2009-05-24 Sun
「何も選ばない」生き方のすすめ
斗南藩への配流となった会津藩について、なぜ
不毛の地とされる「斗南(現在のむつ市)」を選択
したのかをネットで調べていたら、以下のような
記述が見つかった。このような見解は会津の方
以外においては、最近一般的になっているよう
にも思える。その一例として、引用させていただいた。
「今もって長州に女々しく怨み節をのたまわっている会津の人よ、もう少しマクロな歴史を知って欲しい。戊辰敗戦後斗南に移ったのはあなた達先祖の判断で猪苗代の選択肢(葛西富夫著:斗南藩史 頁113)があったのですよ。 勝者の薩長があたかも酷寒の不毛の地を押しつけたのでは決してありません!!。 」
(http://www.d4.dion.ne.jp/~ponskp/bakuhan/bakuhan.htm)
どう考えても、会津藩が気の毒でしかたないので、
ちょっと調べてみた。
まず最初に、2つの地域を新政府は提示している。
「斗南」を選んだ理由が、もう一つの選択肢であった
「猪苗代」において、敗戦後の人民を押さえられない
ことや、借金の返済の目処が立たないことが事実
だとしたら、そのような2カ所を提示すること自体
が非常に「罪なこと」、と考える方は少ないので
しょうか?。
また、薩長閥など無いに等しいかのように考えて
いる方々も多いようだが、前のブログに書いた
石本新六が陸軍大臣になるまで、薩長出身者
以外では明治44年(1911年)まで見あたらない
ことなどからも、あからさまに薩長が政権を
握っていたことは確かである。
『ある明治人の記録-会津人柴五郎の遺書』に
書かれている、柴五郎の中国における戦い方
を見ていると、以下のようなエピソードがある。
「多数の犠牲者を出した旅順攻撃に際しても、
要塞内に逃げ込んだロシア市民の待避を軍使を
たてて要請したが、食料など十分なるうえ、
防備固く安全なりとの理由で拒否され、
やむなく攻撃を開始している。各戦闘における
軍規の厳正さについて、敵将クロパトキン将軍
の回顧録は、世界まれにみる軍隊として賞揚
している。」
「義和団からの攻撃に応戦しているとき、
遠巻きにして傍観している清国正規軍が、
籠城軍牽制のため射程内に近づいて来る
ことがあり、誤ってこれを射ってしまった
ことがあった。このようなときには、白旗
の軍使を派遣して陳謝するなど、細かい配慮
を忘れず、沈着に行動した。」
戦国時代の名残で「我こそは」とまでは行か
ないにせよ、会津人柴五郎が戦いにおいても
行儀・作法の信念をもっていたことは確かであり、
農民あがりの新撰組や薩長の戦い方とは次元が
違う感じがする。下級の公家であった岩倉具視
の悪知恵か、大久保・西郷かははっきりしない
が、正式な勅命も無しに、錦の御旗など
かかげて勝利してしまうような下品な振る舞い
はこれからの歴史研究家が証明するものと思う。
話が逸れてしまったが、要所要所での薩長軍
の強引な実行力で、徳川軍があのような負け方
をしたことは、まぎれもない事実であり、-徳川
300年をごくわずかな武士の上層部のために、
農民が搾取されたかのような説明が百歩譲って
確かだとしても-その中で暮らしていた人々の
文化や振る舞いが世界有数の美しさだったことは
「武士の娘」や「名ごりの夢」を読んでみれば
理解できると思う。
薩長が作った明治政府は文明開化の華をを
咲かせたが、政権を握ったのが大久保や伊藤博文
などの最下級の武士だったこともあり、美しい精神や
振る舞いを受け継ぐことより、政府や皇室の特権化
を優先した。
(宮内庁の儀礼の多くが明治時代に作られた
と言われている。)
現代でも、ここ数十年のグローバル化といった
アメリカ流の経営手法は、打算的な経営を加速
させてしまい、医師や料理人などに少しだけ
残っていたはずの立場や責任で「分をわきまえて
誠実に働く人々」の文化も消してしまった。
皮肉なことに、このような文化は薩摩(鹿児島)
や長州(山口)の方が、比較的まだ残っている
のだろうと予想する。関東や東北の貧しい地域
には、ほんのカケラほどなら残ってはいるが、
怠惰と打算が支配してしまって、売っている
ものも、サービスも低下が著しい。
ただ最後に、会津藩の問題で少し疑問が残るのは、
斗南藩の周辺にも、八戸藩などの普通に運営
されていた諸藩もある訳で、斗南がそれに
比べてどれだけ厳しい土地であったかは調べる
必要がありそうだ。この地域の諸藩は、江戸期
を通して改易や国替えもほとんど無く、他地域
からの転封・移封は少ないようだ。やはり、
運営の難しい地域だったのかも知れない。
地域の問題もさることながら、石高の減少の方が
きつかったと言えるかも知れない。
蝦夷・陸奥・出羽の諸藩
http://www.asahi-net.or.jp/~ME4K-SKRI/han/mutudewa.html
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
☆☆☆ ☆☆☆
