2009-05-04 Mon
「何も選ばない」生き方のすすめ
166万人くらいだとしたら、人口全体の5%。
これは家族を含めた数字なので、刀を差している
ような本当の武士を数えたら、100人に一人か2人
くらい、つまり『1%強』と考えても良いのでは無いか?。
江戸には武士が集中していただろうが、他の地域では、
あまり見かけなかったのかも知れない。
今の警察官の割合が0.2%だから、もっとずっと
多い。超高級外車に乗っている人の割合くらい?
かも知れない。
ここまでは、総括・・・・
さて、本当は江戸時代の末期にどの程度の武士
がいたのかを知りたいのだが、武士というものの
定義が各藩で違うことや、半農の者も多かったようで、
正確に把握しづらい。
明治6年(1873年)の人口構成なら『明治史要』に
残っている。全人口は3330万0672人でこれが分母と
なる。。
皇族28人
華族2829人
士族154万8568人
卒34万3881人 ここまでで全体の5.69%。
平民3110万6514人で93.41%。
僧侶21万6995人、旧神職7万6119人、その他5738人で0.90%。
人数での統計なので、家族(幼児なども含めて)の
数字であるから、士族154万8568人といっても、実際
に刀を付けていた人数は、この3分の一とか4分の一
かも知れない。
卒も武士に含めるだろうが、平民にあたる商人などよりも
貧しい生活をしていたことが多かっただろう。明治
維新後は、世襲できない者は平民に落ちたようだし、
士族と比べて(ピラミッド型の下層として)増えて
いないので、ほとんど武士にはあたらないのかも知れない。
(このあたりの層に武士の心意気があったのかどうか、
非常に興味深い。貧しくとも、心意気があったので、
お金や遊興に興味を示さずいれたように思う。)
以下は引用・・・・・・・
2.享保の改革における「五公五民」の怪
享保の改革とは、江戸幕府八代将軍吉宗が行った幕政改革である。後に行われた、寛政の改革、天保の改革と並ぶ江戸時代の三大改革の一つである。この改革では、年貢を五公五民に引き上げ、豊凶に関わらず一定の額を徴収することとし、新田開発を行って米の増産を図った。
さて、この「五公五民」というのが不思議な数字なのである。「五公五民」とは、米の生産者である百姓の取り分が5割、支配者である武士の取り分が5割という事である。武士は自分たちが食べる分以外の米を市場で売って生活していたという。すると武士が売った米は武士でも百姓でもない者が買ったことになる。さて、江戸時代日本の人口の8割強が農民である。ちなみに武士は7%程であった。「五公五民」が本当なら、米の全収穫の半分を2割に満たない者が食い、残りの半分を8割強の人間が食ったことになる。
以上のことから以下の仮説が考えられる。
(1)江戸時代の殆どの日本人の主食は米である。年貢が「五公五民」であったというのは嘘で、実際は「一公四民」くらいであった。すなわち百姓達はお上に対して収穫高を偽っていたのである。
(2)江戸時代の大多数の日本人の主食は米ではない。米を主食にしていたのは一部の特権階級だけであった。米の全収穫量の5割をこれら特権階級が主食として食っていた。それ以外の5割を百姓が副食として食っていた。その場合、百姓が主食としていた食糧を1とした場合、米の比率は0.25くらいになる。
(http://drhnakai.hp.infoseek.co.jp/sub1-58.htm)
※仮説のうち、どちらかが実態であったに違いなく、2であった可能性が高い?
