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  • 保証人・口頭での約束ごと・取締役

歴史のなかの邂逅②-司馬遼太郎 シドチ
    「何も選ばない」生き方のすすめ

ユニフォーム三四郎の最近読んだ書籍。

江戸時代にイタリアから宣教師として日本に来た「シドチ」。
(シドッチ、シロウテ、シローテとも呼ぶ)

司馬遼太郎のこの書籍には「白石と松陰の場合-学問のすすめ」
という1969年に書かれた寄稿の新井白石の学問への
取り組み方について、エピソードとしてシドチとのかかわり
が記述されている。

しかし、なぜかとても気になった。この宣教師はやはり
獄門にかけられてしまったのだろうか?
。この書籍には
記述が無かったので、インターネットで調べてみた。

獄門では無かったが・・・やはり釈然としない結末。
恐らく凍死だろうか。死罪よりもひどい扱いになって
しまっている。ユニフォーム姿三四郎の家系は代々
神主なので宗派としては神道ということになっている。
本家には今も神社がある。それでもキリスト教は
どちらかと言えば(仏教に比べて)好きな方だ。
しかし、布教活動というのはいつの時代にも
余計なお世話と感じられてしまうのかも知れない。

それにしても、身近で世話をするうちに信心した長助から
見て、弾圧している下級武士よりもシドチの方が優しい人物に
映ったことは間違いないだろう。

以下は引用です・・・・・。




宣教師ヨハン・シロウテは、座って身を容れるだけの数尺の牢に閉じ込められます。
キリシタン弾圧の際に使用された一辺数尺の牢(3尺牢)は、津和野のキリシタン殉難の地「乙女峠」にそのひな型が展示されています。ヨハン・シロウテは、立つことも、横になることも、姿勢を変えることもできない数尺の牢の中で、わずかな粥以外何も与えられませんでした。
シロウテは、泣きながら、日本人は残酷である・・・と訴えたといいます。
http://eigaku.cocolog-nifty.com/jyosetu/2005/09/post_ae3d.html
(部落学序説 『西洋紀聞』・長助とはるの物語)

そして、上記と同じ吉田向学さんのブログには以下の
興味深い記述がある。


長助とはるが「非人」であるというのは、幕府から、そのように命じられて、長年に渡ってその仕事に従事してきたからです。獄舎の掃除や囚人の食事の世話は、長州藩の支藩である徳山藩の記録によると、「穢多」身分の「小番」という役がこれにあたります。長助とはるは、その職務上は、「被支配」ではなく「支配」の側に身を置いていたのです。
幕府が、狂気の中、キリシタン糾弾や弾圧をしている真っ最中なら、長助とはるは、キリシタン関係者として、キリシタンと同じ罪で斬首に処せられたと思われます。しかし、その時は過ぎ去り、江戸の民衆からキリシタン糾弾や弾圧の悲惨さを遠ざけることを幕府の方針としたあとであったため、長介とはるは命拾いをするのです。それぞれの両親は処刑され、そのあと、キリシタン・バテレンに引き取られていたのです。長介とはるは幼くして殺すにしのびないと思った幕府は、キリシタン屋敷に囚人として送られてくる「宗教犯罪者」の身の回りの世話をする役を与え、長助とはるを生かすのです。そして、長助とはるが年頃になったとき、二人を夫婦にします。
http://eigaku.cocolog-nifty.com/jyosetu/2005/09/post_ae3d.html
(部落学序説 『西洋紀聞』・長助とはるの物語)


このほか、シドッチの概要を知るには、以下のサイト
も興味深い。現代のキリスト協会のサイトでは、
シドッチの信仰心を讃えている。もうひとつは、
成人してから「長助とはる」のエピソードを
深く知り、キリスト教徒から離れた方のサイト
です。

http://www.nobitown.com/dom020603.html
(西洋思想と東洋思想 ~最後の宣教師「新井白石とシドッチ」~)
http://web.archive.org/web/20080127195920/http://www.page.sannet.ne.jp/tcchp/mikotoba/hakuseki.htm
http://tatebayashi-kk.org/mikotoba/mikotobatonokaiwa.pdf
(新井白石と宣教師しろうて( 西洋紀聞 から))

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| ユニフォーム姿三四郎 | 08:35 | comments (x) | trackback (x) | ユニフォーム姿三四郎の幸せ::読書 |
祖父は、昔、犬肉を食べたことがあるらしい
    「何も選ばない」生き方のすすめ

『おんな二代の記』山川菊栄 著 を読み始めた。

明治維新の頃の話が豊富なので、面白いのだが、
自尊心が高い方のようで、実名入りで、自分が
通った学校の先生を悪く言っていたりして、
『名ごりの夢―蘭医桂川家に生れて』今泉 みね 著
に比べたら、かなり読みづらい。

面白い話は多く、江戸の薩摩藩邸に西郷隆盛の
部下が集まっていたいた頃は、町中の犬と猫が
いなくなった・・・らしい。おそらく、食用に
していたのだが、西南戦争に入っていく過程で、
西郷さんの部下が藩邸からいなくなると、町に
犬と猫が見られるようになったという。

そういえば、戦時中に技師として海外に渡って
いた祖父が、赤犬を食べたらしく、「赤犬なら
美味しい」と言っていたらしいのを祖母から聞いた
ことがある。この話を聞いた頃、既に祖父は
亡くなっており、その家に日本刀や十手があった
のだが、「誰かを斬っていたら怖い」と祖母が
古道具屋を読んで、売ってしまった。
「まぁまぁ、の刀だったらしい」とお金に
変わって喜んでいたことを覚えている。


