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19日後に補正予算が通らなければ弾切れ?
    「何も選ばない」生き方のすすめ

為替介入どこまで継続=欧米反発、「協調」は困難

時事通信 9月16日(木)20時6分配信
 6年半ぶりに実施した大規模な為替介入により、政府・日銀は円相場の急騰をひとまず抑え込むことに成功した。だが、自国通貨安を容認する欧米の理解は得がたく、より効果が高いとされる「協調介入」の実現は難しい情勢。当面は日本単独の介入をどこまで続け、持ちこたえることができるかが焦点となる。
 今回、政府・日銀は円相場が1ドル=82円台に突入したタイミングで介入に踏み切り、85円台まで水準を押し下げた。ある政府筋は「みんな80円を突破すれば介入すると見ていたはずなので、意外性を狙った」と述べ、80円を突破する直前の82円台を狙って介入したと打ち明ける。
 経済産業省の調査では、1ドル=85円程度の水準が続けば生産・開発拠点を海外に移すと答えた企業が39%(複数回答)に上り、この水準を超える円高が定着すれば企業の反発は避けられない。再び円高が加速すれば、85円程度への押し下げを意識して介入に動く場面もありそうだ。
 ただ、使える「実弾」には限りがある。円売り介入に使う資金は政府が「政府短期証券(為券)」と呼ぶ債券を出して調達する仕組みで、2010年度の発行限度額は145兆円。このうち発行済みの借り換え分104兆円と15日の介入相当額2兆円を除くと、残る39兆円が今年度の介入可能額となる計算だ。
 「資金が不足することはない」(池田元久財務副大臣)とは言うが、1日2兆円の介入を繰り返すなら、これから今年度中に実施できるのはあと19日程度でしかない。足りなくなれば外国為替資金特別会計の補正予算を組み、参院で与党が過半数割れしている「ねじれ国会」で予算案を成立させる必要がある。


日本の単独介入、人民元切り上げへの欧米の対応困難に
ロイター
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 9月15日、日本は為替市場で単独での円押し下げ介入に踏み切ったが、これにより中国の人民元切り上げに向けた欧米の取り組みは難しくなった。写真は人民元紙幣の一部(右)と米ドル紙幣の一部。6月撮影(2010年 ロイター/Nicky Loh)

 [ワシントン 15日 ロイター] 日本は為替市場で単独での円押し下げ介入に踏み切ったが、これにより中国の人民元切り上げに向けた欧米の取り組みは難しくなった。アナリストは、単独介入は自国通貨安による近隣窮乏化政策を助長するリスクがあると警告する。

 15日には、コロンビア中央銀行が自国通貨高抑制に向け、1日当たり少なくとも2000万ドルのドル買い介入を始めることを明らかにした。ブラジルのマンテガ財務相は、他国がブラジルを犠牲にして自国通貨安を志向する中で、「競争を眺めている」傍観者的態度を取るつもりはないと言明した。

 タイでは経済界が行き過ぎたバーツ高を抑制するよう要請。アナリストはタイをはじめ他のアジア諸国が日本に追随するリスクを指摘する。

 米下院歳入委員会は15日から人民元問題に関する公聴会を開いているが、レビン委員長は「中国だけが略奪的な為替政策をとっているわけではなかった」として、日本の介入に「非常に困惑している」と指摘。「中国の行動が日本に影響し、日本の行動は米国に影響する」と述べた。

 一方で米ホワイトハウス、財務省、連邦準備理事会(FRB)はコメントせず、日本の当局が米当局に沈黙を働きかけたことを示唆した。この沈黙は米当局が直面する難題を浮き彫りにする。BMOキャピタル・マーケッツ(シカゴ)の通貨ストラテジスト、アンドリュー・ブッシュ氏は「中国当局が実質的に同じことをして批判されているのに、日本だけが容認されることはない」と述べた。 

 ガイトナー米財務長官は先週、ブルームバーグとのインタビューで、日本が為替介入した場合に支持するかとの質問に対し「日本も米国と同様に、経済成長を強め、景気回復を確実にするための措置に焦点を当てるべきというのが私の見解だ。それが米国など日本の貿易相手国にプラスになる」と述べていた。

 10月初めにはワシントンで国際通貨基金(IMF)・世銀の秋季会合や7カ国財務相・中央銀行総裁会議(G7)、11月初めには韓国での20カ国・地域首脳会合(G20)を控えていることもあり、今回の介入はタイミングも微妙だ。

