2009-01-20 Tue
「何も選ばない」生き方のすすめ
経済的に満たされて、自由な時間も十分にある。子供と
過ごす時間も多い。なのに、すっきりしないのだけど、以下の
説明を読んでいると少し光明が見えてくるような気がする。
今日、子供がもし亡くなったとしたら、どんなことをしても
会いたいと思うに違いない。数年前亡くなった母のことも
同じように思う。今、現実として、実際に子供が目の前に
いる。これだけで本当に幸せなことなのだと感じた。
植島:まず、「死んだらしょうがない」という態度です。
自分の死後の家族について考えたとしても、本当の
ところは自分が死んだ後はどうでもいいことだし、
どうしようもない、と。
「どうでもいい」というのが無責任に聞こえるとしたら、
それは死んだ後のことまで強迫されているからでしょう。
「死んだら終わり」または「死んだら(根拠なく)幸せに
なれる」というのはむしろ好ましい考え方かもしれません。
こういう考え方が広まれば、悩んでいる人も少しは楽に
なるように思える。もともと、その悩みはぜいたくなこと
だと解っているのだけど・・・。
--世界の地域や民族により死への思いは様々だと思いますが、海外で接した印象的な死生観はありますか?
植島:まず、「死んだらしょうがない」という態度です。自分の死後の家族について考えたとしても、本当のところは自分が死んだ後はどうでもいいことだし、どうしようもない、と。
「どうでもいい」というのが無責任に聞こえるとしたら、それは死んだ後のことまで強迫されているからでしょう。「死んだら終わり」または「死んだら(根拠なく)幸せになれる」というのはむしろ好ましい考え方かもしれません。
--せめて生きている間は、自由を謳歌し、人生をコントロールしたい。そういう考えから、現代人は責任と選択を非常に重視しているように思います。
植島:ええ。一方で、アジア、アフリカ諸国の人々の暮らしぶりを見て思うのは、「普段の生活に選択の余地などない」ということです。もちろん頭の中でやりたいことを想像することは可能ですよ。そういう意味ではなく、1日のうち15時間くらいは、畑仕事とか水汲みだとか確実にやらないといけない仕事が決まっています。そういう社会を生きる人には選択の余地がない。その代わり、心は不思議にゆったりしている。
私たちの暮らす社会は、朝起きたときからいろいろな“選択”の可能性があります。会社勤めでも、様々な判断事項が自分の身に降り掛かってくるし、私生活でも「いつ誰とデートしよう」とかあれこれ考えられます。
選択の余地があり過ぎることが幸せにつながるかは疑問です。たしかに、生きる上で“自由”は何より重要です。でも、社会心理学者のエーリッヒ・フロムが『自由からの逃走』で指摘した通り、自由だと余計にしんどさを抱え込まないといけなくなる。そうなると選択することに対する処方箋が必要になります。
以下は引用(全文) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ストレス対処への新たな視点、宗教人類学--植島啓司氏(前編)
米国に端を発した金融危機、日々口にするような食べ物の汚染発覚など、いまや「不安」が常態となっている。
不安な時代が叫ばれるほど、その裏返しに「こうすれば確実に成功を得られますよ」といった、生き方やノウハウの話がもてはやされる。思えば、家庭や学校で教えられた「自分の頭で考え、決断できる人になりましょう」といったこともノウハウの1つでしかなかった。
ある程度の年齢を重ねれば、そんな法則が当てはまらない多くの例外を目にするが、むしろ例外の方が主流なのではと思えてくる。
世の中、思いどおりに行くことのほうが珍しい。努力して成功したが、健康を害した。財産を失ったが、愛する人と巡り会えた……。手に入れるとは失うことであり、その逆も真だと思えることが多い。すべてが偶然ならば、自分の意志で成し遂げられることは、そう多くはないのではないか。
そもそも人は、いつ死ぬかは分からない。だが、“老い”や“病”を得て“死ぬ”という不確実でありながら明瞭なルールに支配されている。その中でさいころを振りながらも、何かを選択して生きてきたのが人間である。
植島啓司(うえしま・けいじ) 宗教人類学者。東京大学卒。東京大学大学院人文科学研究科(宗教人類学専攻)博士課程修了後、シカゴ大学大学院に留学、M・エリアーデのもとで研究を続ける。NYニュースクール・フォー・ソーシャルリサーチ客員教授、関西大学教授、人間総合科学大学教授などを歴任。著書『男が女になる病気』(朝日出版社、集英社)『分裂病者のダンスパーティ』(リブロポート)『宗教学講義』(筑摩書房)『天使のささやき』(人文書院)『聖地の想像力』(集英社)『快楽は悪か』(朝日新聞社)、『偶然のチカラ』(集英社)、『賭ける魂』(講談社)ほか多数。翻訳『生命の樹』(平凡社)『メディア・セックス』(リブロポート、集英社)など。
そして、古来より、こうした生に伴うストレスを扱ってきたのは宗教だった。
宗教人類学者の植島啓司さんはここ40年間、1年のうち200日を旅し、世界中の聖地とカジノを巡ってきた。1回限りの奇蹟の起きた場所である「聖地」。偶然か必然かという根源的な問いかけが芽生える「賭け」。この、奇蹟という1回限りの必然の出来事と、賭けにおける運やツキといった偶然は、不確実でストレスを生き抜く上で大いに参考になる対象ではないか。
“一寸先は闇”の生をやり過ごす心構えとは何か、植島さんに聞いた。
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☆☆☆ ☆☆☆
☆☆☆ ユニフォーム姿三四郎が紹介されています ☆☆☆
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経済的に満たされて、自由な時間も十分にある。子供と
過ごす時間も多い。なのに、すっきりしないのだけど、以下の
説明を読んでいると少し光明が見えてくるような気がする。
今日、子供がもし亡くなったとしたら、どんなことをしても
会いたいと思うに違いない。数年前亡くなった母のことも
同じように思う。今、現実として、実際に子供が目の前に
いる。これだけで本当に幸せなことなのだと感じた。
植島:まず、「死んだらしょうがない」という態度です。
自分の死後の家族について考えたとしても、本当の
ところは自分が死んだ後はどうでもいいことだし、
どうしようもない、と。
「どうでもいい」というのが無責任に聞こえるとしたら、
それは死んだ後のことまで強迫されているからでしょう。
「死んだら終わり」または「死んだら(根拠なく)幸せに
なれる」というのはむしろ好ましい考え方かもしれません。
こういう考え方が広まれば、悩んでいる人も少しは楽に
なるように思える。もともと、その悩みはぜいたくなこと
だと解っているのだけど・・・。
--世界の地域や民族により死への思いは様々だと思いますが、海外で接した印象的な死生観はありますか?