話が飛んでしまったが、今でも上野御徒町の
「中国東北料理 小虎(ことら)」では、裏メニュー
として、狗肉料理が提供されているらしい。
これは、犬(イヌ)の肉、おそらくチャウチャウ
らしいのだが、可愛らしい犬なので、気の毒な
感じがする。


東北の貧しい地域では、飢饉の時に人間の
赤ちゃんを食べていたらしいので、そういう
人を先祖に持つ方も、間違い無く存在するので
ある。。何かの本で読んだのだが、食べたことを
「絶対に他人に言うな」と口止めされたらしいので、
生涯、後ろめたい気持ちでいたらしい。
(これは、世界的に珍しく無く、おフランス
 でも、大英帝国でも貧しい時代には、しかた
 なかったようだ。)

http://www.netpro.ne.jp/~takumi-m/book/106-kikin.htm


民芸品の「こけし」は「子消し」であって、
あの先の丸さと、長さを考えると、疑う余地は
無いだろう。

ご先祖様は、大変な時代を生き延びて、我々に
命を繋いでくれている。いろいろと、悩みも
多いが、今の時代は間違い無く「幸せ」であることを
歴史を辿ると実感できるものである。

以下は引用。




日本の犬肉料理「えのころ飯」

1 :世界@名無史さん[sage]:2008/01/02(水) 12:35:14 0
>えのころ飯(えのころめし)とは薩摩地方で食べられていたと言う料理。
>内臓を抜いた仔イヌの腹に米を詰めて焼いたあと、米飯を取り出し食べる、
>というもので、薩摩藩主も食べていた

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%88%E3%81%AE%E3%81%93%E3%82%8D%E9%A3%AF

193 :梵阿弥[sage]:2008/02/02(土) 18:07:30 0
「えのころ」は「犬ころ」ですよね

247 :世界@名無史さん[]:2008/04/08(火) 19:08:38 0
現代の東京でも上野などには普通に犬肉が出てくるみたいだぞ

http://maromaro.com/archive/2007/10/02/kuniku.php

40 :仙台藩百姓:2007/10/13(土) 19:52:52 ID:POMyhXmr
素晴らしい薩摩文化シリーズ
【ひえもん】
薩摩の代表的胃腸薬。
戦死した者や刑死した者の胆嚢を取り出して陰干したもの。
材料が人間であるだけで他地域の「熊の胆」と同様なものである。
病人の治療や健康保全の為に服用された。
薩摩では人の胆が好まれ、近代に入っても戊辰戦争や西南戦争で胆取りが行われた話しが残る。

41 :仙台藩百姓:2007/10/13(土) 20:21:36 ID:POMyhXmr
素晴らしい薩摩文化シリーズ
【ひえもんとり】
薩摩の代表的娯楽競技。
死刑囚の死体から胆嚢を数人で争って取り出す競技。
参加者は互いを殺傷しないよう刃物の所持を禁じられている。
先を争っては死体に群がり胆嚢などを取り出すのだが
参加者は刃物を所持していないため歯を使う。
死体にかぶりつき死肉を食い破り傷口から手を突っ込み胆を取り出す。
そして胆を取り出した者が栄誉とされる。




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会津藩が「猪苗代」ではなく「斗南」を選んだ理由
    「何も選ばない」生き方のすすめ

斗南藩への配流となった会津藩について、なぜ
不毛の地とされる「斗南(現在のむつ市)」を選択
したのかをネットで調べていたら、以下のような
記述が見つかった。このような見解は会津の方
以外においては、最近一般的になっているよう
にも思える。その一例として、引用させていただいた。

「今もって長州に女々しく怨み節をのたまわっている会津の人よ、もう少しマクロな歴史を知って欲しい。戊辰敗戦後斗南に移ったのはあなた達先祖の判断で猪苗代の選択肢(葛西富夫著:斗南藩史 頁113)があったのですよ。 勝者の薩長があたかも酷寒の不毛の地を押しつけたのでは決してありません!!。 」
(http://www.d4.dion.ne.jp/~ponskp/bakuhan/bakuhan.htm)

どう考えても、会津藩が気の毒でしかたないので、
ちょっと調べてみた。

まず最初に、2つの地域を新政府は提示している。
「斗南」を選んだ理由が、もう一つの選択肢であった
「猪苗代」において、敗戦後の人民を押さえられない
ことや、借金の返済の目処が立たないことが事実
だとしたら、そのような2カ所を提示すること自体
が非常に「罪なこと」、と考える方は少ないので
しょうか?。

また、薩長閥など無いに等しいかのように考えて
いる方々も多いようだが、前のブログに書いた
石本新六が陸軍大臣になるまで、薩長出身者
以外では明治44年(1911年)まで見あたらない
ことなどからも、あからさまに薩長が政権を
握っていたことは確かである。


『ある明治人の記録-会津人柴五郎の遺書』に
書かれている、柴五郎の中国における戦い方
を見ていると、以下のようなエピソードがある。

「多数の犠牲者を出した旅順攻撃に際しても、
要塞内に逃げ込んだロシア市民の待避を軍使を
たてて要請したが、食料など十分なるうえ、
防備固く安全なりとの理由で拒否され、
やむなく攻撃を開始している。各戦闘における
軍規の厳正さについて、敵将クロパトキン将軍
の回顧録は、世界まれにみる軍隊として賞揚
している。」

「義和団からの攻撃に応戦しているとき、
遠巻きにして傍観している清国正規軍が、
籠城軍牽制のため射程内に近づいて来る
ことがあり、誤ってこれを射ってしまった
ことがあった。このようなときには、白旗
の軍使を派遣して陳謝するなど、細かい配慮
を忘れず、沈着に行動した。」