 G7参加国が過去に介入を実施した際は、協調介入が多かった。通商上の通貨価値を有利にする今回のような単独介入に対して、ユーログループのユンケル議長(ルクセンブルク首相)は「単独での行動は、世界の不均衡に対処する上で適切な手段ではない」と述べた。

 アメリカン・エンタープライズ研究所のデズモンド・ラクマン研究員は、「安全通貨」としての円がこの1年で急騰したことを日本の当局が懸念しているのは当然だとの見解を示している。円の上昇は、米国の低金利や米欧の一段の金融緩和の可能性に対する世界の投資家の反応も一因となっている。 

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windows7 タスクバーを右クリックしても最大化が選べない
    「何も選ばない」生き方のすすめ

XPの頃から利用しているMicrosoft Photoeditorを
windows7で利用しているのだが、時々、起動後に
画面が開かなくて困っている。

確かにアプリは起動しており、タスクバーの右端に
アイコンも増えている。そのアイコンをクリックしても
画面上に開かないし、右クリックで終了を選択しても
ビープ音が鳴るだけ。XPのように右クリックで最大化
(元のサイズに戻す)できれば・・・と思ってやってみるが
windows7では選択できない。

なぜ、アプリがオープンしないのか?は、判らない。が、
調べてみたら、最大化する方法があったので備忘録
しておく。

  【Alt+スペース】


タスクバーのアプリをクリックして選択しておいて、
キーボードのAltキーを押したままでスペースバー
(スペースキー)を押す。ショートカットメニューが
画面の左上に現れる。その中に「最大化」が
あるので選択する。これで、画面上にアプリが
開かれると思います。

※この他に、Shiftキーを押しながら右クリックする
 方法で解決する場合もあるようです。


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山形県といえば、庄内藩
    「何も選ばない」生き方のすすめ

日刊ゲンダイ2010年9月9日掲載の記事に「民間調査大手の東京商工リサーチにより、社長を輩出している確率が最も高いのは、意外にも山形県であることが分かった。出身地別の社長数が各都道府県別の総人口の何割を占めているかを表した“輩出率”で見ると、山形が1.28%と、香川県の1.21%、徳島県の1.19%を抑えてトップに躍り出た。」というのがあった。「首都圏3県は全国ワースト3」ということなので、分析方法に疑問も感じるが、山形県といえば、庄内藩。同じく官軍に逆らって明治初期に弾圧を受けた会津藩とともに、その後の藩の人々が非常に気になっていた。このニュースを読んで、出世している方々が多いことを知り、何か脈々と流れるものがあるのかとも想像してみた。


1 三島通庸 1879年(明治9年)8月22日 鹿児島県 前鶴岡県知事
2 折田平内 1882年(明治15年)7月13日 鹿児島県 山形県知事
3 柴原和     1886年(明治19年)7月19日 兵庫県
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%BD%A2%E7%9C%8C%E7%9F%A5%E4%BA%8B%E4%B8%80%E8%A6%A7)

戦後、民選知事になるまでは明治政府の派遣する人々が県令(知事)に任命されており、特に初期の県令についてはお決まりの佐賀県や鹿児島県からの選出が多く、薩摩系が独占の様相は、維新時に徳川についたり幕府直轄地だった他の県と同様に受け入れざるを得ない屈辱だったであろう。

三代目の柴原和は兵庫県の出身だが、兵庫県といえば初代の県令は伊藤博文であり、この頃になると既に頭角を現して、県令の選出に影響力を持っていたのかも知れない。


三島通庸 写真
(http://www.ndl.go.jp/portrait/datas/335_1.html)

県令時代は、住民の反対を押し切り強引に土木工事を進める手法から、「土木県令」や「鬼県令」の俗称で呼ばれた。三島は人民に対しては傲岸な態度で臨み、強引な課税や労役賦課、寄付金強要を行なうなど、批判に対しては弾圧一辺倒であった。
1887年(明治20年)12月25日、三大事件建白運動や大同団結運動など自由民権運動の高揚に対し、皇居付近から「危険人物」を排除する事を目的とした保安条例が勅令によって公布されると、警視総監として即日施行した。当時の首相伊藤博文は条例に反対であり、内務大臣山縣有朋も消極的な態度であったものの、三島は条例を積極的に推進していたとされる。弾圧の対象人物に尾崎行雄、片岡健吉、中江兆民、星亨などがいた。
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%B3%B6%E9%80%9A%E5%BA%B8)



