2009-05-23 Sat
「何も選ばない」生き方のすすめ
塚原但馬守昌義(つかはら・まさよし)
写真(最前列の一番左)
http://tozenzi.cside.com/zousenzyo.htm
鳥羽・伏見の戦いで、副将として大阪城に徳川慶喜とともに籠もるが、慶喜の大阪城脱出で主戦派とみなされて取り残された数人のうちの一人。
大坂城にいた慶喜らは、主戦派の幕臣(松平・竹中・塚原)に無断で脱出するも、暗闇の為に乗船しようとした「開陽」を見付けられずにやむなく
アメリカ船に乗船して一泊、翌日「開陽」に移る。
(旧幕府艦隊とともに「開陽」は大坂の天保山沖に停泊していた。開陽の艦長、榎本和泉守武揚は上陸中だった為、副長沢太郎左衛門に命じて8日夜に出港し、慶喜らは11日に品川沖に着いた。)
大阪城に残された塚原但馬守昌義は、おそらく翌日、大阪湾の南端(和歌山の北)の加太浦に逃げ延び(ここまでは榎本和泉守武揚と行動を共にした?)「富士山」への乗船を願い出たが、新撰組などに罵られ紀州(和歌山)へ戻って行ったとある。
「加太浦にて乗船の時、塚原但馬守も同乗を頼みしが、艦中の新選組・会・桑等の負傷者、塚原の名前を聞きて、敗軍の大将なんの面目ありて乗船するやと口々に罵りければ、再び紀州へ戻り行きたり」
この『徳川慶喜公伝』の記述が、塚原但馬守昌義の日本での最後の記録と思われる。この後、アメリカ船に逃げ延び、日本で初めての政治亡命した人物となる。数年後のサンフランシスコ・クロニクル」紙(1869年6月17日)に記事があるとのことなので、亡命したことは間違いないようだ。
「実際には陸軍奉行竹中重固が指揮を取っていた模様」とあるので、微妙な立場であったと思われる。少なくとも新撰組(下級武士にも及ばない農民あがり)に罵倒されるようないわれは無い。また、直属の上司である塚原に対して、他藩であるとは言うものの、会・桑等の負傷者も罵倒したということは、当時の敗軍の風潮として興味深い。
(薩長に目の敵とされ気の毒であるとの認識が体勢を占める会津藩の藩士についても、礼節が無くなっていたというのは、少し残念に思える。)
将軍が逃げてしまったので、明確に負けた訳ではなく、責任を負って、切腹するというのも考えつかなかっただろう。勇猛果敢なイメージの新撰組にしても、満員の船に乗って逃げまくっている。責任のある立場だったので、自分だけ非難される風潮に追い込まれていることは事実。アメリカに渡ったのは賢明な選択だったと言える。
味方からも見放されてしまったのだが、もし官軍に見つかっていたらどうなっていたか?。小栗上野介の場合が参考になるかも知れない。斬首を実行した原保太郎の口演の記録。珍しい資料なので引用する。
「丁度未明に権田の小栗の屋敷(東善寺)へ行って捕縛した訳であります。格別抵抗も何もしませぬ。そこで其日・・・・・(無言)・・・・・ですが、斬ってしまった。ちょっと申しますと、甚だ残酷なような訳でありました(斬首のあとさらし首)。丁度其頃の一体の事情が、断然の処分をせいとか、遅疑(ぐずぐず)せずにやれとか言うは必ずもう斬れと云ふことに決まって居った。その処分をしまして高崎の旅館まで帰ってきました。」
(維新資料編纂会 原 保太郎君口演速記)
「ぐずぐずせずにやれ」とは、官軍の総督有栖川宮もしくは岩倉具視の命令だったのかどうか・・・、いずれにしても「必ずもう斬れと云ふことに決まって居った」と明言されていることが事実として残っている。原保太郎は、丹波園部藩脱藩で、岩倉具視の用心棒をしていたとのこと。後に、山口県令、山口県知事、貴族院勅選議員まで出世している。剣豪とのことで、下級藩士が脱藩した上で、武力を活かした者が出世して政治をする。そういう荒い時代だったということになる。小栗上野介を斬首する際に同行していた豊永貫一郎(土佐藩・元陸援隊士) の、その後の情報は少なく、小栗のアメリカから連れ帰った高価なアラビア馬を略奪して乗り回していた・・・とあるが、そういう狼藉の記録は勝った官軍には少ないが、間違い無くあったということのようだ。それにしても、豊永貫一郎はどうなってしまったのだろう。”豊永 県令”などで検索してもヒットしない。