戦国時代の名残で「我こそは」とまでは行か
ないにせよ、会津人柴五郎が戦いにおいても
行儀・作法の信念をもっていたことは確かであり、
農民あがりの新撰組や薩長の戦い方とは次元が
違う感じがする。下級の公家であった岩倉具視
の悪知恵か、大久保・西郷かははっきりしない
が、正式な勅命も無しに、錦の御旗など
かかげて勝利してしまうような下品な振る舞い
はこれからの歴史研究家が証明するものと思う。

話が逸れてしまったが、要所要所での薩長軍
の強引な実行力で、徳川軍があのような負け方
をしたことは、まぎれもない事実であり、-徳川
300年をごくわずかな武士の上層部のために、
農民が搾取されたかのような説明が百歩譲って
確かだとしても-その中で暮らしていた人々の
文化や振る舞いが世界有数の美しさだったことは
「武士の娘」や「名ごりの夢」を読んでみれば
理解できると思う。

薩長が作った明治政府は文明開化の華をを
咲かせたが、政権を握ったのが大久保や伊藤博文
などの最下級の武士だったこともあり、美しい精神や
振る舞いを受け継ぐことより、政府や皇室の特権化
を優先した。
(宮内庁の儀礼の多くが明治時代に作られた
 と言われている。)

現代でも、ここ数十年のグローバル化といった
アメリカ流の経営手法は、打算的な経営を加速
させてしまい、医師や料理人などに少しだけ
残っていたはずの立場や責任で「分をわきまえて
誠実に働く人々」の文化も消してしまった。

皮肉なことに、このような文化は薩摩(鹿児島)
や長州(山口)の方が、比較的まだ残っている
のだろうと予想する。関東や東北の貧しい地域
には、ほんのカケラほどなら残ってはいるが、
怠惰と打算が支配してしまって、売っている
ものも、サービスも低下が著しい。

ただ最後に、会津藩の問題で少し疑問が残るのは、
斗南藩の周辺にも、八戸藩などの普通に運営
されていた諸藩もある訳で、斗南がそれに
比べてどれだけ厳しい土地であったかは調べる
必要がありそうだ。この地域の諸藩は、江戸期
を通して改易や国替えもほとんど無く、他地域
からの転封・移封は少ないようだ。やはり、
運営の難しい地域だったのかも知れない。

地域の問題もさることながら、石高の減少の方が
きつかったと言えるかも知れない。

蝦夷・陸奥・出羽の諸藩
http://www.asahi-net.or.jp/~ME4K-SKRI/han/mutudewa.html

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日本で最初に亡命した人物【塚原但馬守昌義】
    「何も選ばない」生き方のすすめ

塚原但馬守昌義(つかはら・まさよし)

写真(最前列の一番左)
http://tozenzi.cside.com/zousenzyo.htm

鳥羽・伏見の戦いで、副将として大阪城に徳川慶喜とともに籠もるが、慶喜の大阪城脱出で主戦派とみなされて取り残された数人のうちの一人。

大坂城にいた慶喜らは、主戦派の幕臣(松平・竹中・塚原)に無断で脱出するも、暗闇の為に乗船しようとした「開陽」を見付けられずにやむなく
アメリカ船に乗船して一泊、翌日「開陽」に移る。
(旧幕府艦隊とともに「開陽」は大坂の天保山沖に停泊していた。開陽の艦長、榎本和泉守武揚は上陸中だった為、副長沢太郎左衛門に命じて8日夜に出港し、慶喜らは11日に品川沖に着いた。)

大阪城に残された塚原但馬守昌義は、おそらく翌日、大阪湾の南端(和歌山の北)の加太浦に逃げ延び(ここまでは榎本和泉守武揚と行動を共にした?)「富士山」への乗船を願い出たが、新撰組などに罵られ紀州(和歌山)へ戻って行ったとある。


「加太浦にて乗船の時、塚原但馬守も同乗を頼みしが、艦中の新選組・会・桑等の負傷者、塚原の名前を聞きて、敗軍の大将なんの面目ありて乗船するやと口々に罵りければ、再び紀州へ戻り行きたり」


この『徳川慶喜公伝』の記述が、塚原但馬守昌義の日本での最後の記録と思われる。この後、アメリカ船に逃げ延び、日本で初めての政治亡命した人物となる。数年後のサンフランシスコ・クロニクル」紙(1869年6月17日)に記事があるとのことなので、亡命したことは間違いないようだ。

「実際には陸軍奉行竹中重固が指揮を取っていた模様」とあるので、微妙な立場であったと思われる。少なくとも新撰組(下級武士にも及ばない農民あがり)に罵倒されるようないわれは無い。また、直属の上司である塚原に対して、他藩であるとは言うものの、会・桑等の負傷者も罵倒したということは、当時の敗軍の風潮として興味深い。
(薩長に目の敵とされ気の毒であるとの認識が体勢を占める会津藩の藩士についても、礼節が無くなっていたというのは、少し残念に思える。)

将軍が逃げてしまったので、明確に負けた訳ではなく、責任を負って、切腹するというのも考えつかなかっただろう。勇猛果敢なイメージの新撰組にしても、満員の船に乗って逃げまくっている。責任のある立場だったので、自分だけ非難される風潮に追い込まれていることは事実。アメリカに渡ったのは賢明な選択だったと言える。

味方からも見放されてしまったのだが、もし官軍に見つかっていたらどうなっていたか?。小栗上野介の場合が参考になるかも知れない。斬首を実行した原保太郎の口演の記録。珍しい資料なので引用する。