☆☆☆ ユニフォーム姿三四郎が紹介されています ☆☆☆
☆☆☆ ☆☆☆
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
斗南藩への配流となった会津藩について、なぜ
不毛の地とされる「斗南(現在のむつ市)」を選択
したのかをネットで調べていたら、以下のような
記述が見つかった。このような見解は会津の方
以外においては、最近一般的になっているよう
にも思える。その一例として、引用させていただいた。
「今もって長州に女々しく怨み節をのたまわっている会津の人よ、もう少しマクロな歴史を知って欲しい。戊辰敗戦後斗南に移ったのはあなた達先祖の判断で猪苗代の選択肢(葛西富夫著:斗南藩史 頁113)があったのですよ。 勝者の薩長があたかも酷寒の不毛の地を押しつけたのでは決してありません!!。 」
(http://www.d4.dion.ne.jp/~ponskp/bakuhan/bakuhan.htm)
どう考えても、会津藩が気の毒でしかたないので、
ちょっと調べてみた。
まず最初に、2つの地域を新政府は提示している。
「斗南」を選んだ理由が、もう一つの選択肢であった
「猪苗代」において、敗戦後の人民を押さえられない
ことや、借金の返済の目処が立たないことが事実
だとしたら、そのような2カ所を提示すること自体
が非常に「罪なこと」、と考える方は少ないので
しょうか?。
また、薩長閥など無いに等しいかのように考えて
いる方々も多いようだが、前のブログに書いた
石本新六が陸軍大臣になるまで、薩長出身者
以外では明治44年(1911年)まで見あたらない
ことなどからも、あからさまに薩長が政権を
握っていたことは確かである。
『ある明治人の記録-会津人柴五郎の遺書』に
書かれている、柴五郎の中国における戦い方
を見ていると、以下のようなエピソードがある。
「多数の犠牲者を出した旅順攻撃に際しても、
要塞内に逃げ込んだロシア市民の待避を軍使を
たてて要請したが、食料など十分なるうえ、
防備固く安全なりとの理由で拒否され、
やむなく攻撃を開始している。各戦闘における
軍規の厳正さについて、敵将クロパトキン将軍
の回顧録は、世界まれにみる軍隊として賞揚
している。」
「義和団からの攻撃に応戦しているとき、
遠巻きにして傍観している清国正規軍が、
籠城軍牽制のため射程内に近づいて来る
ことがあり、誤ってこれを射ってしまった
ことがあった。このようなときには、白旗
の軍使を派遣して陳謝するなど、細かい配慮
を忘れず、沈着に行動した。」
戦国時代の名残で「我こそは」とまでは行か
ないにせよ、会津人柴五郎が戦いにおいても
行儀・作法の信念をもっていたことは確かであり、
農民あがりの新撰組や薩長の戦い方とは次元が
違う感じがする。下級の公家であった岩倉具視
の悪知恵か、大久保・西郷かははっきりしない
が、正式な勅命も無しに、錦の御旗など
かかげて勝利してしまうような下品な振る舞い
はこれからの歴史研究家が証明するものと思う。
話が逸れてしまったが、要所要所での薩長軍
の強引な実行力で、徳川軍があのような負け方
をしたことは、まぎれもない事実であり、-徳川
300年をごくわずかな武士の上層部のために、
農民が搾取されたかのような説明が百歩譲って
確かだとしても-その中で暮らしていた人々の
文化や振る舞いが世界有数の美しさだったことは
「武士の娘」や「名ごりの夢」を読んでみれば
理解できると思う。
薩長が作った明治政府は文明開化の華をを
咲かせたが、政権を握ったのが大久保や伊藤博文
などの最下級の武士だったこともあり、美しい精神や
振る舞いを受け継ぐことより、政府や皇室の特権化
を優先した。
(宮内庁の儀礼の多くが明治時代に作られた
と言われている。)
現代でも、ここ数十年のグローバル化といった
アメリカ流の経営手法は、打算的な経営を加速
させてしまい、医師や料理人などに少しだけ
残っていたはずの立場や責任で「分をわきまえて
誠実に働く人々」の文化も消してしまった。
皮肉なことに、このような文化は薩摩(鹿児島)
や長州(山口)の方が、比較的まだ残っている
のだろうと予想する。関東や東北の貧しい地域
には、ほんのカケラほどなら残ってはいるが、
怠惰と打算が支配してしまって、売っている
ものも、サービスも低下が著しい。
ただ最後に、会津藩の問題で少し疑問が残るのは、
斗南藩の周辺にも、八戸藩などの普通に運営
されていた諸藩もある訳で、斗南がそれに
比べてどれだけ厳しい土地であったかは調べる
必要がありそうだ。この地域の諸藩は、江戸期
を通して改易や国替えもほとんど無く、他地域
からの転封・移封は少ないようだ。やはり、
運営の難しい地域だったのかも知れない。
地域の問題もさることながら、石高の減少の方が
きつかったと言えるかも知れない。
蝦夷・陸奥・出羽の諸藩
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