ところで、三島通庸という人は初代の県令だが、上記の説明にあるように強権的に山形県に乗り込んでいったことが判る。明治政府の庄内藩に対する厳しい姿勢が見えるが、山形を離れた後は、強権的すぎて、落ち着きをとりもどした新政府には面倒な人物だったのかも知れない。それにしても、墓が青山墓地で一番に巨大とは・・・絶句。

庄内藩については、会津藩に比べたら非常に穏便に事後処理がなされたようで、残された民衆に対しては弾圧が続いたと思われるが、庄内藩の藩主酒井家には寛大な処置で取りつぶしなどは免れているようだ。この頃、県令として乗り込んだ三島通庸や折田平内、柴原和など子孫が山形県に残り、民衆ともども山形県を発展させた明治~昭和期を礎に、平成に入っての社長排出トップという名誉を得ているのかとも思って、現在の名字の分布を調べてみたが、この予想は全く外れてしまう。ほとんど、上記3名の名字の世帯は残っていない。招かざる客として3年から4年間を県令で過ごし、次の任官地や、地元とか東京に移ったものと思われる。この頃からの山形県民の権力に逃げないパワーがトップを排出しているのかも知れませんね。



以下は引用です。

 時代は飛んで、幕末期。
 戊辰戦争において、会津藩と共に征討の対象となった庄内藩は、新政府軍との戦いにおいて、最終的に約4500人の兵を動員したのですが、その内の約 2200名が、実は農民や町民といった領民達によって組織された民兵でした。この民兵の割合は、非常に異例なもので、このような高い比率は他藩には見られず、庄内藩だけに見られることです。
 このように、庄内藩の戊辰戦争は、藩士と領民とがまさに一丸となって、新政府軍と相対しました。そして、戊辰戦争後、庄内藩が新政府から、会津若松への転封や賠償金の請求を命じられた際にも、領民はその転封撤回の嘆願活動を行ったり、賠償金支払いのための基金として、藩に対し献金したりと、藩と領民が一丸となって、庄内藩に訪れた危機を乗り越えようとしました。
 その結果、明治に入ってからも、庄内藩は転封することもなく、鶴ヶ岡を中心拠点にし、松ヶ岡開墾場に代表される県内の殖産興業に努めることが出来たのです。
 天保おすわり事件、戊辰戦争、そして明治に入ってから訪れた転機、この庄内藩を襲った様々な危機に対し、深い絆で結ばれていた藩とその領民達は、まさに一心同体となって乗り越えたのです。
(http://www.page.sannet.ne.jp/ytsubu/turuoka.htm)