「丁度未明に権田の小栗の屋敷(東善寺)へ行って捕縛した訳であります。格別抵抗も何もしませぬ。そこで其日・・・・・(無言)・・・・・ですが、斬ってしまった。ちょっと申しますと、甚だ残酷なような訳でありました(斬首のあとさらし首)。丁度其頃の一体の事情が、断然の処分をせいとか、遅疑(ぐずぐず)せずにやれとか言うは必ずもう斬れと云ふことに決まって居った。その処分をしまして高崎の旅館まで帰ってきました。」
(維新資料編纂会 原 保太郎君口演速記)


「ぐずぐずせずにやれ」とは、官軍の総督有栖川宮もしくは岩倉具視の命令だったのかどうか・・・、いずれにしても「必ずもう斬れと云ふことに決まって居った」と明言されていることが事実として残っている。原保太郎は、丹波園部藩脱藩で、岩倉具視の用心棒をしていたとのこと。後に、山口県令、山口県知事、貴族院勅選議員まで出世している。剣豪とのことで、下級藩士が脱藩した上で、武力を活かした者が出世して政治をする。そういう荒い時代だったということになる。小栗上野介を斬首する際に同行していた豊永貫一郎(土佐藩・元陸援隊士) の、その後の情報は少なく、小栗のアメリカから連れ帰った高価なアラビア馬を略奪して乗り回していた・・・とあるが、そういう狼藉の記録は勝った官軍には少ないが、間違い無くあったということのようだ。それにしても、豊永貫一郎はどうなってしまったのだろう。”豊永 県令”などで検索してもヒットしない。

原保太郎の写真がレアなので下記にリンクしておく。「原保太郎君口演速記」で言葉に詰まったりしているので、後悔していたんだろうけど。完全な悪人には見えませんが・・・、想像していたとおりのお顔立ちです。


原保太郎


さらに話は逸れるが、江戸に逃げ帰った近藤勇は、数十両で錦の着物を買い込み甲陽鎮撫隊を引き連れて大名行列している。幕臣の能力が低かったので幕府が終焉したとの認識が一般化されているが、少なくとも行儀の悪さでは誰も新撰組にはかなわない。武士の真似事はできても、所詮は農民あがりと言われてもしかたないだろう。
(参考 http://www.asahi-net.or.jp/~HC2T-TNK/sinsen/kantou2.html)

塚原但馬守昌義の祖先は武田の家臣団であり、武田家滅亡により徳川家に仕え、秀忠の部下として大阪の陣に参戦。その後、今の八王子にあった留所村を知行地として旗本となった。別系のご子孫は神戸で繁栄されているようだ。






武田信玄家臣団編成表 御目付衆 塚原六右衛門
http://s04.megalodon.jp/2009-0523-2021-51/shingen3.hp.infoseek.co.jp/shingen/kashindan.html


宝印寺
http://s04.megalodon.jp/2009-0523-1943-31/1st.geocities.jp/tekedadesu/hoinzi.html


留所村 とどころむら
内容: 江戸期から明治前期にかけての村の名.1889年(明治22)加住村の大字となる.多摩郡小宮領のうち.富所とも書く.南北朝期にも留所の地名が見える.鎮守は勝手明神山王権現合社.いまの加住町1丁目の地域.江戸時代初期の村高149石7斗8升,幕末153石6斗2升,反別18町3反4畝,田は2町4反3畝,畑15町9反.幕初から旗本塚原家に知行地として与えられた.幕末の塚原寛十郎は高700石西丸書院番を勤めた.
http://www.cs.takushoku-u.ac.jp/is/hachioji/50.php?NAME=%CE%B1%BD%EA%C2%BC


幕末の幕臣。安政3(1856)年外国貿易取調掛就任以後,外交面で頭角を現し,同6年外国奉行支配調役。万延1(1860)年日米修好通商条約批准書交換のため新見正興を正使とする遣米使節に随行,海外知識を広め帰国。文久2(1862)年目付,講武所頭取,大砲組与組を経て元治1(1864)年目付に再任。この間,文久3年池田長発遣欧使節の目付に,また慶応2(1866)年英国駐箚公使に任命されたがいずれも赴かず。慶応2年大目付就任以降,外国奉行,勘定奉行兼任,外国総奉行,若年寄並などを歴任。一方慶応3年兵庫開港に備えて商社を設立し富国強兵化に努めたが,長州処分や鳥羽・伏見の戦では強行論者であったため,明治1(1868)年徳川慶喜により免職・登営禁止を命じられる。<参考文献>『維新史』4,5巻
(岩壁義光)
http://kotobank.jp/word/%E5%A1%9A%E5%8E%9F%E6%98%8C%E7%BE%A9


万延元年、初の遣米使節団に小栗上野介らとともに参加。米国より特に派遣せられた軍艦ポーハタンに乗り込んで出発。勝海舟やジョン万次郎を含む咸臨丸の一行はそれに随行する形。当時の役職は、外国奉行支配両番格調役 塚原重五郎昌(36歳) とある。
(『幕末遣外使節物語』 尾佐竹 猛)



鳥羽・伏見の戦い
老中格・大河内正質(おおこうちまさただ)を総督とし、若年寄並・塚原昌義を副
総督とする旧幕府軍1万5000が大坂から進発した。
http://www7a.biglobe.ne.jp/~soutokufu/boshinwar/tobafusimi/main.html



サンフランシスコで清国相手の貿易商(創作小説?)
http://s04.megalodon.jp/2009-0523-2018-25/www.geocities.co.jp/Bookend-Akiko/5110/newpage3.htm


