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信長による家康暗殺計画と本能寺の変
    「何も選ばない」生き方のすすめ

徳川家康が明智光秀に恩義を感じていたことは
間違いない。だとすると、どんな状況で恩義が
成立したのか?が謎となる。

家康は信長に命を狙われていることを光秀からの
情報で知ったとか、実際に暗殺の実行者を信長から
任命されていたのに、光秀が実行しなかったとか。
そういうことなら恩義を感じて、後に光秀の関係者を
優遇したとしても不思議で無い。

明智氏の子孫である明智憲三郎さんの
「本能寺の変 四二七年目の真実 」には、信長の
家康暗殺計画と、それを逆手にとった光秀による
本能寺の変の成功があった・・・と考察されている。
信憑性が高い推理だけど、いくつか引っかかる
こともある。

書籍によると細川藤孝(幽斉)が事前に裏切りを
決めていたことで、光秀は討たれてしまった。
藤孝と秀吉との連携が出来ていたようである。

ただ、明智憲三郎さんは天海の光秀説は否定して
おり、日光東照宮の桔梗紋についても、似ている
だけで別の物と断じている。天海と光秀が別人
だとしても、光秀に縁のある人物であることは
可能性が非常に高い。日光に明智平と命名したこと
などは有名な話だ。

もし、天海が明智氏にゆかりのある人物だという
前提で検証すると、家康の時代に細川家が優遇され
ていたことが引っかかる。同盟関係にあったのに
山崎の戦いに光秀軍として出陣しなくれなかった
細川家に遺恨が残っていたはずなのに、細川家を
生かしておくことに天海は我慢できたのだろうか?。
(天海が光秀の子供などで、同盟関係を知らなかった
 としても、家康は細川家の裏切りを知っている。
 細川家の裏切りで歴史が変わったから、結果
 オーライで責めない?。ちょっと釈然としない。)


こう考えて見ると、細川藤孝(幽斉)は本能寺の変
について、事前に光秀と同盟関係を結んでいる訳
では無く、なんらかの情報戦によって知っていた
程度のようにも思えてくる。いずれにしても、
あまり知られていないが、この細川幽斉というのは、
恐ろしい数々の殺人や謀略を行っている。元総理の
イメージが強かったせいで、幽斉の武者の側面を
知ると、細川家のイメージが変わってしまった。


細川藤孝(幽斉)
   │
   │
┌─┼─┐
忠興 伊也 ─────── 一色義定
    (のち吉田兼治室)


【以下は全て引用です。】

家康の堺からの脱出について

「家康の堺からの脱出について」家忠日記に次のように書いています。
(六月三日)
「京都にて信長に光秀と織田信澄が謀反し、信長が死んだとの知らせが入った」
(六月四日)
家康は堺にいたが岡崎へ帰ってきた。家康以下、伊勢を発って大浜に上陸した。町まで
出迎えに行った。穴山は切腹した。道の途中で信澄謀反は噂に過ぎないと聞いた」

こうして家忠の証言をみると、梅雪の殺害が家康の陰謀たったことは動かしがたい事実と考
えられます。家康と同行した家臣たちは口裏を合わせましたが、思わぬ所で正直者が日記に書
き残していたのでず。

勝頓滅亡後、武田家の名跡は悔雪が継ぎまましたが、梅雪の死後はどうなったのでしょうか。。
いったんは梅雪の子、勝千代が継ぎました。ところが、勝千代は五年後の天正十五年(一五八
二年)に早世し梅雪の系統は絶えてしまいます。そして、この武田家の名跡は武田信吉が継ぎま
した。武田信吉とは誰あろう、家康の五男、万千代が名を政めたものです。

秀吉の使者は、家康が謀反に加担していたというようなことには一切触れなかったととみられます。
一つは、秀吉に捕らえられた斎藤利三が謀反加担者の名前を白状しなかったからです。
利三がロを割らなかったことを知って家康は安堵したに違いありません。このときの利三への強い
恩義の念が、後年、利三の娘の福(後の春日局)を孫の家光の乳母に採用することにつながったと思われます。

秀吉は家康が上洛するタイミングを掴むために、この杉原家次を家康一行に同行させていた。
なぜ家康にわざわざ同行させていたのでしょうか。それは家康が信長に会うために上洛する日が
本能寺の変の起きる日、ということを知っていたからに他なりません。

果たせるかな杉原家次は六月二日の朝、家康の上洛を確認すると、家康一行と離れ、堺を発
って蒲中の秀吉に注進しました。一惟任退治記」には、「備中秀吉の陣には、六月三日夜半
ばかり、密に注進あり」と書かれています。注進した人物の名は書かれていいませんが、家次が
最も早く注進できた人物であることは間違いありません。

藤孝・忠興父子は本能寺で光秀の謀反が起きることを謀反加担者として知っていながら、そ
れに加担しないことを事前に決めていたということです。
すでに本能寺の変が起きる前に藤孝父子が光秀を裏切る決断をしていたのは、藤孝と秀吉と
の間に新たな同盟ができていたからです。それゆえ藤孝の知る情報が秀吉に流れたのです。


細川藤孝への破格の論功行賞

ガラシヤ夫人として有名な細川忠興の妻・玉は光秀の娘でしたが、これも丹後の味土野に隠
させられただけで許され、二年後には大坂城下の忠興の屋敷に住んでいます。他にも光秀の一
族は徹底的に探索され、見つけ出されて殺された中で異例の処置といえます。

玉は天正十五年キリスト教の洗礼な受けて、ガラシャという洗礼名を与えらられ
ました。キリスト教に帰依したのは大坂に移ってからで、夫と舅が父光秀を裏切ったことで心
に大ぎな傷な負い、キリスト教に救いを求めたのでしょう
(ここまで『本能寺の変 四二七年目の真実』からの引用)



