2007-10-13 Sat
ユニフォーム三四郎が学生時代に少し研究した立原 道造。
あまりにも甘美な詩人なので、だんだん気恥ずかしくなって
きたのを覚えている。それで、卒論は森鷗外。一般の方
には硬派に思えるかもしれないが、舞姫など初期の作品
はやはり甘美・・・。
久しぶりに立原 道造を検索してみたら、水戸部アサイさん
のほうが気になってきた。そういえば、「立原道造・愛の手紙」
という書籍を購入して、何度も読んだことを思い出した。立原の
亡くなったあと、忽然と姿を消した美しい女性水戸部アサイさん
は、その後どなたかと結婚されて幸せに暮らしていることは
何かで読んだのだが。もう少しだけ詳しく記述しているサイト
を発見した。動的ページで消えてしまいそうだな・・・ちょっと
長めだけど、引用させてもらっちゃおう。
■以下、引用
2.人生で感銘を受けた本 野村證券(株)顧問 竹林靖雄
これだけ長いこと生きてくると、感銘を受けた本を一冊に絞るのは不可能ですが、今だに昔と変わりない感動を与えてくれる本として、取り上げてみました。
○「立原道造全集(全五巻)」角川書店 1967年
多くの人達が、青春の多感な時代に、自ら詩人となることを夢想したり、美しい詩に魂を揺さぶられる経験をしたことでしょう。私のような団塊の世代に属する者にとって、今ほどのメディアの喧騒に煽られる以前の時代にあっては、「詩」も「死」をも、もっと身近に感じていたような気がします。おそらく、そんな仲間達の間で一番人気があったのは、暗く繊細な輝きを放つ中原中也か、もう少し成熟した憂国の詩人三好達治だったのではないかと思いますが、私は、立原道造の、透明感のある孤独と悲哀を内に秘めた限りない優しさに強く魅かれました。断片的に彼の詩を味わっていただけの頃に、殆ど全ての詩と、書簡とノートなどを収録した「立原道造全集」を古本屋で見つけた喜びは今でも鮮明に覚えています。
立原道造は、1939年(昭和14年)に24歳で夭折した叙情詩人です。一高・帝大(現東京大学)工学部という道を歩んで、銀座石本建築事務所に勤め、日本橋に住んでいたようです。「四季」の同人でもあるこの長身痩躯の青年は、蒲柳の質ではありましたが、下町風で人懐こい、陽気な性格であったようです。 そういえば、彼のノートの中に、「僕は背が高い。そのせいか夕暮れが早い」という悪戯っ子のような言葉がありました。早熟で繊細な詩人の中にある茶目っ気と優しい眼差しを感じて思わず頬が緩む気がしたものです。
多感な詩人は、24年間という短い生涯のなかで、彼の詩に影響を与えたと思われる何人かの女性に出逢っているのですが、最後の出逢いが、水戸部アサイという眼のすずやかな美しい女性(19歳)でした。暖かい情感のいきわたった表情を写真で見た時に、立原道造はこの人に救われたのだと、私はすぐに納得してしまいました。水戸部アサイは、立原の最後を看取ったあと、それまで交流のあった全ての人達の前から忽然と姿を消し、二度と姿を現わさなかったようです。婚約者でありながら、後に「今の方々には信じられないかもしれませんが、私達は清い間柄でした。」という言葉を残して。そして、彼女は、立原の旅の最後の地となった長崎で、クリスチャンとして静かに平和に暮らしたという噂を耳にするに及んで、立原道造の詩の持つ果てない純粋さや夢に溢れた情感が、人の心に与え続けるインパクトを思わずにはいられません。その頃の詩のひとつに次のようなものがあります。現代の青春模様からは程遠いのですが、立原道造と水戸部アサイとの切実な、青春そのものの言葉であるような気がします。
「爽やかな五月に」
月の光のこぼれるやうに おまへの頬に
溢れた 涙の大きな粒が すぢを曳いたとて
私は どうして それをささへよう!
おまへは 私を だまらせた・・・
(略)
だが たった一度も 言ひはしなかった
《私は おまへを 愛していると
《おまへは 私を 愛しているか と
はじめての薔薇が ひらくやうに
泣きやめた おまへの頬に 笑ひがうかんだとて
私の心をどこにおかう?