「アメリカ亡命第一号・旧幕府外国総奉行 塚原但馬守昌義」とあります。前列左端の人物です。
  この写真は、1858年に調印した日米修好通商条約の批准書交換のために、江戸幕府が米国に派遣した使節団が、ワシントンの米海軍造船所を訪問した時の記念写真です。
http://s04.megalodon.jp/2009-0523-2024-58/www.jomm.jp/volunteer/2007tushin.html


767 明治元年正月初旬大阪開城前後の情況に関する浅野氏祐の談話
さて御親書は何事ならんと拝見し奉りしに、すなわち御東帰に付き、
参政以上の進退を直命し給えるものにて、御文面は左の如くありしかと覚えたり。
供 酒井雅楽頭      供 板倉伊賀守
残 松平豊前守      供 永井主水正
随意 浅野美作守     供 平山図書頭
残 竹中丹後守      残 塚原但馬守
http://asiabaku9.exblog.jp/7793556/
東都アロエ様のサイト(『徳川慶喜公伝 史料編』3巻 287P~)


さて紀州へ下りてみれば、端なくも富士山艦は同所加太浦へ寄せ来れり、
榎本の招きもあれば、これに同乗して横浜へ入港したり。
直ちに上陸して神奈川奉行に打ち合わせ、多くの船舶を雇い上げ、
紀州に残れる兵隊負傷者など呼迎うべき手筈をなし、やがて江戸へ帰りたり。

加太浦にて乗船の時、塚原但馬守も同乗を頼みしが、
艦中の新徴組(※もちろん新選組のまつがいです)・会・桑等の負傷者、
塚原の名前を聞きて、敗軍の大将なんの面目ありて乗船するやと口々に罵りければ、
再び紀州へ戻り行きたり。

小野内膳正も榎本に用談ありて来りしが、
艦長柴誠一等に奸物奸物と罵倒せられ、是も端舟に乗りて何地へか避けたり。
http://asiabaku9.exblog.jp/7807110/
東都アロエ様のサイト(『徳川慶喜公伝 史料編』3巻 287P~)

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『ある明治人の記録-柴五郎大将の遺書』
    「何も選ばない」生き方のすすめ

今回、購入した書籍には、タイトルと少し
違って、『ある明治人の記録-会津人柴五郎の遺書』
とある。この中に、柴五郎が陸軍幼年学校で同期
だった石本新六の名前を見つけた。森鴎外と確執が
あったことでこの名前を記憶していたのだが、なぜ、
石本新六が男爵になるまで出世したのかを年表から
抽出して探ってみた。

年齢は鴎外よりは8歳も年上。柴五郎よりは6歳年上
でだが、おそらく柴五郎より陸軍士官学校を早く卒業
しているようだ。陸軍中将になったのは柴五郎よりも
8年も早い。その石本新六が亡くなったあとに、やっと
柴五郎が陸軍中将に昇進している。

その5年前、石本新六が男爵の爵位をとった年に
森鴎外が中将相当に昇進しているので、鴎外の出世
も遅いが、年長の柴五郎の出世はさらに遅かった
と言える。

一方、森鴎外は、男爵となった石本新六と本格的
な確執を迎え、精神的に厳しかっただろうと思う。
確執に勝利した石本新六はその後、陸軍大臣まで
昇進するのだから、悪い相手と喧嘩したなぁ。



石本新六
1854年2月17日生まれ
1877年7月、工兵少尉に任官
1878年12月、陸士(旧1期)を卒業
1898年3月、陸軍少将
1904年10月、陸軍中将に昇進。
1907年9月、男爵の爵位を授爵し華族となった。
1911年8月、第2次西園寺公望内閣において薩長出身者以外では初めての陸軍大臣に就任する。
2個師団増設要求をするが閣議で拒否され、在任中の1912年(明治45年)4月2日に死去

柴 五郎
1860年6月21日生まれ
1877年(明治10年)5月、陸軍士官学校入学
1879年(明治12年)12月、陸軍砲兵少尉に任官
1880年(明治13年)12月士官学校を卒業
1912年(大正元年)9月、重砲兵第1旅団長となり、翌年8月陸軍中将
1919年(大正8年)1月にイギリスより帰国。8月には陸軍大将に進級


森 鴎外
1862年2月17日生まれ
1881年(明治14年)12月16日に陸軍軍医副(中尉相当)になり、東京陸軍病院に勤務
1899年(明治32年)6月に軍医監(少将相当)に昇進
1907年(明治40年)10月、陸軍軍医総監(中将相当)に昇進し、陸軍省医務局長(人事権をもつ軍医のトップ)に就任した
1909年(明治42年)石本陸軍次官から戒飭(かいちょく)された。
1917年(大正7年)12月、帝室博物館(現東京国立博物館)総長兼図書頭(ずしょのかみ)



柴五郎さんは、1930年(昭和5年)4月に退役。
15年も後の1945年(昭和20年)に敗戦を迎え、
身辺の整理を始め9月15日に自決を図る。老齢の
為この時は果たせないのだが、同年12月その怪我
がもとで病死する。

開戦の頃から、日本軍が負けることを予想していた
ようだから、後輩の育成を間違えたと、責任感
を感じていたのかも知れない。

鴎外は、舞姫などの文学活動や、最初の妻の生家
赤松家との離婚などが出世の足を引っ張ったことも
事実だが、薩長閥や年齢が出世を左右している
ことも事実のようだ。

石本新六と同い年の小池正直が鴎外より2年先に
軍医総監になって、爵位をもらっているので、
鴎外は、ぎりぎりアウトという感じ。でも、そんな
出世に遅れた鴎外の作品が素晴らしいし、
子供たちに優しいお父さんだったことが、
後生の読者とっては魅力的だと思う。