(近世)江戸期の藩名。鶴岡藩ともいう。譜代・中藩。居城は鶴岡。出羽国の西南部,はじめは遊佐(ゆざ)郡・田川郡・櫛引(くしびき)郡を含み,寛文4年以後は飽海(あくみ)郡・田川郡の2郡となる。藩主酒井氏は新田源氏の末裔,徳川氏と同祖の家柄,始祖左衛門督忠次は徳川四天王の随一といわれ,家康の叔母碓井姫を室に迎え,永禄7年三河国(現愛知県)吉田城主となった人物,2代家次の時,天正18年下総国臼井(現千葉県佐倉市付近)3万石,慶長9年上野国高崎(現群馬県高崎市)5万石,元和3年越後国高田(現新潟県上越市)10万石となり,3代忠勝の時,元和5年信濃国松代(現長野県長野市)10万石に移り,同8年山形藩最上氏の改易にあたり,出羽国庄内に入部。歴代の藩主は次の通り。初代忠次―2代家次―3代忠勝―4代忠当―5代忠義―6代忠真―7代忠寄―8代忠温―9代忠徳―10代忠器―11代忠発―12代忠寛―13代忠篤―14代忠宝。酒井氏の庄内配置の目的は,山形の鳥居忠政を中心に,忠政の女婿庄内の酒井忠勝,妹婿真室の戸沢政盛,従弟上山の松平重忠,忠勝の弟左沢(あてらざわ)の酒井直次,同じく忠勝の弟白岩の酒井忠重などを麾下とする戦略体制の樹立にあり,奥羽の外様大名の監視を目的とした。庄内藩領は最上川で南北に分断され,川北に亀ケ崎城,川南に鶴ケ岡城の2城があった。忠勝は鶴ケ岡城を居城に定め,出羽国第一の港町酒田を城下とする亀ケ崎城には城代を置いた。入部当時の鶴ケ岡城は本丸だけの小城であったので,二の丸と広大な三の丸を取り立て整備したが,質素な城で,天守閣はなく,石垣も少なく, 完成後も角櫓は2基にすぎなかった。三の丸には役所や家中(侍)屋敷,藩主の菩提寺大督寺などを配置,曲輪(くるわ)(三の丸)の東側と南側に町人町を配置,その外側と曲輪の北と西には家中や給人(下級武士)の町や寺社を配置した。元和8年の御知行目録によれば,石高は13万8,071石余,同年の出羽荘内寺社領目録では寺社領高合3,530石余(うち羽黒領1,460石余)。元和9年全領に検地を実施,5万3,000余石の出目を検出,忠勝は幕府に対し 20万石の役儀を願い出たが許されなかった。寛永9年加藤清正の嫡子,肥後熊本藩主加藤忠広が罪を得て庄内藩に預けられ,左沢1万石を給された時,忠勝は忠広を丸岡村(現櫛引町大字丸岡)に置き,左沢1万石を丸岡1万石への変更を進言,その替え地として左沢1万2,000石を給され,庄内藩の石高は14万石余となる。正保4年忠勝病死,その遺言により三男忠恒に松山(松嶺)藩2万石(左沢1万2,000石を含む),七男忠解(ただとき)に大山藩1万石を分知,天和2年次男忠俊の子忠高に余目(あまるめ)5,000石を分知したが,庄内藩の表高は変わらず14万石余であった。しかし実高は漸増し,貞享元年18万石5,302石余,宝暦8年19万2,626石余となる。丸岡藩領は承応2年忠広の病死とともに収公。大山藩は寛永8年藩主に嗣子なく急死,同9年改易。余目領は元禄9年酒井忠盈が嗣子なく病死,家断絶。いずれも幕府領となったが,田川郡のこれら公領2万7,000余石は,幕末の江戸市内取締りと新徴組委任の功に対し,元治元年庄内藩に与えられ,同年17万石格式の大名となった。この間,田川郡の幕府領は承応2年~寛延元年,寛延3年~明和6年,天保13年~弘化元年の128年間の大部分は尾花沢代官支配,大山村に陣屋が置かれ,寛延2~3年,明和6年~天保13年,弘化元年~元治元年の67年間は庄内藩の預り支配を受けた。慶応二年寅御物成御勘定一紙によれば,高辻19万1,611石余,御加増地高辻2万7,138石余,新田高1,771石余,合計22万520石余とある。庄内藩の経済的基盤は米作農業にあり,その基礎は最上氏時代の青竜寺(しようりゆうじ)川・中川堰・北楯堰・因幡堰など大灌漑用水路の開削によって確立され,庄内藩は主としてその利用と改良によって新田開発を推進した。小藩から成長して来た庄内藩は最上牢人をはじめ,多くの牢人を召し抱えた。家臣団の構成は,家中(侍)と給人(下級武士)からなり,家中数は初期の達三公御代諸士分限帳では483人, 給人は正保4年の調査では徒士60人・持筒25人・足軽1,000人・諸役人321人・旗巻110人・中間511人,合計2,027人とある。