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於万の方は実子である媛姫を毒殺してしまった
    「何も選ばない」生き方のすすめ

はなかたみ様のブログ
http://blogs.dion.ne.jp/miraiki/index.html

上記のブログは本当に素晴らしい文体・内容で
常々拝見させていただいております。

「幕末、会津藩への義理から米沢上杉家は、
佐幕派として明治新政府と戦うことになります。」

米沢上杉家は「武士の娘(杉本鉞子)」の舞台となる藩
です。会津藩は「ある明治人の記録―会津人柴五郎の遺書」
の柴五郎さんを生みました。

現在の一般人が得られる情報として、この頃の敗軍の
状況を知る手がかりは少ないのですが、上記の2冊を
読めば、敗軍の中にこそ武士道精神や潔さが色濃かった
こと・・・が理解できると思います。

米沢藩がなぜ佐幕派に拘ったのか?ずっと疑問だった
ので、上記のブログを読んで、その「みなもと」とも
言えるべきエピソードを知ることができました。
ありがとうございました。


表題に戻りますが、媛姫は長女であることから
久しぶりの親子の集まりのうれしさのあまり
嫁入り前の席順で上席に座ったのでしょうか?。
父君が見えて、現時点では妹が上席に座るべき・・・
とたしなめられて、一つ下の毒の盛られた席に
座り亡くなってしまいます。

毒を盛らせたであろう母親の於万の方はもちろん、
姉妹、側近も父君がたしなめるまでは誰もが
その席順に疑いを持たなかった。徳川幕府の
始まりの頃の出来事であり、少し粗暴な時代で
あったはず。保科正之公は少し先ゆくお殿様
だったのかも知れません。いずれにしても
嫁いだとはいえ、まだ19歳の無邪気な年頃だった
お姫様が亡くなった・・・という悲しいお話です。

媛姫様のお墓は、ひときわ大きい立派なもの
だそうで、父君の悲しみの深さがしのばれます。



・・・・・以下は引用させていただきました。

2009年10月19日
清光院さまの話
 清光院 媛姫(はるひめ)。
 米沢藩主・上杉綱勝公の正室にして、会津藩主・保科正之公の息女とされます。
 父である保科正之公は、徳川家光公の異母弟でして、媛姫は徳川家康公の曾孫にあたります。
 上杉景勝公の孫にあたる綱勝公に嫁いだのですが、19才で亡くなったとされます。
 
 これは、別の側室の生んだ摩須姫が加賀前田家に嫁してしまい、媛姫の生母であるお万の方が実の娘が加賀前田家より格下の上杉家に嫁したのを恨み、加賀前田家に嫁した姫を毒殺しようとしたそうです。
 江戸の会津藩邸で保科正之公が姫たちを集め、宴席を設けたところ、お万の方が摩須姫を毒殺しようとお膳を運ばせると、正之公が
 「上杉に嫁した姉の媛媛より前田に嫁した摩須姫は上席であるから席を移すように」と毒の入ったお膳の席に媛姫がついて食事をして絶命したといいます。
 ことの次第を驚いた正之公が調査を命じ、実行者を処罰して、お万の方を幽閉したといいます・・・・。
 亡くなった媛媛さまは、米沢に埋葬され、清光院と号を贈られています。
 米沢・上杉家に負い目を感じた保科正之公が上杉綱勝公の急死後に相続者のいない上杉家に吉良家から養子を迎えて上杉家を相続させます。
 吉良上野介さまの子である上杉綱憲公ですね。

 保科正之公の死後、保科家はお万の方の子である保科正経公が2代藩主となりますが、子がなく異母弟の正容公が3代藩主となります。
 正経公は、正容公に
 「母(お万の方)にあいさつにいっても飲食は慎まれよ。」と注意したといいます。
 のちに保科正容公に「松平姓」が贈られ、会津松平家となっています。
 悲劇の姫さまは、米沢に眠っています。

 出羽・米沢にある清光院さまの墓はこちら
//yone-rinsenji.com/uesugi.html

この記事へのコメント
大河ドラマ「天地人」では、昨日とうとう景勝公の正室・菊姫様が亡くなりましたね。

保科正之公の娘であり、の米沢藩主・上杉綱勝公の正室の媛姫様の悲劇はあまり知られていない出来事です。

しかし因果応報か、金沢・前田家に嫁いだ摩須姫様も短命で、嫁いで僅かで亡くなっています。

摩須姫様の墓は会津若松の会津松平家の奥方や御子が眠る家族墓地にあるのは確認しています。(合葬墓でした)

この媛姫様の毒殺事件で生母のお万の方が幽閉され、正之公のそばから遠ざけられたとの事でしたが、正之公の死後は、現藩主の生母と言う事もあり、わりかし自由の効く身だったみたいです。

現在都内の某寺に残るお万の方の墓は、罪人らしからね立派な墓地みたいです。


Posted by A at 2009年10月19日 22:29
 瑞光院(お万の方)さまは、実子の保科正経公が藩主となり、幽閉を解かれて、その生涯をおえます。
 摩須姫さまの死後、加賀前田家から正経公の正室がいらして、加賀前田家との縁戚関係はつづいています。
 幕末、会津藩への義理から米沢上杉家は、佐幕派として明治新政府と戦うことになります。
 会津藩の家訓の
「婦女子の言 用いるべからず」は、保科正之公がのちに藩主生母となるお万の方が会津藩政に影響をあたえないようにしたためともいわれています。
Posted by はなかたみ at 2009年10月20日 17:15

はなかたみ様のブログより
(http://blogs.dion.ne.jp/miraiki/index.html)
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