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江戸時代の武士の人口比率(人数)
    「何も選ばない」生き方のすすめ

166万人くらいだとしたら、人口全体の5%。

これは家族を含めた数字なので、刀を差している
ような本当の武士を数えたら、100人に一人か2人
くらい、つまり『1%強』と考えても良いのでは無いか?。
江戸には武士が集中していただろうが、他の地域では、
あまり見かけなかったのかも知れない。

今の警察官の割合が0.2%だから、もっとずっと
多い。超高級外車に乗っている人の割合くらい?
かも知れない。

ここまでは、総括・・・・


さて、本当は江戸時代の末期にどの程度の武士
がいたのかを知りたいのだが、武士というものの
定義が各藩で違うことや、半農の者も多かったようで、
正確に把握しづらい。

明治6年(1873年)の人口構成なら『明治史要』に
残っている。全人口は3330万0672人でこれが分母と
なる。。

皇族28人
華族2829人
士族154万8568人
卒34万3881人    ここまでで全体の5.69%。

平民3110万6514人で93.41%。
僧侶21万6995人、旧神職7万6119人、その他5738人で0.90%。

人数での統計なので、家族(幼児なども含めて)の
数字であるから、士族154万8568人といっても、実際
に刀を付けていた人数は、この3分の一とか4分の一
かも知れない。

卒も武士に含めるだろうが、平民にあたる商人などよりも
貧しい生活をしていたことが多かっただろう。明治
維新後は、世襲できない者は平民に落ちたようだし、
士族と比べて(ピラミッド型の下層として)増えて
いないので、ほとんど武士にはあたらないのかも知れない。
(このあたりの層に武士の心意気があったのかどうか、
 非常に興味深い。貧しくとも、心意気があったので、
 お金や遊興に興味を示さずいれたように思う。)



以下は引用・・・・・・・

2.享保の改革における「五公五民」の怪
 享保の改革とは、江戸幕府八代将軍吉宗が行った幕政改革である。後に行われた、寛政の改革、天保の改革と並ぶ江戸時代の三大改革の一つである。この改革では、年貢を五公五民に引き上げ、豊凶に関わらず一定の額を徴収することとし、新田開発を行って米の増産を図った。
 さて、この「五公五民」というのが不思議な数字なのである。「五公五民」とは、米の生産者である百姓の取り分が5割、支配者である武士の取り分が5割という事である。武士は自分たちが食べる分以外の米を市場で売って生活していたという。すると武士が売った米は武士でも百姓でもない者が買ったことになる。さて、江戸時代日本の人口の8割強が農民である。ちなみに武士は7%程であった。「五公五民」が本当なら、米の全収穫の半分を2割に満たない者が食い、残りの半分を8割強の人間が食ったことになる。
 以上のことから以下の仮説が考えられる。  
(1)江戸時代の殆どの日本人の主食は米である。年貢が「五公五民」であったというのは嘘で、実際は「一公四民」くらいであった。すなわち百姓達はお上に対して収穫高を偽っていたのである。
(2)江戸時代の大多数の日本人の主食は米ではない。米を主食にしていたのは一部の特権階級だけであった。米の全収穫量の5割をこれら特権階級が主食として食っていた。それ以外の5割を百姓が副食として食っていた。その場合、百姓が主食としていた食糧を1とした場合、米の比率は0.25くらいになる。
(http://drhnakai.hp.infoseek.co.jp/sub1-58.htm)

※仮説のうち、どちらかが実態であったに違いなく、2であった可能性が高い?


┃文章
 明治政府は、江戸時代の身分制度を廃止し、1869年に旧藩主と上層の公家を華族{かぞく}、藩士と旧幕臣を士族{しぞく}と卒{そつ}<注>、農民・町人を平民{へいみん}とした。1871年8月、賤民{せんみん}廃止令(身分解放令)を出して、これまでのえた・非人の称をやめ、身分・職業ともに平民と同じとした。しかし、法律の名称通り、呼称を廃止しただけで、政府は何の
保障もしなかったため、対応は不十分だった。

  <注>身分や地位の低い武士の呼称。1872年1月、世襲の者は
      士族、一代限りの者は平民となった。

 えた・非人にも、兵役・納税・教育などの義務が加わり、皮革加工業などの伝統的な産業も資本主義の波をかぶり、生活も苦しくなった。また、職業選択の自由により、皮革加工業に参入する人も増えた。江戸時代、えた・非人が持つ土地は免税田だったが、明治時代になると、その土地にも税金がかかるようになった。えた・非人は賤民廃止反対一揆を起こした。しかし、一般民衆の受け取り方は冷たく、一揆の農民が賤民身分廃止反対を唱えて、被差別部落を襲撃する事件も起こった。


 身分制度の廃止とともに、武士の特権や江戸時代は禁止されていたことが次々と認められた。1870年9月に平民に苗字を付けること、1871年8月に華族・士族・平民間の結婚、12月に官吏以外の職業選択の自由を認めた。そして、1871年に制定された戸籍法に基づいて、翌年に統一的な戸籍が作られた。壬申{じんしん}戸籍である。


┃コラム…1873年の人口構成(『明治史要』より)
 皇族28人、華族2829人、士族154万8568人、卒34万3881人で全体の5.69%を占める。平民3110万6514人で93.41%を占める。僧侶21万6995人、旧神職7万6119人、その他5738人で0.90%を占める。全人口は3330万0672人である。
(https://www.melonpan.net/letter/backnumber_all.php?back_rid=523300)