植島:まず、「死んだらしょうがない」という態度です。自分の死後の家族について考えたとしても、本当のところは自分が死んだ後はどうでもいいことだし、どうしようもない、と。
「どうでもいい」というのが無責任に聞こえるとしたら、それは死んだ後のことまで強迫されているからでしょう。「死んだら終わり」または「死んだら(根拠なく)幸せになれる」というのはむしろ好ましい考え方かもしれません。
--せめて生きている間は、自由を謳歌し、人生をコントロールしたい。そういう考えから、現代人は責任と選択を非常に重視しているように思います。
植島:ええ。一方で、アジア、アフリカ諸国の人々の暮らしぶりを見て思うのは、「普段の生活に選択の余地などない」ということです。もちろん頭の中でやりたいことを想像することは可能ですよ。そういう意味ではなく、1日のうち15時間くらいは、畑仕事とか水汲みだとか確実にやらないといけない仕事が決まっています。そういう社会を生きる人には選択の余地がない。その代わり、心は不思議にゆったりしている。
私たちの暮らす社会は、朝起きたときからいろいろな“選択”の可能性があります。会社勤めでも、様々な判断事項が自分の身に降り掛かってくるし、私生活でも「いつ誰とデートしよう」とかあれこれ考えられます。
選択の余地があり過ぎることが幸せにつながるかは疑問です。たしかに、生きる上で“自由”は何より重要です。でも、社会心理学者のエーリッヒ・フロムが『自由からの逃走』で指摘した通り、自由だと余計にしんどさを抱え込まないといけなくなる。そうなると選択することに対する処方箋が必要になります。
以下は引用(全文) ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ストレス対処への新たな視点、宗教人類学--植島啓司氏(前編)
米国に端を発した金融危機、日々口にするような食べ物の汚染発覚など、いまや「不安」が常態となっている。
不安な時代が叫ばれるほど、その裏返しに「こうすれば確実に成功を得られますよ」といった、生き方やノウハウの話がもてはやされる。思えば、家庭や学校で教えられた「自分の頭で考え、決断できる人になりましょう」といったこともノウハウの1つでしかなかった。
ある程度の年齢を重ねれば、そんな法則が当てはまらない多くの例外を目にするが、むしろ例外の方が主流なのではと思えてくる。
世の中、思いどおりに行くことのほうが珍しい。努力して成功したが、健康を害した。財産を失ったが、愛する人と巡り会えた……。手に入れるとは失うことであり、その逆も真だと思えることが多い。すべてが偶然ならば、自分の意志で成し遂げられることは、そう多くはないのではないか。
そもそも人は、いつ死ぬかは分からない。だが、“老い”や“病”を得て“死ぬ”という不確実でありながら明瞭なルールに支配されている。その中でさいころを振りながらも、何かを選択して生きてきたのが人間である。
植島啓司(うえしま・けいじ) 宗教人類学者。東京大学卒。東京大学大学院人文科学研究科(宗教人類学専攻)博士課程修了後、シカゴ大学大学院に留学、M・エリアーデのもとで研究を続ける。NYニュースクール・フォー・ソーシャルリサーチ客員教授、関西大学教授、人間総合科学大学教授などを歴任。著書『男が女になる病気』(朝日出版社、集英社)『分裂病者のダンスパーティ』(リブロポート)『宗教学講義』(筑摩書房)『天使のささやき』(人文書院)『聖地の想像力』(集英社)『快楽は悪か』(朝日新聞社)、『偶然のチカラ』(集英社)、『賭ける魂』(講談社)ほか多数。翻訳『生命の樹』(平凡社)『メディア・セックス』(リブロポート、集英社)など。
そして、古来より、こうした生に伴うストレスを扱ってきたのは宗教だった。
宗教人類学者の植島啓司さんはここ40年間、1年のうち200日を旅し、世界中の聖地とカジノを巡ってきた。1回限りの奇蹟の起きた場所である「聖地」。偶然か必然かという根源的な問いかけが芽生える「賭け」。この、奇蹟という1回限りの必然の出来事と、賭けにおける運やツキといった偶然は、不確実でストレスを生き抜く上で大いに参考になる対象ではないか。
“一寸先は闇”の生をやり過ごす心構えとは何か、植島さんに聞いた。
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