原保太郎の写真がレアなので下記にリンクしておく。「原保太郎君口演速記」で言葉に詰まったりしているので、後悔していたんだろうけど。完全な悪人には見えませんが・・・、想像していたとおりのお顔立ちです。

原保太郎
さらに話は逸れるが、江戸に逃げ帰った近藤勇は、数十両で錦の着物を買い込み甲陽鎮撫隊を引き連れて大名行列している。幕臣の能力が低かったので幕府が終焉したとの認識が一般化されているが、少なくとも行儀の悪さでは誰も新撰組にはかなわない。武士の真似事はできても、所詮は農民あがりと言われてもしかたないだろう。
(参考 http://www.asahi-net.or.jp/~HC2T-TNK/sinsen/kantou2.html)
塚原但馬守昌義の祖先は武田の家臣団であり、武田家滅亡により徳川家に仕え、秀忠の部下として大阪の陣に参戦。その後、今の八王子にあった留所村を知行地として旗本となった。別系のご子孫は神戸で繁栄されているようだ。
武田信玄家臣団編成表 御目付衆 塚原六右衛門
http://s04.megalodon.jp/2009-0523-2021-51/shingen3.hp.infoseek.co.jp/shingen/kashindan.html
宝印寺
http://s04.megalodon.jp/2009-0523-1943-31/1st.geocities.jp/tekedadesu/hoinzi.html
留所村 とどころむら
内容: 江戸期から明治前期にかけての村の名.1889年(明治22)加住村の大字となる.多摩郡小宮領のうち.富所とも書く.南北朝期にも留所の地名が見える.鎮守は勝手明神山王権現合社.いまの加住町1丁目の地域.江戸時代初期の村高149石7斗8升,幕末153石6斗2升,反別18町3反4畝,田は2町4反3畝,畑15町9反.幕初から旗本塚原家に知行地として与えられた.幕末の塚原寛十郎は高700石西丸書院番を勤めた.
http://www.cs.takushoku-u.ac.jp/is/hachioji/50.php?NAME=%CE%B1%BD%EA%C2%BC
幕末の幕臣。安政3(1856)年外国貿易取調掛就任以後,外交面で頭角を現し,同6年外国奉行支配調役。万延1(1860)年日米修好通商条約批准書交換のため新見正興を正使とする遣米使節に随行,海外知識を広め帰国。文久2(1862)年目付,講武所頭取,大砲組与組を経て元治1(1864)年目付に再任。この間,文久3年池田長発遣欧使節の目付に,また慶応2(1866)年英国駐箚公使に任命されたがいずれも赴かず。慶応2年大目付就任以降,外国奉行,勘定奉行兼任,外国総奉行,若年寄並などを歴任。一方慶応3年兵庫開港に備えて商社を設立し富国強兵化に努めたが,長州処分や鳥羽・伏見の戦では強行論者であったため,明治1(1868)年徳川慶喜により免職・登営禁止を命じられる。<参考文献>『維新史』4,5巻
(岩壁義光)
http://kotobank.jp/word/%E5%A1%9A%E5%8E%9F%E6%98%8C%E7%BE%A9
万延元年、初の遣米使節団に小栗上野介らとともに参加。米国より特に派遣せられた軍艦ポーハタンに乗り込んで出発。勝海舟やジョン万次郎を含む咸臨丸の一行はそれに随行する形。当時の役職は、外国奉行支配両番格調役 塚原重五郎昌(36歳) とある。
(『幕末遣外使節物語』 尾佐竹 猛)
鳥羽・伏見の戦い
老中格・大河内正質(おおこうちまさただ)を総督とし、若年寄並・塚原昌義を副
総督とする旧幕府軍1万5000が大坂から進発した。
http://www7a.biglobe.ne.jp/~soutokufu/boshinwar/tobafusimi/main.html
サンフランシスコで清国相手の貿易商(創作小説?)