庄内藩の知行制は蔵米知行制,家中や給人に対する知行米,扶持米は米札で支給,米札制度は寛永元年郡代柴谷武右衛門によって創始され,米札は貨幣同様流通した。農民支配の機構は,郡代―郡奉行・代官―大肝煎(貞享4年大庄屋と改称)―村役人。村役人は肝煎と長人の二役制,長人は時代と所によって組頭,添役とも呼ばれた。元和検地の結果,年貢増徴となり,遊佐郡荒瀬郷・遊佐郷の百姓は逃散して抵抗した。藩は大肝煎の失態としてその責任を追及したので,寛永11年遊佐郷大肝煎高橋太郎左衛門による幕府への上訴事件に発展した。この頃忠勝の弟酒井長門守忠重は白岩8,000石を領し,激しい収奪の結果,惣百姓一揆が勃発,百姓側の敗北に終わったが,忠重も責任を問われ改易された。高橋の目安と白岩一揆の訴状は,初期農政の苛酷さを示している。長門守は実家に寄食し,兄忠勝の寵を受け,藩政に干渉するのみならず,忠勝の世子忠当を廃し,自子九八郎を立て宗家乗っ取りの陰謀をたくらみ,忠当擁護派と対立を深めた。忠当派の中心人物高力喜兵衛(4,000石)らはこの事を忠当の岳父であった老中松平伊豆守信綱に訴え援助を求めたが,これを察知した長門守に讒訴され,忠勝の逆鱗に触れ,九州に追放され,高力派の多くは死罪や追放に処された。しかし長門守の陰謀も正保4年の忠勝の死によって挫折した。4代忠当の襲封後はその室千万の父松平伊豆守が積極的に庄内藩政に助言し,特に万治3年忠当の死後,5代忠義の代には後見人として藩政の指導に当たった。教えを受けた代官白石茂兵衛の記録「白石茂兵衛覚書」は伊豆守の政治思想を示している。庄内藩政はこの頃基礎を確立した。寛文年間は幕藩体制の確立期で,藩財政の再建に辣腕を振るったのが郡代高力忠兵衛であった。財政を緊縮,倹約令を励行,農村に徳政を敷き,百姓の旧債を破棄,脇借を禁じた上で増税を実施した。忠兵衛の収奪強化で, 藩財政は一時好転したが,百姓の不満は大きく一触即発の険悪な空気が領内にみなぎった。忠兵衛は天和元年中川通の百姓から巡見使に訴えられ失脚した。元禄年間には新田開発が盛んに行われたが,藩財政は窮乏し,元禄3年家臣の俸禄を削減する上米(あげまい)制が始められた。享保年間に入ると米は過剰となり, 米値段が暴落して藩財政の危機を招いた。元文4年には日光東照宮の修理に4万8,000余両を費やしたため藩庫は逼迫し,寛保元年には全藩士の禄米と扶持米を取り上げ,1人につき1日米6合と禄米100石に750文の雑用金を支給した。さらに安永4年には藩主の雑用金を7年間半減する建白書が提出された。 9代忠徳(ただあり)は酒田町の豪商本間光丘を登用し,財政の再建に努めたが,天明の凶作で再び悪化し,寛政初期には藩の借財は10万両に及んだ。寛政7 年山浜通代官和田伴兵衛が独断で温海組の未納年貢を切り捨てたことを契機に,忠徳は中老竹内八郎右衛門,郡代白井矢大夫らを改革御用掛に任命,本間家の商業資本との癒着を断ち,農本主義的政策に転換した。まず貸付米8万3,000余俵と貸付金1万3,000余両を切り捨て,代官才覚貸付米金は当分据置きとし,地主に困窮与内米をかけ,その資金で荒廃地の年貢を減じて農村の再建に努めた。その結果農村は立ち直り,藩財政は安定し,庄内藩は神田大黒の異名を得た。また白井矢大夫の進言により士風刷新,能吏養成のため,文化2年藩校致道館を大宝寺に創立し,徂徠学を通じて藩士の子弟を教育した。しかし竹内,白井の失脚の後,文化13年致道館は政教一致の目的から曲輪の内,馬場町十日町口に移され,一部を会所に使用した。庄内藩の徂徠学は水野元朗に始まり,享保10年板行された「徂徠先生答問書」上中下3巻の後半は,元朗の質問に荻生徂徠が答えたものである。庄内でも貞享3年・享保5年・天明3年など大凶作は多かったが,領内の産米で領民の飯米が不足することは一度もなかった。その点からも天保4年の凶作は前代未聞であった。餓死への不安が高まり,9月1日には山浜通由良組水沢村の搗屋2軒が米の買占めを理由に温海組の窮民に打ち毀された。藩はただちに八組郷中両城下大山領その他預け地にそれぞれ1,000俵ずつ計1万2,000俵の救米を給与することを達し,11月には孤独者片輪者長病者で扶養する親族のない者に1,000俵を賜与し,極窮者の救済に努める一方,他国米の買付けに努力し,領民には合積(割当制)を実施し,1人の餓死者も出さずに乗り切った。