親交のあった堀辰雄と共に、立原道造は、軽井沢をこよなく愛しました。そして、信濃追分を散策しながら、「萱草(わすれぐさ)に寄す」「暁と夕の詩」等の作品を残したのです。いつの間にか、私にとっても追分宿の、浅間神社から堀辰雄の書庫、油屋あたりに続く道は、特に人通りの少なくなる晩秋にふと訪ねたくなる場所になっています。その地を訪ねる時に口ずさむのにぴったりの詩が、次の代表的な作品です。
「のちのおもひに」
夢はいつもかへって行った 山の麓のさびしい村に
水引草に風が立ち
草ひばりのうたひやまない
しづまりかへった午さがりの林道を
(略)
夢は そのさきには もうゆかない
なにもかも 忘れ果てようとおもひ
忘れつくしたことさへ 忘れてしまったときには
夢は 真冬の追憶のうちに凍るであらう
そして それは戸をあけて 寂寥のなかに
星くづにてらされた道を過ぎさるであらう
立原道造の見た原風景は、もはや心の内にしか再現できないものかもしれないのですが、私には忘れがたい浪漫と力を与え続けてくれています。それは、彼が死と競いあうように、その命よりも、ただひたすら光を求める夢に人生を賭けたかに思われるからかもしれません。
竹林靖雄(たけばやし やすお)略歴
1947年東京生まれ。1971年早稲田大学第一政経学部卒業。同年、野村證券(株)入社。国際金融部、ロンドン現法、ニューヨーク現法等の勤務を経て、1991年野村アセットマネジメント(株)に転籍。取締役海外本部長、常務取締役企画・人事担当等を経て、2000年(株)野村アセット投信研究所代表取締役社長に就任。2004年野村證券(株)顧問に就任し、現在に至る。証券業協会NPOエイプロシス(「投資と学習を普及・推進する会」)理事、大阪経済大学大学院客員教授なども務める。
[編集後記]
竹林靖雄氏とは、1971年4月に野村證券の講堂で一緒に新人写真をとりました。その後、今年までお会いすることはなかったのですが、同期の一人に紹介されて書評をお願いし、快諾いただきました。
米国人のプレゼンテーション技術はいつもすごいと思います。練習量の差があると思います。ブッシュもケリーも猛練習をしたと思います。自分自身いまだに、リハーサルについ手を抜いて失敗し、反省することばかりです。
私も学生時代、立原道造が大好きでした。「夢見たものは ひとつの幸福 ねがつたものは ひとつの愛」今でも、口ずさむことができます。青春の思い出です。
(株式会社クリエイジ 代表取締役社長 西脇 隆)
竹林靖雄氏 http://www.creage.ne.jp/app/UsrInfo?p=mailmag19.jsp
■以下も引用
立原が死んだとき、先に挙げた錚々たる友人知人が彼の死を悼み盛大な追悼会が開かれた。19歳の少女は皆の前からひっそりと姿を消した。手紙のことも、皆の記憶から消えていた。
評論家の小川和佑はその“少女”水戸部アサイを30年後に探し出し、その手紙を預かった。そうして書かれたのが『立原道造・忘れがたみ』(文京書房、1975年)である。
小川はアサイが長崎県に住んでいると書いて、消息の詳細を避けている。栃木出身の彼女が故郷から遠く遥かな長崎の地に住んでいる…。
長崎は立原が倒れる直前に旅した場所。明るい南国の光射すあこがれの地であった。実際に立原が目にした長崎はそれとは程遠く、冬ざれたわびしい長崎であった。その落胆から喀血して倒れる。それは死に至るのだが、長崎に抱いた立原のあこがれはアサイにも伝わっていたであろう。その思いをアサイが引き継いでも不思議でない。まさに「のちのおもひに」だ。
――30年経ても、水戸部アサイは立原からもらった手紙15通を一つも汚さず所持していたと小川は書いている。皆の前から姿を消した彼女は、ずっと独身であったのではないかと推測される。わずか1年足らずの愛を刻んだまま水戸部アサイは生きてきたのではないか。
とすれば、私の中に閃くものがある。彼女は信仰に生きたのではないか。長崎のいずれかの修道会に入って、立原の短い生涯をずっと慰めてきたのではないだろう、か。
(http://mizumakura.exblog.jp/3869390/)
■追記 水戸部アサイさんの甥子さんが以下の写真館で専務をされていたようだ