┃文章
明治政府は、江戸時代の身分制度を廃止し、1869年に旧藩主と上層の公家を華族{かぞく}、藩士と旧幕臣を士族{しぞく}と卒{そつ}<注>、農民・町人を平民{へいみん}とした。1871年8月、賤民{せんみん}廃止令(身分解放令)を出して、これまでのえた・非人の称をやめ、身分・職業ともに平民と同じとした。しかし、法律の名称通り、呼称を廃止しただけで、政府は何の
保障もしなかったため、対応は不十分だった。
<注>身分や地位の低い武士の呼称。1872年1月、世襲の者は
士族、一代限りの者は平民となった。
えた・非人にも、兵役・納税・教育などの義務が加わり、皮革加工業などの伝統的な産業も資本主義の波をかぶり、生活も苦しくなった。また、職業選択の自由により、皮革加工業に参入する人も増えた。江戸時代、えた・非人が持つ土地は免税田だったが、明治時代になると、その土地にも税金がかかるようになった。えた・非人は賤民廃止反対一揆を起こした。しかし、一般民衆の受け取り方は冷たく、一揆の農民が賤民身分廃止反対を唱えて、被差別部落を襲撃する事件も起こった。
身分制度の廃止とともに、武士の特権や江戸時代は禁止されていたことが次々と認められた。1870年9月に平民に苗字を付けること、1871年8月に華族・士族・平民間の結婚、12月に官吏以外の職業選択の自由を認めた。そして、1871年に制定された戸籍法に基づいて、翌年に統一的な戸籍が作られた。壬申{じんしん}戸籍である。
┃コラム…1873年の人口構成(『明治史要』より)
皇族28人、華族2829人、士族154万8568人、卒34万3881人で全体の5.69%を占める。平民3110万6514人で93.41%を占める。僧侶21万6995人、旧神職7万6119人、その他5738人で0.90%を占める。全人口は3330万0672人である。
(https://www.melonpan.net/letter/backnumber_all.php?back_rid=523300)
自分の先祖がどれだけいたかを考えてみます。
1世代前の父母は2人、2世代前の祖父母は4人、3世代前の曽祖父母は8人、4世代前の高祖父母は16人・・・。
世代間の平均周期はおよそ27年といわれていますから30世代前の810年前には、なんと10億7374万1824人にもなります。810年前というとちょうど鎌倉時代の初めの頃にあたります。この時代に理論上、自分の先祖が10億人いたことになるのです。
さきほどみた人口推計では鎌倉時代は、多くとも800万人程度でした。
この矛盾の種明かしは単純で理論上の10億人の先祖は全員が別人と仮定した話ですので、先祖の中で5世代さかのぼると血の繋がる者同士が結婚するという類の話はいくらでもあり、そうするとそれなりの数字に落ち着くのです。
自分の家系は延々と古代にまでさかのぼるということ、昔の人口、これらのことを考え合わせると何の血の繋がりもないと思っている人の家系が本当に自分の家系と交わったことがないという確率は限りなく低いということです。
(http://blog.livedoor.jp/seisyo1/archives/434089.html)
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166万人くらいだとしたら、人口全体の5%。
これは家族を含めた数字なので、刀を差している
ような本当の武士を数えたら、100人に一人か2人
くらい、つまり『1%強』と考えても良いのでは無いか?。
江戸には武士が集中していただろうが、他の地域では、
あまり見かけなかったのかも知れない。
今の警察官の割合が0.2%だから、もっとずっと
多い。超高級外車に乗っている人の割合くらい?
かも知れない。
ここまでは、総括・・・・
さて、本当は江戸時代の末期にどの程度の武士
がいたのかを知りたいのだが、武士というものの
定義が各藩で違うことや、半農の者も多かったようで、
正確に把握しづらい。
明治6年(1873年)の人口構成なら『明治史要』に
残っている。全人口は3330万0672人でこれが分母と
なる。。
皇族28人
華族2829人
士族154万8568人
卒34万3881人 ここまでで全体の5.69%。
平民3110万6514人で93.41%。
僧侶21万6995人、旧神職7万6119人、その他5738人で0.90%。
人数での統計なので、家族(幼児なども含めて)の
数字であるから、士族154万8568人といっても、実際
に刀を付けていた人数は、この3分の一とか4分の一
かも知れない。
卒も武士に含めるだろうが、平民にあたる商人などよりも
貧しい生活をしていたことが多かっただろう。明治
維新後は、世襲できない者は平民に落ちたようだし、
士族と比べて(ピラミッド型の下層として)増えて
いないので、ほとんど武士にはあたらないのかも知れない。
(このあたりの層に武士の心意気があったのかどうか、
非常に興味深い。貧しくとも、心意気があったので、
お金や遊興に興味を示さずいれたように思う。)
以下は引用・・・・・・・
2.享保の改革における「五公五民」の怪
享保の改革とは、江戸幕府八代将軍吉宗が行った幕政改革である。後に行われた、寛政の改革、天保の改革と並ぶ江戸時代の三大改革の一つである。この改革では、年貢を五公五民に引き上げ、豊凶に関わらず一定の額を徴収することとし、新田開発を行って米の増産を図った。
さて、この「五公五民」というのが不思議な数字なのである。「五公五民」とは、米の生産者である百姓の取り分が5割、支配者である武士の取り分が5割という事である。武士は自分たちが食べる分以外の米を市場で売って生活していたという。すると武士が売った米は武士でも百姓でもない者が買ったことになる。さて、江戸時代日本の人口の8割強が農民である。ちなみに武士は7%程であった。「五公五民」が本当なら、米の全収穫の半分を2割に満たない者が食い、残りの半分を8割強の人間が食ったことになる。
以上のことから以下の仮説が考えられる。
(1)江戸時代の殆どの日本人の主食は米である。年貢が「五公五民」であったというのは嘘で、実際は「一公四民」くらいであった。すなわち百姓達はお上に対して収穫高を偽っていたのである。
(2)江戸時代の大多数の日本人の主食は米ではない。米を主食にしていたのは一部の特権階級だけであった。米の全収穫量の5割をこれら特権階級が主食として食っていた。それ以外の5割を百姓が副食として食っていた。その場合、百姓が主食としていた食糧を1とした場合、米の比率は0.25くらいになる。
(http://drhnakai.hp.infoseek.co.jp/sub1-58.htm)
※仮説のうち、どちらかが実態であったに違いなく、2であった可能性が高い?