しかし農民の疲弊は甚しく,藩は天保9年農政改革を断行し,累積した農民の拝借米金を切り捨てたが,それを恩恵として石高20石に1俵の与内米を毎年取立て貯籾を充実し,凶作時においても年貢の確保を図り,農民の負担を更に強化した。天保11年11月越後長岡藩主を川越(現埼玉県川越市)に,武蔵川越藩主を庄内に,庄内藩主を長岡(現新潟県長岡市)に移す三方領地替えの幕命が降った。庄内藩は転封経費の調達を本間家をはじめ領内の大地主や大商人に依頼する一方,未納年貢の納入を督励した。百姓は貯籾が長岡に持ち去られることを恐れ,貯籾の持出反対,夫食米貸付の保証,拝借米の即時取立反対,高1石につき7人の人足徴集反対を嘆願した。新領主の悪評が伝えられ,再検地の不安が高まるにつれて,旧主を慕い,新領主を嫌う感情が強まり,同年12月山浜通西郷組の百姓11名が幕命撤回を求める駕籠訴のため江戸に登ったのを皮切りに,江戸越訴,地元の農民大集会,近隣雄藩への愁訴が続けられた。百姓の転封阻止運動は領主の暗黙の下,大地主や大商人に支持されて高揚し,諸大名の同情を集めたので,幕府は天保12年7月ついに転封令を撤回せざるを得なかった。この農民の運動は大正・昭和の不況期,小作争議が多発した頃,「天保義民」の名の下に農民の理想像として顕彰されるほどの影響力を有した。天保13年幕府は庄内の幕府領2万7,000石の庄内藩預りを中止し,尾花沢代官の直轄支配とし,大山村に陣屋を置いた。代官直轄支配は未納年貢の無利子10年賦,庄内藩が課していた酒役銭の廃止,各種職人の役銭免除などの恩恵を与えた。しかし幕府は弘化元年再び庄内藩預りを命じたため,大山の酒屋を中心とする幕府領の農民はこれを不満とし,阻止運動を起こし江戸登駕籠訴を行ったが,余目領農民の内通があり,効果は現れなかった。幕府領農民は,陣屋役人から庄内藩役人への事務引き継ぎを実力で阻止した。そのため引き継ぎは一時延期されたが,7月に入り幕府役人による首謀者の逮捕が始まり,獄門2名,遠島3名・重追放3名を含む参加者三千数百人が処罰され,事件は農民側の敗北に終わった。天保14年庄内藩は印旛沼疎水工事手伝いを命ぜられ,幕末期に海防問題が重大化した際にも警備が割り当てられた。安政元年庄内藩は品川沖五番台場の警備を命ぜられ,また同6年には蝦夷地に領地と警備区域を割り当てられて,360余人の部隊を派遣し警備と開発に当たった。また庄内藩は文久3年,幕府が募集編成した新徴組を委任され,江戸市中の警備にあたり,翌元治元年には田川郡の幕府領2万7,000余石を加封され幕府側の雄藩として活躍した。当時の庄内藩の実力者は中老松平親懐と江戸留守居役菅実秀であった。しかし庄内藩にも幕府一辺倒を危険視し,公武合体派と気脈を通じるものがあった。その中心は酒井右京,大山庄大夫であり,その周辺には江戸詰や江戸留学の間に世界の情勢を察知した人々が集まり,藩主の交替による政策転換を期待した。第2次長州征伐が失敗に終わった慶応2年10月,主流派は藩内に政策批判の起こることを恐れ,改革派の一斉逮捕に踏み切り,翌3年9月庄大夫の斬罪,右京の切腹など厳しい断罪を降し,藩論の統一を図り,戊辰戦争に臨んだ。慶応4年徳川慶喜が鳥羽伏見の戦に敗れると,庄内藩は慶喜追討の勅命を奉せず,寒河江柴橋領の争奪から天童城を攻撃し,新政府に毅然たる態度を示した。この頃奥羽諸藩は薩長の横暴を憎み,奥羽越列藩同盟を結び,陸奥会津藩に対する寛大な処置を要求したが容れられず,戦争は奥羽越に広がった。しかし新政府軍の攻勢に同盟を離脱するものが相次いだため,庄内藩は違約の隣藩を攻撃し,新庄・本庄(現秋田県本庄市)・横手(現秋田県横手市)を攻略し秋田城に迫ったが,若松城陥落後は各地に敗北が続き,米沢藩降伏後の 9月23日謝罪状を提出した。新政府軍参謀黒田清隆は26日夜鶴岡に入り,藩主忠篤の降伏を認め,27日鶴ケ岡城を接収した。酒井家は12月家名を立てられ,忠篤の弟忠宝(ただみち)が家督を継ぎ,12万石を与えられた。このような寛大な処理の裏には西郷隆盛の支持があったという。しかし同月岩代国若松 (現福島県会津若松市)に転封を命ぜられ,翌明治2年には磐城国平(たいら)(現福島県いわき市)に変更されたが,熱心な阻止運動を展開し,同年7月70万両の献金を条件に居座りを許され,同年9月庄内藩は大泉藩と改称された。明治4年廃藩,庄内藩領は,大泉県・酒田県(第2次)・鶴岡県を経て山形県に編入された。