明智光秀は、細川藤孝の娘を義定に娶わせることで和議を結んだ。その後は信長に仕え、1581年の京都御馬揃えにも出席、甲斐武田氏の討伐にも細川氏と共に従軍している。 しかし1582年の、山崎の戦いで明智光秀に味方したが、藤孝の婿であったため秀吉には当初は黙認されたものの、やがて、秀吉から義兄の忠興に、義定が謀反を企んでいることの報せが届くと、義定を疑った義父の藤孝と義兄の忠興により宮津城に招かれて殺害された。義定の殺害と同時に、城内に入っていた旗本は皆殺しにされ、城下に控えていた雑兵100人も、松井康之、米田求政率いる軍勢に討ち取られ、その勢いで弓木城も降伏させた。
http://nagoya.xn--hp-nn7dt53b.com/4.html

「幽斉、老衰に及び、余命の程も分りませぬ、婿と舅になったからには、命のある間に親子の対面を致し、この老人を喜ばせていただきたく・・・」幽斉はこういって義俊を案内した。天正10年9月8日(1582)騎士三十六人、雑兵三百余人を従えて宮津に着いた義俊は、雑兵を城外に待たせ、侍どもを広間に残して書院に通された。 まず、忠興と義俊が向かい合い、一色家の家老の日置主殿介(へきとのものすけ)の座は忠興の右側であり後の襖一重隔てて仕手(討手)の士十七人がかくれていた。他の大勢の侍は、義俊を討ち取ると同時に、弓木城に攻めかかるため、玄蕃頭興元、松井佐渡守康之、立行是政らがひきつれて普請場のかげに待機していた。忠興の太刀は、中島甚之允が持って出て脇に置いたが、柄の勝手が悪かったので、米田宗堅が肴を運ぶついでに、わざと袴のすそを触れ、押しいただく拍子に少し鞘走ったのを押し込んで、忠興の手勝手のよいように置きなおした。 いよいよ盃がでた。義俊が何気なく盃を押しいただいた瞬間、忠興は抜打ちに、義俊の肩先から脇腹にかけて切りつけ、返す刀で主殿介に向った。太刀は勢州信長作。三尺八寸余の業物であった。主殿介は驚いてにげ出そうとしたが、中路市之允に討ち取られた。気丈な一色義俊は、脇差を抜こうとしたが、そのままどっと縁側に倒れた。
http://dayzi.com/zisyo/1-tango2.htm

天海の墓は日光が有名だが、実は滋賀坂本にもある。光秀の妻や娘が死んだ坂本城があった場所だ。しかも天海の墓の側には家康の供養塔(東照大権現供養塔)まで建っている。明智一族の終焉の地に、天海の墓と家康の供養塔…実に意味深だ。
http://kajipon.sakura.ne.jp/kt/haka-topic33.html

歌仙 - 兼定作。細川忠興の佩刀。忠興がこの刀で家臣36人を斬った後、三十六歌仙にちなんで名付けた。この刀の拵(外装)は美的に優れた物で「歌仙拵」と呼ばれる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%88%80%E4%B8%80%E8%A6%A7

歌仙兼定 (かせんかねさだ) 細川忠興所用 (「一期一振吉光」さん、紹介も♪)
細川三斎(忠興)の刀。肥後八代に引退していた三斎は、当主忠利を取り巻く近臣達の輔佐ぶりが悪いとして彼らを八代城に呼び寄せ、この刀で首を刎ねたという。その数が36人だったことから三十六歌仙に因んでこう名付けられた。
http://www.geocities.co.jp/Playtown-Dice/8180/syousi.buki.html

南光坊天海説
# 日光東照宮陽明門にある随身像の袴に光秀の家紋である桔梗紋[12]がかたどられている事や、東照宮の装飾に桔梗紋の彫り細工が多数あること。
# 日光に明智平と呼ばれる区域があること。天海が「ここを明智平と名付けよう」と言うと「どうしてですか?」と問われ、「明智の名前を残すのさ」と呟いたと日光の諸寺神社に伝承がある。
# 徳川秀忠の秀と徳川家光の光は光秀、徳川家綱の綱は光秀の父の明智光綱、徳川家継の継は光秀の祖父の明智光継の名に由来してつけたのではないかという推測
# 光秀が亡くなったはずの天正10年(1582年)以後に、比叡山に光秀の名で寄進された石碑が残っていること
# 学僧であるはずの天海が着たとされる鎧が残っていること
# 光秀の家老斎藤利三の娘が徳川家光の乳母(春日局)になったこと
# 光秀の孫(娘の子)にあたる織田昌澄が大坂の役で豊臣方として参戦したものの、戦後助命されていること(天海が関わったかは不明)
# テレビ東京が特別番組で行った天海と光秀の筆跡を鑑定した結果、「極めて本人か、それに近い人物」との結果が出ている。[13]
# 「かごめかごめ」の歌詞は「光秀・天海同一人物」を示唆したもの
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%99%BA%E5%85%89%E7%A7%80


比叡山に、慶長20年2月に「願主光秀」が寄進したと刻まれた石灯籠が存在する。
光秀の位牌を祀る大阪の本徳寺に残存する光秀の肖像画には「放下般舟三昧去」
という裏書があり、そのまま読めば光秀は仏門で余生を送ったという意味である。
斎藤利三の娘である春日局は、初対面であるはずの天海に対して最上礼である
「平伏」をした上で「お久しゅうございます」と述べた。
http://070404.sblo.jp/article/16722350.html

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