2009-05-22 Fri
「何も選ばない」生き方のすすめ
今回、購入した書籍には、タイトルと少し
違って、『ある明治人の記録-会津人柴五郎の遺書』
とある。この中に、柴五郎が陸軍幼年学校で同期
だった石本新六の名前を見つけた。森鴎外と確執が
あったことでこの名前を記憶していたのだが、なぜ、
石本新六が男爵になるまで出世したのかを年表から
抽出して探ってみた。
年齢は鴎外よりは8歳も年上。柴五郎よりは6歳年上
でだが、おそらく柴五郎より陸軍士官学校を早く卒業
しているようだ。陸軍中将になったのは柴五郎よりも
8年も早い。その石本新六が亡くなったあとに、やっと
柴五郎が陸軍中将に昇進している。
その5年前、石本新六が男爵の爵位をとった年に
森鴎外が中将相当に昇進しているので、鴎外の出世
も遅いが、年長の柴五郎の出世はさらに遅かった
と言える。
一方、森鴎外は、男爵となった石本新六と本格的
な確執を迎え、精神的に厳しかっただろうと思う。
確執に勝利した石本新六はその後、陸軍大臣まで
昇進するのだから、悪い相手と喧嘩したなぁ。
石本新六
1854年2月17日生まれ
1877年7月、工兵少尉に任官
1878年12月、陸士(旧1期)を卒業
1898年3月、陸軍少将
1904年10月、陸軍中将に昇進。
1907年9月、男爵の爵位を授爵し華族となった。
1911年8月、第2次西園寺公望内閣において薩長出身者以外では初めての陸軍大臣に就任する。
2個師団増設要求をするが閣議で拒否され、在任中の1912年(明治45年)4月2日に死去
柴 五郎
1860年6月21日生まれ
1877年(明治10年)5月、陸軍士官学校入学
1879年(明治12年)12月、陸軍砲兵少尉に任官
1880年(明治13年)12月士官学校を卒業
1912年(大正元年)9月、重砲兵第1旅団長となり、翌年8月陸軍中将
1919年(大正8年)1月にイギリスより帰国。8月には陸軍大将に進級
森 鴎外
1862年2月17日生まれ
1881年(明治14年)12月16日に陸軍軍医副(中尉相当)になり、東京陸軍病院に勤務
1899年(明治32年)6月に軍医監(少将相当)に昇進
1907年(明治40年)10月、陸軍軍医総監(中将相当)に昇進し、陸軍省医務局長(人事権をもつ軍医のトップ)に就任した
1909年(明治42年)石本陸軍次官から戒飭(かいちょく)された。
1917年(大正7年)12月、帝室博物館(現東京国立博物館)総長兼図書頭(ずしょのかみ)
柴五郎さんは、1930年(昭和5年)4月に退役。
15年も後の1945年(昭和20年)に敗戦を迎え、
身辺の整理を始め9月15日に自決を図る。老齢の
為この時は果たせないのだが、同年12月その怪我
がもとで病死する。
開戦の頃から、日本軍が負けることを予想していた
ようだから、後輩の育成を間違えたと、責任感
を感じていたのかも知れない。
鴎外は、舞姫などの文学活動や、最初の妻の生家
赤松家との離婚などが出世の足を引っ張ったことも
事実だが、薩長閥や年齢が出世を左右している
ことも事実のようだ。
石本新六と同い年の小池正直が鴎外より2年先に
軍医総監になって、爵位をもらっているので、
鴎外は、ぎりぎりアウトという感じ。でも、そんな
出世に遅れた鴎外の作品が素晴らしいし、
子供たちに優しいお父さんだったことが、
後生の読者とっては魅力的だと思う。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
☆☆☆ ☆☆☆
☆☆☆ ユニフォーム姿三四郎が紹介されています ☆☆☆
☆☆☆ ☆☆☆
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
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違って、『ある明治人の記録-会津人柴五郎の遺書』
とある。この中に、柴五郎が陸軍幼年学校で同期
だった石本新六の名前を見つけた。森鴎外と確執が
あったことでこの名前を記憶していたのだが、なぜ、
石本新六が男爵になるまで出世したのかを年表から
抽出して探ってみた。
年齢は鴎外よりは8歳も年上。柴五郎よりは6歳年上
でだが、おそらく柴五郎より陸軍士官学校を早く卒業
しているようだ。陸軍中将になったのは柴五郎よりも
8年も早い。その石本新六が亡くなったあとに、やっと
柴五郎が陸軍中将に昇進している。
その5年前、石本新六が男爵の爵位をとった年に
森鴎外が中将相当に昇進しているので、鴎外の出世
も遅いが、年長の柴五郎の出世はさらに遅かった
と言える。
一方、森鴎外は、男爵となった石本新六と本格的
な確執を迎え、精神的に厳しかっただろうと思う。
確執に勝利した石本新六はその後、陸軍大臣まで
昇進するのだから、悪い相手と喧嘩したなぁ。
石本新六
1854年2月17日生まれ
1877年7月、工兵少尉に任官
1878年12月、陸士(旧1期)を卒業
1898年3月、陸軍少将
1904年10月、陸軍中将に昇進。
1907年9月、男爵の爵位を授爵し華族となった。
1911年8月、第2次西園寺公望内閣において薩長出身者以外では初めての陸軍大臣に就任する。
2個師団増設要求をするが閣議で拒否され、在任中の1912年(明治45年)4月2日に死去
柴 五郎
1860年6月21日生まれ
1877年(明治10年)5月、陸軍士官学校入学
1879年(明治12年)12月、陸軍砲兵少尉に任官
1880年(明治13年)12月士官学校を卒業
1912年(大正元年)9月、重砲兵第1旅団長となり、翌年8月陸軍中将
1919年(大正8年)1月にイギリスより帰国。8月には陸軍大将に進級
森 鴎外
1862年2月17日生まれ
1881年(明治14年)12月16日に陸軍軍医副(中尉相当)になり、東京陸軍病院に勤務
1899年(明治32年)6月に軍医監(少将相当)に昇進
1907年(明治40年)10月、陸軍軍医総監(中将相当)に昇進し、陸軍省医務局長(人事権をもつ軍医のトップ)に就任した
1909年(明治42年)石本陸軍次官から戒飭(かいちょく)された。
1917年(大正7年)12月、帝室博物館(現東京国立博物館)総長兼図書頭(ずしょのかみ)
柴五郎さんは、1930年(昭和5年)4月に退役。
15年も後の1945年(昭和20年)に敗戦を迎え、
身辺の整理を始め9月15日に自決を図る。老齢の
為この時は果たせないのだが、同年12月その怪我
がもとで病死する。
開戦の頃から、日本軍が負けることを予想していた
ようだから、後輩の育成を間違えたと、責任感
を感じていたのかも知れない。
鴎外は、舞姫などの文学活動や、最初の妻の生家
赤松家との離婚などが出世の足を引っ張ったことも
事実だが、薩長閥や年齢が出世を左右している
ことも事実のようだ。
石本新六と同い年の小池正直が鴎外より2年先に
軍医総監になって、爵位をもらっているので、
鴎外は、ぎりぎりアウトという感じ。でも、そんな
出世に遅れた鴎外の作品が素晴らしいし、
子供たちに優しいお父さんだったことが、
後生の読者とっては魅力的だと思う。
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