茨城県古河市【ミトベ写真館】
http://www.mitobe.net/studio.html

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あまりにも甘美な詩人なので、だんだん気恥ずかしくなって
きたのを覚えている。それで、卒論は森鷗外。一般の方
には硬派に思えるかもしれないが、舞姫など初期の作品
はやはり甘美・・・。
久しぶりに立原 道造を検索してみたら、水戸部アサイさん
のほうが気になってきた。そういえば、「立原道造・愛の手紙」
という書籍を購入して、何度も読んだことを思い出した。立原の
亡くなったあと、忽然と姿を消した美しい女性水戸部アサイさん
は、その後どなたかと結婚されて幸せに暮らしていることは
何かで読んだのだが。もう少しだけ詳しく記述しているサイト
を発見した。動的ページで消えてしまいそうだな・・・ちょっと
長めだけど、引用させてもらっちゃおう。
■以下、引用
2.人生で感銘を受けた本 野村證券(株)顧問 竹林靖雄
これだけ長いこと生きてくると、感銘を受けた本を一冊に絞るのは不可能ですが、今だに昔と変わりない感動を与えてくれる本として、取り上げてみました。
○「立原道造全集(全五巻)」角川書店 1967年
多くの人達が、青春の多感な時代に、自ら詩人となることを夢想したり、美しい詩に魂を揺さぶられる経験をしたことでしょう。私のような団塊の世代に属する者にとって、今ほどのメディアの喧騒に煽られる以前の時代にあっては、「詩」も「死」をも、もっと身近に感じていたような気がします。おそらく、そんな仲間達の間で一番人気があったのは、暗く繊細な輝きを放つ中原中也か、もう少し成熟した憂国の詩人三好達治だったのではないかと思いますが、私は、立原道造の、透明感のある孤独と悲哀を内に秘めた限りない優しさに強く魅かれました。断片的に彼の詩を味わっていただけの頃に、殆ど全ての詩と、書簡とノートなどを収録した「立原道造全集」を古本屋で見つけた喜びは今でも鮮明に覚えています。
立原道造は、1939年(昭和14年)に24歳で夭折した叙情詩人です。一高・帝大(現東京大学)工学部という道を歩んで、銀座石本建築事務所に勤め、日本橋に住んでいたようです。「四季」の同人でもあるこの長身痩躯の青年は、蒲柳の質ではありましたが、下町風で人懐こい、陽気な性格であったようです。 そういえば、彼のノートの中に、「僕は背が高い。そのせいか夕暮れが早い」という悪戯っ子のような言葉がありました。早熟で繊細な詩人の中にある茶目っ気と優しい眼差しを感じて思わず頬が緩む気がしたものです。
多感な詩人は、24年間という短い生涯のなかで、彼の詩に影響を与えたと思われる何人かの女性に出逢っているのですが、最後の出逢いが、水戸部アサイという眼のすずやかな美しい女性(19歳)でした。暖かい情感のいきわたった表情を写真で見た時に、立原道造はこの人に救われたのだと、私はすぐに納得してしまいました。水戸部アサイは、立原の最後を看取ったあと、それまで交流のあった全ての人達の前から忽然と姿を消し、二度と姿を現わさなかったようです。婚約者でありながら、後に「今の方々には信じられないかもしれませんが、私達は清い間柄でした。」という言葉を残して。そして、彼女は、立原の旅の最後の地となった長崎で、クリスチャンとして静かに平和に暮らしたという噂を耳にするに及んで、立原道造の詩の持つ果てない純粋さや夢に溢れた情感が、人の心に与え続けるインパクトを思わずにはいられません。その頃の詩のひとつに次のようなものがあります。現代の青春模様からは程遠いのですが、立原道造と水戸部アサイとの切実な、青春そのものの言葉であるような気がします。
「爽やかな五月に」
月の光のこぼれるやうに おまへの頬に
溢れた 涙の大きな粒が すぢを曳いたとて
私は どうして それをささへよう!
おまへは 私を だまらせた・・・
(略)
だが たった一度も 言ひはしなかった
《私は おまへを 愛していると
《おまへは 私を 愛しているか と
はじめての薔薇が ひらくやうに
泣きやめた おまへの頬に 笑ひがうかんだとて
私の心をどこにおかう?