自分の先祖がどれだけいたかを考えてみます。
1世代前の父母は2人、2世代前の祖父母は4人、3世代前の曽祖父母は8人、4世代前の高祖父母は16人・・・。
世代間の平均周期はおよそ27年といわれていますから30世代前の810年前には、なんと10億7374万1824人にもなります。810年前というとちょうど鎌倉時代の初めの頃にあたります。この時代に理論上、自分の先祖が10億人いたことになるのです。

さきほどみた人口推計では鎌倉時代は、多くとも800万人程度でした。
この矛盾の種明かしは単純で理論上の10億人の先祖は全員が別人と仮定した話ですので、先祖の中で5世代さかのぼると血の繋がる者同士が結婚するという類の話はいくらでもあり、そうするとそれなりの数字に落ち着くのです。

自分の家系は延々と古代にまでさかのぼるということ、昔の人口、これらのことを考え合わせると何の血の繋がりもないと思っている人の家系が本当に自分の家系と交わったことがないという確率は限りなく低いということです。
(http://blog.livedoor.jp/seisyo1/archives/434089.html)
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幼い者が先端テクノロジーを手にすると
    「何も選ばない」生き方のすすめ

PDFによる感染なのか、セキュリティホールか
も知れないが、パソコンがウィルスに感染した
ようだ。他のPCへの感染を心配して、社内の
ネットワークをすべてストップした。
(当然、業務も全面停止。)

ウイルスバスターでスキャンしても、PCの
不安定は解消しなかったので、再インストール
して解決した。その後、感染は見つかっていない。
(リスティングプロセスのスパイウェアという
 ものなのか?。)

以下の中国系の2サイトが強制的にIEで
開いてしまう。非常に珍しいウイルスなのだ
ろうか?、日本語の情報が極めて少ない。
いずれにしても、中国人のピンポイント攻撃
だった可能性も捨てきれない。争いを好む民族
なのだと歴史から学んだことが、現実に体験
できたのであった。
(北朝鮮も経済が発展して、個人がPCと
 ブロードバンドを持つようになったら、
 恐ろしいな。)


2009.6.5 現在、Googleに日本語での情報なし

www3.07129.com   ← 注意(開くべからず)
msm.moneyinfom.com ← 注意(開くべからず)

以下は、Googleに日本語の情報あり
adw_cpush
cpush.tmp
heurspy_cinmus
PAK_GENERIC
nonamefl
MAL_OTORUN1



テクノロジーだけが先行するということは
これまでも、予想もつかない悲劇を生み出してきた。
原爆を初めて使ったアメリカの軍部も幼い組織だった
だろう。そして・・・

「東京大空襲」史上最大の虐殺
http://www.kmine.sakura.ne.jp/kusyu/kuusyu.html

カーチス・ルメイと東京大空襲
http://sidenkai21.cocot.jp/m363.html

立派に見えている組織でも、実際は幼い。
残酷な人間が指揮を執ると、数時間で10万人を焼き
殺す方法を考案して、数々のテクノロジーを駆使して
実現してしまった。この男を、後に日本政府は叙勲して
いるというのだから、日本の幼さが、アメリカ
どころでは無かったことも事実。


『痛恨の昭和』石川 光陽さん撮影の写真集は
絶版となっているが、後生に残さなければならない
書籍だと思う。今なら、amazonに古本がたくさん
販売されています。是非!。

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日仏交流の歴史 最初に来日したフランス人「宣教師クルテ」
    「何も選ばない」生き方のすすめ

小学生の娘に「フランスと日本のつながり」をまとめる
宿題が出された。子供がインターネットで調べていたが、
まとまったページが見つからない・・・困っていたので、
手伝ってあげようと思って検索してみた。

「フランス 日本 つながり」
「来日 最初 フランス人」
「日仏交流 歴史」

Yahooの知恵袋に以下のような回答があって、小学生の
宿題の答えとしては、まとまっていて、非常に助かった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
フランスからは主にぶどう酒やブランド物の装身具、
バックなどを輸入しております。
核廃棄物の処理もフランスに頼んでいました。
日本はボージョレヌーヴォーの世界最大の消費国です。
EUとして航空機エアバスの輸入もしています。
心臓病などに使う循環器系の医薬品も殆どがフランス製です。
日本からは原付バイク、自動車、家電などを輸出しています。
また、日本から年間60万人もの人がフランスへ旅行へ出かけています。
日仏間の貿易は、あまり盛んではなく経済的な結びつきは弱いです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

宿題については一件落着したのだが、思わぬページを
見つけてしまって、探求心が生まれた。


外務省「日仏交流の歴史 パリ万国博と ジャポニスム」


この中に西暦1637年に初めて来日したフランス人と
して、「ドミニコ会司祭ギヨーム・クルテが九州上陸」
とあるのを見つけた。江戸時代のことでもあるし、
司馬遼太郎さんの書籍で紹介されていた殉職者のシドチ
のことも気になっていたので、宣教師クルテが
どのように扱われたのかが心配になった。