┃文章
明治政府は、江戸時代の身分制度を廃止し、1869年に旧藩主と上層の公家を華族{かぞく}、藩士と旧幕臣を士族{しぞく}と卒{そつ}<注>、農民・町人を平民{へいみん}とした。1871年8月、賤民{せんみん}廃止令(身分解放令)を出して、これまでのえた・非人の称をやめ、身分・職業ともに平民と同じとした。しかし、法律の名称通り、呼称を廃止しただけで、政府は何の
保障もしなかったため、対応は不十分だった。
<注>身分や地位の低い武士の呼称。1872年1月、世襲の者は
士族、一代限りの者は平民となった。
えた・非人にも、兵役・納税・教育などの義務が加わり、皮革加工業などの伝統的な産業も資本主義の波をかぶり、生活も苦しくなった。また、職業選択の自由により、皮革加工業に参入する人も増えた。江戸時代、えた・非人が持つ土地は免税田だったが、明治時代になると、その土地にも税金がかかるようになった。えた・非人は賤民廃止反対一揆を起こした。しかし、一般民衆の受け取り方は冷たく、一揆の農民が賤民身分廃止反対を唱えて、被差別部落を襲撃する事件も起こった。
身分制度の廃止とともに、武士の特権や江戸時代は禁止されていたことが次々と認められた。1870年9月に平民に苗字を付けること、1871年8月に華族・士族・平民間の結婚、12月に官吏以外の職業選択の自由を認めた。そして、1871年に制定された戸籍法に基づいて、翌年に統一的な戸籍が作られた。壬申{じんしん}戸籍である。
┃コラム…1873年の人口構成(『明治史要』より)
皇族28人、華族2829人、士族154万8568人、卒34万3881人で全体の5.69%を占める。平民3110万6514人で93.41%を占める。僧侶21万6995人、旧神職7万6119人、その他5738人で0.90%を占める。全人口は3330万0672人である。
(https://www.melonpan.net/letter/backnumber_all.php?back_rid=523300)
自分の先祖がどれだけいたかを考えてみます。
1世代前の父母は2人、2世代前の祖父母は4人、3世代前の曽祖父母は8人、4世代前の高祖父母は16人・・・。
世代間の平均周期はおよそ27年といわれていますから30世代前の810年前には、なんと10億7374万1824人にもなります。810年前というとちょうど鎌倉時代の初めの頃にあたります。この時代に理論上、自分の先祖が10億人いたことになるのです。
さきほどみた人口推計では鎌倉時代は、多くとも800万人程度でした。
この矛盾の種明かしは単純で理論上の10億人の先祖は全員が別人と仮定した話ですので、先祖の中で5世代さかのぼると血の繋がる者同士が結婚するという類の話はいくらでもあり、そうするとそれなりの数字に落ち着くのです。
自分の家系は延々と古代にまでさかのぼるということ、昔の人口、これらのことを考え合わせると何の血の繋がりもないと思っている人の家系が本当に自分の家系と交わったことがないという確率は限りなく低いということです。
(http://blog.livedoor.jp/seisyo1/archives/434089.html)
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