http://s04.megalodon.jp/2009-0523-2018-25/www.geocities.co.jp/Bookend-Akiko/5110/newpage3.htm
「アメリカ亡命第一号・旧幕府外国総奉行 塚原但馬守昌義」とあります。前列左端の人物です。
この写真は、1858年に調印した日米修好通商条約の批准書交換のために、江戸幕府が米国に派遣した使節団が、ワシントンの米海軍造船所を訪問した時の記念写真です。
http://s04.megalodon.jp/2009-0523-2024-58/www.jomm.jp/volunteer/2007tushin.html
767 明治元年正月初旬大阪開城前後の情況に関する浅野氏祐の談話
さて御親書は何事ならんと拝見し奉りしに、すなわち御東帰に付き、
参政以上の進退を直命し給えるものにて、御文面は左の如くありしかと覚えたり。
供 酒井雅楽頭 供 板倉伊賀守
残 松平豊前守 供 永井主水正
随意 浅野美作守 供 平山図書頭
残 竹中丹後守 残 塚原但馬守
http://asiabaku9.exblog.jp/7793556/
東都アロエ様のサイト(『徳川慶喜公伝 史料編』3巻 287P~)
さて紀州へ下りてみれば、端なくも富士山艦は同所加太浦へ寄せ来れり、
榎本の招きもあれば、これに同乗して横浜へ入港したり。
直ちに上陸して神奈川奉行に打ち合わせ、多くの船舶を雇い上げ、
紀州に残れる兵隊負傷者など呼迎うべき手筈をなし、やがて江戸へ帰りたり。
加太浦にて乗船の時、塚原但馬守も同乗を頼みしが、
艦中の新徴組(※もちろん新選組のまつがいです)・会・桑等の負傷者、
塚原の名前を聞きて、敗軍の大将なんの面目ありて乗船するやと口々に罵りければ、
再び紀州へ戻り行きたり。
小野内膳正も榎本に用談ありて来りしが、
艦長柴誠一等に奸物奸物と罵倒せられ、是も端舟に乗りて何地へか避けたり。
http://asiabaku9.exblog.jp/7807110/
東都アロエ様のサイト(『徳川慶喜公伝 史料編』3巻 287P~)
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塚原但馬守昌義(つかはら・まさよし)
写真(最前列の一番左)
http://tozenzi.cside.com/zousenzyo.htm
鳥羽・伏見の戦いで、副将として大阪城に徳川慶喜とともに籠もるが、慶喜の大阪城脱出で主戦派とみなされて取り残された数人のうちの一人。
大坂城にいた慶喜らは、主戦派の幕臣(松平・竹中・塚原)に無断で脱出するも、暗闇の為に乗船しようとした「開陽」を見付けられずにやむなく
アメリカ船に乗船して一泊、翌日「開陽」に移る。
(旧幕府艦隊とともに「開陽」は大坂の天保山沖に停泊していた。開陽の艦長、榎本和泉守武揚は上陸中だった為、副長沢太郎左衛門に命じて8日夜に出港し、慶喜らは11日に品川沖に着いた。)
大阪城に残された塚原但馬守昌義は、おそらく翌日、大阪湾の南端(和歌山の北)の加太浦に逃げ延び(ここまでは榎本和泉守武揚と行動を共にした?)「富士山」への乗船を願い出たが、新撰組などに罵られ紀州(和歌山)へ戻って行ったとある。
「加太浦にて乗船の時、塚原但馬守も同乗を頼みしが、艦中の新選組・会・桑等の負傷者、塚原の名前を聞きて、敗軍の大将なんの面目ありて乗船するやと口々に罵りければ、再び紀州へ戻り行きたり」
この『徳川慶喜公伝』の記述が、塚原但馬守昌義の日本での最後の記録と思われる。この後、アメリカ船に逃げ延び、日本で初めての政治亡命した人物となる。数年後のサンフランシスコ・クロニクル」紙(1869年6月17日)に記事があるとのことなので、亡命したことは間違いないようだ。
「実際には陸軍奉行竹中重固が指揮を取っていた模様」とあるので、微妙な立場であったと思われる。少なくとも新撰組(下級武士にも及ばない農民あがり)に罵倒されるようないわれは無い。また、直属の上司である塚原に対して、他藩であるとは言うものの、会・桑等の負傷者も罵倒したということは、当時の敗軍の風潮として興味深い。