(C)角川日本地名大辞典



三島通庸が描いた直線
http://wing2.jp/~kaido/yori/mis1.htm

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北海道 美瑛の「青い池」は温泉成分のメタケイ酸
    「何も選ばない」生き方のすすめ

山田べにこさんがテレビ番組で青色の温泉を紹介して
いた際に、メタケイ酸(珪酸)によって発色している
ことを説明してくれていた。

それで思い出したのが、富良野町の近く、美瑛町に
ある青の池のこと・・・。




旅行した当時、こんな色の温泉には出会えて無かったので
「青い池は近くの火山活動している十勝岳から流れ出る
温泉成分かも知れませんよ。」という現地の方による原因の
説明が信じられなかった。その成分がメタケイ酸と
決まった訳ではありませんので、誰か調査をしてくれると
ありがたいですね。

もっと調べて見ると、山田べにこさんのホームページにも
同じような青色の温泉がたくさん紹介されているでは
ないですか!。

べにこのおふろたび
http://www2.ocn.ne.jp/~veniko/index.html


すぐ近くの白金温泉の温泉の色は下記のようなので、
グリーンに近いもののようです。

湯元白金温泉ホテル
http://www.mapple.net/photos/I00101052201.htm


あまりにも幻想的で美しいので、自然の現象とは信じ
られませんでした。もしかしたら、バスクリンみたいなのを
誰かが町おこしのために、夜中にこっそり入れてるのでは・・・
なんて疑ってしまってました。

申し訳ありませんでした!。


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Windows7 タスクバーのサムネイルプレビューを非表示にする方法
    「何も選ばない」生き方のすすめ

タスクバーの上にマウスが乗っかるとプレビュー表示される
のが、とても鬱陶しい。正式には「ライブサムネイル」とか
言うらしいのだが、これを消す・・・つまり、表示しない
ようにする設定はWindows7に用意されていないらしい。

非表示、つまり無くすことは出来ないが、マウスオーバー
した際の感度を下げることで、非表示のようにする
具合の良い方法がある。

【中級~上級者 regeditが使える人向け】
regeditが使える人なら、難しくもないし、危険も少ない。
HKEY_CURRENT_USERControl PanelMouseMouseHoverTime
がデフォルトでは400に設定されているのだが、これを4000
とか、40000とかに上げることでタイミングを遅れさせる。
(regeditを起動して、MouseHoverTimeで検索をかければ
 すぐに見つかるはずです。PCを再起動すれば変更が
 反映されて、マウスを当ててもしばらくは表示されなく
 なります。)



【初心者 regeditが使えない人向け】
下記のようなフリーソフトが入手できるようです。
ユニフォーム姿三四郎は使ったことが無いので、
ご紹介だけさせていただきました。

7 Taskbar Thumbnail Customizer
http://www.forest.impress.co.jp/docs/review/20100318_354867.html



いずれにしても、この変なポップアップを表示させない
ことを願っている利用者は多いようです。マイクロソフト様
には、できるだけ早くタスクバーのプロパティに、
表示・非表示の設定を追加して、簡単に無効にする方法を
提供して欲しいものです。



追伸:タスクバーのプロパティに「Aeroプレビューを使用して
  デスクトップのプレビューする」という設定項目があるが
  チェックをはずしても、プレビュー機能については何も
  影響されない。この設定項目とごっちゃになっている
  回答が多く、混乱を招いているように思える。

インプレス
http://dekiru.impress.co.jp/contents/201/20122.htm

上記のHPに、Aeroについて詳細に設定できるような
記述があるが、今回の問題については改善できる方法に
ついての説明が見つからなかった。しかし、チェックの
組み合わせで、無効にする方法があるのかも知れません。


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