親交のあった堀辰雄と共に、立原道造は、軽井沢をこよなく愛しました。そして、信濃追分を散策しながら、「萱草(わすれぐさ)に寄す」「暁と夕の詩」等の作品を残したのです。いつの間にか、私にとっても追分宿の、浅間神社から堀辰雄の書庫、油屋あたりに続く道は、特に人通りの少なくなる晩秋にふと訪ねたくなる場所になっています。その地を訪ねる時に口ずさむのにぴったりの詩が、次の代表的な作品です。
「のちのおもひに」
夢はいつもかへって行った 山の麓のさびしい村に
水引草に風が立ち
草ひばりのうたひやまない
しづまりかへった午さがりの林道を
(略)
夢は そのさきには もうゆかない
なにもかも 忘れ果てようとおもひ
忘れつくしたことさへ 忘れてしまったときには
夢は 真冬の追憶のうちに凍るであらう
そして それは戸をあけて 寂寥のなかに
星くづにてらされた道を過ぎさるであらう
立原道造の見た原風景は、もはや心の内にしか再現できないものかもしれないのですが、私には忘れがたい浪漫と力を与え続けてくれています。それは、彼が死と競いあうように、その命よりも、ただひたすら光を求める夢に人生を賭けたかに思われるからかもしれません。
竹林靖雄(たけばやし やすお)略歴
1947年東京生まれ。1971年早稲田大学第一政経学部卒業。同年、野村證券(株)入社。国際金融部、ロンドン現法、ニューヨーク現法等の勤務を経て、1991年野村アセットマネジメント(株)に転籍。取締役海外本部長、常務取締役企画・人事担当等を経て、2000年(株)野村アセット投信研究所代表取締役社長に就任。2004年野村證券(株)顧問に就任し、現在に至る。証券業協会NPOエイプロシス(「投資と学習を普及・推進する会」)理事、大阪経済大学大学院客員教授なども務める。
[編集後記]
竹林靖雄氏とは、1971年4月に野村證券の講堂で一緒に新人写真をとりました。その後、今年までお会いすることはなかったのですが、同期の一人に紹介されて書評をお願いし、快諾いただきました。
米国人のプレゼンテーション技術はいつもすごいと思います。練習量の差があると思います。ブッシュもケリーも猛練習をしたと思います。自分自身いまだに、リハーサルについ手を抜いて失敗し、反省することばかりです。
私も学生時代、立原道造が大好きでした。「夢見たものは ひとつの幸福 ねがつたものは ひとつの愛」今でも、口ずさむことができます。青春の思い出です。
(株式会社クリエイジ 代表取締役社長 西脇 隆)
竹林靖雄氏 http://www.creage.ne.jp/app/UsrInfo?p=mailmag19.jsp
■以下も引用
立原が死んだとき、先に挙げた錚々たる友人知人が彼の死を悼み盛大な追悼会が開かれた。19歳の少女は皆の前からひっそりと姿を消した。手紙のことも、皆の記憶から消えていた。
評論家の小川和佑はその“少女”水戸部アサイを30年後に探し出し、その手紙を預かった。そうして書かれたのが『立原道造・忘れがたみ』(文京書房、1975年)である。
小川はアサイが長崎県に住んでいると書いて、消息の詳細を避けている。栃木出身の彼女が故郷から遠く遥かな長崎の地に住んでいる…。
長崎は立原が倒れる直前に旅した場所。明るい南国の光射すあこがれの地であった。実際に立原が目にした長崎はそれとは程遠く、冬ざれたわびしい長崎であった。その落胆から喀血して倒れる。それは死に至るのだが、長崎に抱いた立原のあこがれはアサイにも伝わっていたであろう。その思いをアサイが引き継いでも不思議でない。まさに「のちのおもひに」だ。
――30年経ても、水戸部アサイは立原からもらった手紙15通を一つも汚さず所持していたと小川は書いている。皆の前から姿を消した彼女は、ずっと独身であったのではないかと推測される。わずか1年足らずの愛を刻んだまま水戸部アサイは生きてきたのではないか。
とすれば、私の中に閃くものがある。彼女は信仰に生きたのではないか。長崎のいずれかの修道会に入って、立原の短い生涯をずっと慰めてきたのではないだろう、か。
(http://mizumakura.exblog.jp/3869390/)
■追記 水戸部アサイさんの甥子さんが以下の写真館で専務をされていたようだ
茨城県古河市【ミトベ写真館】
http://www.mitobe.net/studio.html

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| ユニフォーム姿三四郎 | 17:26 | comments (x) | trackback (x) | ユニフォーム姿三四郎の幸せ::読書 |