歴史のなかの邂逅②-司馬遼太郎 シドチ
http://www.isagiyoi.com/m200709.html

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
聖ギョーム・クルテ司祭
 ギョーム・クルテは、フランスのモンペリエで、一五九〇年に生まれ、一六〇七年、アルビのドミニコ会に入会し、トゥルーズで神学を学びました。司祭叙階後は、サン・マキシマン王立修道院の神学講師となり、一六二四年アビニオン修道院院長となってからは、修道院の改革に力を入れています。
 その後、マドリッドに移り、五年間滞在しましたが、その高潔な人柄で、指導司祭として多くの人々に慕われていました。一六三五年マニラに到着しましたが、マニラでもその人柄ゆえに、トマス学院の神学教授に迎えられ、多くの人を指導しました。クルテ神父は自分に厳しく、人には優しく、回心する人は特別に慰めを感じたといわれています。
 一六三六年、日本宣教にはやる心でマニラを出発したのでしたが、日本到着と同時に逮捕され翌三七年、長崎に移されました。拷問にも耐え、死刑の宣告文をつけられて、市内を引きまわされた後、穴吊りの刑を受け、祈りながら三日間耐えていました。狩りに行く前の奉行が刑の執行を急ぎ、斬首を命じ、こうして九月二十九日、クルテ神父は神のもとにかえりました。
(http://www.cbcj.catholic.jp/jpn/library/book/tomanishi/tomanishi.htm)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

同じ頃、琉球で逮捕されたスペイン人の宣教師2名とともに
拷問を受けた。そのうちの一人は、数日前に獄死。
残った2人も市内を引きまわされた後、穴吊りの刑を受け、
奉行の一言で斬首。

この頃、長崎は幕府直轄地(天領)だったようだ。
仕事とは言え、この奉行は躊躇無く外国人を死刑に
している。直前の1610年頃に琉球に薩摩藩が侵攻して
島津氏に支配されていたことも災いした。琉球王朝の
ままであったなら、琉球で逮捕されていなかったかも
知れない。

歴史を深く読みあさっていると、当時の島津家っていうのは、
ろくなもんじゃないな。子孫の方にどのような人格が
引き継がれているのだろうか。琉球王朝の子孫は、
廃藩置県で東京に移されて、侯爵として扱われ、
現在も安泰だそうだが、島津家のことを、どう思われて
おられるか・・・。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
島津氏第32代当主 島津修久さん
妻の伊津子は西郷隆盛の曾孫(午次郎の長男隆一の娘)で、結婚式の仲人は大久保利通の嫡孫・大久保利謙が務めた。嫡男は島津忠裕。
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B3%B6%E6%B4%A5%E4%BF%AE%E4%B9%85)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

島津修久さんは、好々爺に見えますね。次のご当主は、
西郷さんとの血脈も受け継がれて、明治維新の象徴
のようですね。

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死んでからゆっくり寝る
    「何も選ばない」生き方のすすめ

漆 紫穂子  品川女子学院 

 10月に始まったこの連載を2カ月間ご愛読いただき、ありがとうございました。思うところがあって、これを最後にさせていただくことになりました。

 私が教員になって、今年で25年になります。その間、ひたすら目の前の生徒と卒業生のことを考えて仕事をしてきたため、私には学校以外の職場経験がありません。これは、私にとってコンプレックスになっています。

 連載執筆のお話をいただいた時も、「大人の方の、ましてやビジネスの第一線で活躍なさっている読者の皆さんにとって、私の経験してきた話が果たしてお役に立つものなのか」と、とても不安でした。

 しかし毎回多くの方にご覧いただき、温かいコメントを頂戴し、それら一つひとつを読むたびに背中を押され、ここまで回を重ねることができました。

 毎回原稿を書く時、「私の経験の中の、どんな話が皆さんの役に立つのだろうか」と、何度も書き直し、悪戦苦闘していました。しかしそのことで、これまでのことを客観的に振り返ることができ、私自身、たくさんの“気づき”を得ることができました。

 自分の言葉は、自分に返ってきます。

 私は朝礼で生徒に話をしている時、「人に言えるほど、私自身はそれができているのだろうか」という思いに駆られ、言葉に詰まることがあります。そんな時は、「この子たちは私を遙かに超えて成長し、社会に出て行くのだから」と自分に言い聞かせて話を続けます。

 このコラムでも「今回の記事で過去の体験を書いたけれど、今の私はそれをちゃんとできているのか?」「この改革が必要なのは、今の本校なのでは?」と自問することが多くありました。

 組織は生きています。

 舵を右に切りすぎれば左に問題が起き、常にバランスを取っていかなければなりません。かつて壁を乗り越えたはずの、同じ根っこの問題が、しばらくすると新型のインフルエンザのように形を変えてやってくることもあります。

 目標も、ここまでということがありません。今見えている一番高い山をやっと登りきったと思ったら、すぐに次の山が見えてきます。ストレートな道をずっと進んでいけるということはなく、螺旋階段を上りながら少しずつ進化していくような感じです。

 ある経営者が言っていました。「死んでからゆっくり寝る」と。私も同じ心境です。

 今、教員一人ひとりに1時間ずつ時間をとってもらい、ヒアリングをしています。校長になって3年目、仕事の器の大きさに何とか自分を合わせようとして必死でもがいているうちに、自分の見えないところに「もっとこうできる」「もっとこうしなければいけない」という課題や問題点が、予想以上にたまってきていることに気づかされました。

 「それが見えたからには、すぐに何とかしたい」というのが今の気持ちです。ちょうど二十数年前、改革を始めた時の思いと同じです。

 私は来年、母が病に倒れたその年齢になります。課題の大きさに比べ、残された時間はそう長くないかもしれません。「自分がいなくても進化し続ける学校」にすることが私の責任。「みんなが夢中になって好きなことができる学校」をつくることが私の夢です。

 これまで私のコラムを読んでいただいた皆様、本当にありがとうございました。もし、これを楽しみにしてくださっていた方がいらっしゃるとすれば、とても申し訳ないのですが、今は、目の前の生徒のために使う時間を最優先にしたいのです。どうかご理解ください。
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