が副食として食っていた。その場合、百姓が主食としていた食糧を1とした場合、米の比率は0.25くらいになる。
(http://drhnakai.hp.infoseek.co.jp/sub1-58.htm)
※仮説のうち、どちらかが実態であったに違いなく、2であった可能性が高い?
┃文章
明治政府は、江戸時代の身分制度を廃止し、1869年に旧藩主と上層の公家を華族{かぞく}、藩士と旧幕臣を士族{しぞく}と卒{そつ}<注>、農民・町人を平民{へいみん}とした。1871年8月、賤民{せんみん}廃止令(身分解放令)を出して、これまでのえた・非人の称をやめ、身分・職業ともに平民と同じとした。しかし、法律の名称通り、呼称を廃止しただけで、政府は何の
保障もしなかったため、対応は不十分だった。
<注>身分や地位の低い武士の呼称。1872年1月、世襲の者は
士族、一代限りの者は平民となった。
えた・非人にも、兵役・納税・教育などの義務が加わり、皮革加工業などの伝統的な産業も資本主義の波をかぶり、生活も苦しくなった。また、職業選択の自由により、皮革加工業に参入する人も増えた。江戸時代、えた・非人が持つ土地は免税田だったが、明治時代になると、その土地にも税金がかかるようになった。えた・非人は賤民廃止反対一揆を起こした。しかし、一般民衆の受け取り方は冷たく、一揆の農民が賤民身分廃止反対を唱えて、被差別部落を襲撃する事件も起こった。
身分制度の廃止とともに、武士の特権や江戸時代は禁止されていたことが次々と認められた。1870年9月に平民に苗字を付けること、1871年8月に華族・士族・平民間の結婚、12月に官吏以外の職業選択の自由を認めた。そして、1871年に制定された戸籍法に基づいて、翌年に統一的な戸籍が作られた。壬申{じんしん}戸籍である。
┃コラム…1873年の人口構成(『明治史要』より)
皇族28人、華族2829人、士族154万8568人、卒34万3881人で全体の5.69%を占める。平民3110万6514人で93.41%を占める。僧侶21万6995人、旧神職7万6119人、その他5738人で0.90%を占める。全人口は3330万0672人である。
(https://www.melonpan.net/letter/backnumber_all.php?back_rid=523300)
自分の先祖がどれだけいたかを考えてみます。
1世代前の父母は2人、2世代前の祖父母は4人、3世代前の曽祖父母は8人、4世代前の高祖父母は16人・・・。
世代間の平均周期はおよそ27年といわれていますから30世代前の810年前には、なんと10億7374万1824人にもなります。810年前というとちょうど鎌倉時代の初めの頃にあたります。この時代に理論上、自分の先祖が10億人いたことになるのです。
さきほどみた人口推計では鎌倉時代は、多くとも800万人程度でした。
この矛盾の種明かしは単純で理論上の10億人の先祖は全員が別人と仮定した話ですので、先祖の中で5世代さかのぼると血の繋がる者同士が結婚するという類の話はいくらでもあり、そうするとそれなりの数字に落ち着くのです。
自分の家系は延々と古代にまでさかのぼるということ、昔の人口、これらのことを考え合わせると何の血の繋がりもないと思っている人の家系が本当に自分の家系と交わったことがないという確率は限りなく低いということです。
(http://blog.livedoor.jp/seisyo1/archives/434089.html)
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