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徳川慶喜と徳川家達の、どちらが上座?
ユニフォーム三四郎は徳川慶喜(生誕1837年10月28日)
さんが好きだ。幕末の混乱期、将軍の席を断り続け、
大政奉還してしまったり、大阪から舟で逃げてしまった
慶喜さんはかなり俯瞰で物事を見ているように感じる。

明治維新となってからは、結果的に随分と損な
役回りになったし、親族からも突き上げがあった
ようだ。この上座のエピソードもそれを現して
いて、興味深い。

明治に入ってからの話で、どこかで読んだ
のだけど、忘れてしまったので、「慶喜 上座」
でgoogleしてみたが、この話題を取り上げている
ページが意外と少ない。

  「なんだ。自分の座る場所がないぞ。」

敗軍の将が、恥を忍んで生きながらえているのに
本家を継いだとは言え、元の部下であったはず
の徳川家達(生誕1863年8月24日)さんの言動には、
イサギヨサが無いな・・・。

どう考えても、慶喜さんを上座にしたほうが
お互いに気持ちいいでしょう。とりまきの婦人など
の言動ならまだしも・・。家達さん本人が言ったと
歴史に残ってしまった。

第二次世界大戦が終わって、帰還兵などは「まだ
逆転できるのに・・」とか、「上がダメだ」とか
強気なことばかり言って、庶民に対しては、
あいかわらず兵隊さん扱いされないと怒っていた
らしい。汽車に乗っても女子供より優先して席に
座り、車内で大声で話していたらしいから・・・。
(野坂昭如さんが詳しい)



(以下は引用)
やまとこころ 徳川家達公爵の話
http://blogs.dion.ne.jp/amabegoro/archives/392276.html

 成人後、家達(いえたつ)となり、公爵、貴族院議長を務め、大正3年には総理大臣の命が下りましたが固辞したということです。
 家達公はよく、
「徳川家をつぶしたのは、慶喜公。徳川家を再興したのは自分。」といっていたそうです。
 徳川家の親族の集まりで家達公が遅れてくると、上座に慶喜が座っていた。
 家達公が
「なんだ。自分の座る場所がないぞ。」というと、慶喜さんが遠慮して座を譲ろうとした。
 家達公が「いやいや。遠慮せずに・・。」と2人上座に座ったという話があります。
 実は、家達公が幼い頃に13代家定夫人・天璋院篤子(薩摩・島津斉彬養女)から
「慶喜の血を引くものを徳川宗家の当主にしてはならない。また、慶喜の縁者と婚姻関係を結んではならない。
そして、会津松平家の面倒は必ず見なさい。
これを徳川家の家訓とせよ。」と遺言されていたという。
 
 亡くなった高松宮妃喜久子さまが著書に書いていますが、家達公が亡くなった時、お悔やみに行き、家達公の遺体と面会します。
「すごい怖い顔をしてたのよ。やっぱり、(自分が)慶喜の孫だから怖い顔をしたのね。」(ご著書より、要約)






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