(薩長に目の敵とされ気の毒であるとの認識が体勢を占める会津藩の藩士についても、礼節が無くなっていたというのは、少し残念に思える。)
将軍が逃げてしまったので、明確に負けた訳ではなく、責任を負って、切腹するというのも考えつかなかっただろう。勇猛果敢なイメージの新撰組にしても、満員の船に乗って逃げまくっている。責任のある立場だったので、自分だけ非難される風潮に追い込まれていることは事実。アメリカに渡ったのは賢明な選択だったと言える。
味方からも見放されてしまったのだが、もし官軍に見つかっていたらどうなっていたか?。小栗上野介の場合が参考になるかも知れない。斬首を実行した原保太郎の口演の記録。珍しい資料なので引用する。
「丁度未明に権田の小栗の屋敷(東善寺)へ行って捕縛した訳であります。格別抵抗も何もしませぬ。そこで其日・・・・・(無言)・・・・・ですが、斬ってしまった。ちょっと申しますと、甚だ残酷なような訳でありました(斬首のあとさらし首)。丁度其頃の一体の事情が、断然の処分をせいとか、遅疑(ぐずぐず)せずにやれとか言うは必ずもう斬れと云ふことに決まって居った。その処分をしまして高崎の旅館まで帰ってきました。」
(維新資料編纂会 原 保太郎君口演速記)
「ぐずぐずせずにやれ」とは、官軍の総督有栖川宮もしくは岩倉具視の命令だったのかどうか・・・、いずれにしても「必ずもう斬れと云ふことに決まって居った」と明言されていることが事実として残っている。原保太郎は、丹波園部藩脱藩で、岩倉具視の用心棒をしていたとのこと。後に、山口県令、山口県知事、貴族院勅選議員まで出世している。剣豪とのことで、下級藩士が脱藩した上で、武力を活かした者が出世して政治をする。そういう荒い時代だったということになる。小栗上野介を斬首する際に同行していた豊永貫一郎(土佐藩・元陸援隊士) の、その後の情報は少なく、小栗のアメリカから連れ帰った高価なアラビア馬を略奪して乗り回していた・・・とあるが、そういう狼藉の記録は勝った官軍には少ないが、間違い無くあったということのようだ。それにしても、豊永貫一郎はどうなってしまったのだろう。”豊永 県令”などで検索してもヒットしない。
原保太郎の写真がレアなので下記にリンクしておく。「原保太郎君口演速記」で言葉に詰まったりしているので、後悔していたんだろうけど。完全な悪人には見えませんが・・・、想像していたとおりのお顔立ちです。

原保太郎
さらに話は逸れるが、江戸に逃げ帰った近藤勇は、数十両で錦の着物を買い込み甲陽鎮撫隊を引き連れて大名行列している。幕臣の能力が低かったので幕府が終焉したとの認識が一般化されているが、少なくとも行儀の悪さでは誰も新撰組にはかなわない。武士の真似事はできても、所詮は農民あがりと言われてもしかたないだろう。
(参考 http://www.asahi-net.or.jp/~HC2T-TNK/sinsen/kantou2.html)
塚原但馬守昌義の祖先は武田の家臣団であり、武田家滅亡により徳川家に仕え、秀忠の部下として大阪の陣に参戦。その後、今の八王子にあった留所村を知行地として旗本となった。別系のご子孫は神戸で繁栄されているようだ。
武田信玄家臣団編成表 御目付衆 塚原六右衛門
http://s04.megalodon.jp/2009-0523-2021-51/shingen3.hp.infoseek.co.jp/shingen/kashindan.html
宝印寺
http://s04.megalodon.jp/2009-0523-1943-31/1st.geocities.jp/tekedadesu/hoinzi.html
留所村 とどころむら
内容: 江戸期から明治前期にかけての村の名.1889年(明治22)加住村の大字となる.多摩郡小宮領のうち.富所とも書く.南北朝期にも留所の地名が見える.鎮守は勝手明神山王権現合社.いまの加住町1丁目の地域.江戸時代初期の村高149石7斗8升,幕末153石6斗2升,反別18町3反4畝,田は2町4反3畝,畑15町9反.幕初から旗本塚原家に知行地として与えられた.幕末の塚原寛十郎は高700石西丸書院番を勤めた.
http://www.cs.takushoku-u.ac.jp/is/hachioji/50.php?NAME=%CE%B1%BD%EA%C2%BC
幕末の幕臣。安政3(1856)年外国貿易取調掛就任以後,外交面で頭角を現し,同6年外国奉行支配調役。万延1(1860)年日米修好通商条約批准書交換のため新見正興を正使とする遣米使節に随行,海外知識を広め帰国。文久2(1862)年目付,講武所頭取,大砲組与組を経て元治1(1864)年目付に再任。この間,文久3年池田長発遣欧使節の目付に,また慶応2(1866)年英国駐箚公使に任命されたがいずれも赴かず。慶応2年大目付就任以降,外国奉行,勘定奉行兼任,外国総奉行,若年寄並などを歴任。一方慶応3年兵庫開港に備えて商社を設立し富国強兵化に努めたが,長州処分や鳥羽・伏見の戦では強行論者であったため,明治1(1868)年徳川慶喜により免職・登営禁止を命じられる。<参考文献>『維新史』4,5巻
(岩壁義光)
http://kotobank.jp/word/%E5%A1%9A%E5%8E%9F%E6%98%8C%E7%BE%A9
万延元年、初の遣米使節団に小栗上野介らとともに参加。米国より特に派遣せられた軍艦ポーハタンに乗り込んで出発。勝海舟やジョン万次郎を含む咸臨丸の一行はそれに随行する形。当時の役職は、外国奉行支配両番格調役 塚原重五郎昌(36歳) とある。
(『幕末遣外使節物語』 尾佐竹 猛)
鳥羽・伏見の戦い
老中格・大河内正質(おおこうちまさただ)を総督とし、若年寄並・塚原昌義を副
総督とする旧幕府軍1万5000が大坂から進発した。
http://www7a.biglobe.ne.jp/~soutokufu/boshinwar/tobafusimi/main.html
サンフランシスコで清国相手の貿易商(創作小説?)
http://s04.megalodon.jp/2009-0523-2018-25/www.geocities.co.jp/Bookend-Akiko/5110/newpage3.htm
「アメリカ亡命第一号・旧幕府外国総奉行 塚原但馬守昌義」とあります。前列左端の人物です。
この写真は、1858年に調印した日米修好通商条約の批准書交換のために、江戸幕府が米国に派遣した使節団が、ワシントンの米海軍造船所を訪問した時の記念写真です。
http://s04.megalodon.jp/2009-0523-2024-58/www.jomm.jp/volunteer/2007tushin.html
767 明治元年正月初旬大阪開城前後の情況に関する浅野氏祐の談話
さて御親書は何事ならんと拝見し奉りしに、すなわち御東帰に付き、
参政以上の進退を直命し給えるものにて、御文面は左の如くありしかと覚えたり。
供 酒井雅楽頭 供 板倉伊賀守
残 松平豊前守 供 永井主水正
随意 浅野美作守 供 平山図書頭
残 竹中丹後守 残 塚原但馬守
http://asiabaku9.exblog.jp/7793556/
東都アロエ様のサイト(『徳川慶喜公伝 史料編』3巻 287P~)
さて紀州へ下りてみれば、端なくも富士山艦は同所加太浦へ寄せ来れり、
榎本の招きもあれば、これに同乗して横浜へ入港したり。
直ちに上陸して神奈川奉行に打ち合わせ、多くの船舶を雇い上げ、
紀州に残れる兵隊負傷者など呼迎うべき手筈をなし、やがて江戸へ帰りたり。
加太浦にて乗船の時、塚原但馬守も同乗を頼みしが、
艦中の新徴組(※もちろん新選組のまつがいです)・会・桑等の負傷者、
塚原の名前を聞きて、敗軍の大将なんの面目ありて乗船するやと口々に罵りければ、
再び紀州へ戻り行きたり。
小野内膳正も榎本に用談ありて来りしが、
艦長柴誠一等に奸物奸物と罵倒せられ、是も端舟に乗りて何地へか避けたり。
http://asiabaku9.exblog.jp/7807110/
東都アロエ様のサイト(『徳川慶喜公伝 史料編』3巻 287P~)
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